プロ野球の世界で輝きを放った選手でも、ケガに泣き、競争の末に球界を去った選手は多い。ロッテで守護神を務めた経験のある荻野忠寛氏の今を追った(全2回/前編も)

 1年目にセットアッパーとして実績を残した荻野忠寛は、2年目の2008年にはMLBに挑戦した小林雅英に代わってクローザーに抜擢された。

「セットアッパーは試合展開によってどこで投げるか変わってくる。それがきつかったですが、精神的には抑えの方が圧倒的にきつかったですね。

 ただ、ボビー・バレンタインが監督だったのは僕にとってはすごくよかったですね。アメリカでは基本的に一度ブルペンで肩を作ったら必ず試合で投げるんです。日本の場合、試合状況次第では、肩を作っても出番がなくて、いったん休んでいたら状況が変わって、急遽また肩を作らされるみたいなことがよくありますが、ボビーの時はそれがなかった。

 それに加えてただ“肩を作ってくれ”じゃなくて“何番バッターに合わせてくれ”とか、“ここで代打が出てもし左だったら行くからな”など明確に伝えられるんですよ。だから僕もここで出番だなというのがわかるわけです。あとから思うと、これは楽だったなと思いました。

 1年目はストレートにカーブとカットボールぐらいしか投げていませんでしたが、2年目はスライダーとスプリットを投げるようになった。球種が増えてウィニングショットも結構増えたのが成績につながったと思います」

ロッテ時代は背番号「0」を背負った ©Sports Graphic Number

スタミナをつけようと取り組んだウェイトが

 2年目、荻野は58試合に登板し5勝5敗30セーブ1ホールド、58.2回を投げて防御率2.45。セーブ数はオリックスの加藤大輔、西武のグラマンに次いでパ・リーグ3位だった。

 しかし――この2年目の成績が、荻野忠寛にとってキャリアハイになってしまった。

「1年目も2年目も、シーズン終盤でちょっとバテてしまったので、3年目はスタミナをつけようとウェイトトレーニングをしたんですが、それで身体のバランスが崩れたんだと思います。

 たまたま3年目の2009年の前半は登板機会が少なかったので、投げない分ウェイトもすごいやった。それでちょっと、ひじがおかしくなったんですね。

 ウェイトをやりすぎて体のバランスが崩れた状態で投げてひじを痛めたのだと思います。ひじが痛くなったのでスピードが出なくなった。実は社会人の時代からひじが痛いときはあったのですが、それでもめちゃくちゃ投げていたから、大丈夫だろうという感じでした。

 今思えば、靱帯がかなりヤバくなっていたわけで、結果が出なかったために6月末にはクローザーから中継ぎになりました。僕はプロで長くやってきたわけじゃないし、どこで投げるというこだわりは全然なかったので、そのこと自体は、それほどショックではなかった。ただ、中継ぎとしては普通の成績でしたが、毎日打たれているような感覚でした。

 シーズン中に医者にも行きましたが、投げられているんだから大丈夫だろうという診断で、結局、ひじが痛いまま30試合くらい投げ続けているうちに、余計に患部の状態が悪化しました」

ひじ、ヘルニア、ひざの十字靱帯……ケガの連続

 3年目も一度もファームに落ちることなく投げたが、53試合に登板し3勝3敗9セーブ10ホールド、49.1回を投げて防御率3.65に終わった。

 ひじの状態は良くなかったが、翌年も一軍で開幕戦を迎えた。

「運のレベルだと思うんですが、たまたまオープン戦で無失点だったんです。でも球速は出ないし、小手先で投げていた感覚でした。で、開幕は一軍でしたが、ひじはもうかなり限界で、すぐにファームに落ちました。そして手術しました。遊離軟骨、いわゆるネズミを除去するクリーニング手術です。6月に手術して、3か月くらいリハビリすればと思ったんですが、可動域が小さいままでしたし、ひじはまだ痛かった。だからその年は全休で、シーズンが終わってまた手術をしました。今度は骨棘を削る手術です。

 さらに2011年にはヘルニアの手術をしました。2012年、13年と少しだけ一軍で投げてはいるんですが、2013年には肩にできたガングリオンの手術をして、さらに12月には膝の前十字靭帯を断裂したので手術をしました。

 実は投げられない期間に、めちゃくちゃトレーニングをしていました。投げられないならせめて他の部分だけでも鍛えようと思っていたんですが、すごく疲れた状態で無理をして体をひねってしまい、前十字靭帯を断裂してしまったんです。2014年は手術をしたばかりで、松葉杖でしたので、キャンプにも行っていません。そしてそのオフに戦力外になりました」

トライアウトでは最速130km台だったが

 こうして荻野忠寛の壮絶なプロ野球生活は8年で幕を下ろした。この間、手術は5回に及んだ。通算成績は178試合9勝11敗40セーブ、172.1回、防御率2.87。8年の在籍中、実働は5年、残りの3年間はリハビリに明け暮れた日々だった。

 荻野の右ヒジは今も曲がったままになっている。

右ひじは曲がったままだ ©Kou Hiroo

 その後、荻野は乞われて古巣の日立製作所に投手として戻り、創部100年の2016年にはエースとして都市対抗野球準優勝に貢献した。

 このオフには「12球団合同トライアウト」に参加したものの、NPBに復帰することはできなかった。11月12日に甲子園で行われたこのトライアウトを見たが、3人の打者と対戦し、四球、左飛、中飛という結果。最速は138km/h。それでも抑制のきいた球を投じていた。

トライアウトに登板した際の荻野 ©Sankei Shimbun

 荻野はプロ野球を去った後、右ひじ靱帯への負担をかけずに投げる投法を独自に編み出した。それもあって日立製作所に復帰してからエースとして大活躍することができたのだ。

「僕は5回の手術を通して、医師の言うことを聞くだけではなくて、自分で自分の体のメカニズムを理解し、故障した時にはどうすればいいか、どんな治療、リハビリをすればいいか、答えを見つけることができるようになりました。医師であっても僕の復帰を助けてくれるわけではありません。自分で考えないとダメなんです」

少年野球などで指導を行っている

 引退後は少年野球など、様々なレベルで、野球指導を行っている。また「スポーツパーソンシップ」という考え方を重視し、スポーツマンとしての野球選手はどうあるべきかの情報発信も行っている。近年は知的障碍者への野球普及活動もサポートしている。

知的障碍者に向けての野球指導を行っている荻野 ©Kyodo News

 こうした多方面の活動をするうえで、プロ野球での起伏の多い8年間の経験は、何物にも代えがたいバックボーンになっているという。

「プロ野球選手は、才能に恵まれているだけでなく、プロに入ってからも、ものすごいトレーニング、努力をしています。そうした努力は、中に入ってみないと絶対にわからない。

 小宮山悟さんは、僕が入団した時には、もう40歳を超えていましたが、登板の前にはすごい準備をしておられました。トップクラスの選手たちの意識の高い練習、野球に向き合う態度を目の当たりにしたから、僕はプロで曲がりなりにも実績を残すことができましたし、その後も活動できているのだと思います。

 野球で生きていきたいと思っている人は、一度はプロ野球の世界を体験したほうがいいと思います。そこでトップクラスのプロ選手がどれだけよく考えて、すごい努力をしているかに触れたほうがいい。たとえ育成契約でもいいから、プロを経験してほしいですね」<前編から続く>

文=広尾晃

photograph by Kou Hiroo