「もっといい選手がいるだろう」
「原の巨人選手びいきで日本代表を選ぶな」
「なんで亀井が選ばれているんだ」
こんな言葉はまだまだ生やさしいものだった。ネットには誹謗中傷する言葉が並び、今ならAIチェックでヤフーのコメント欄が閉鎖に追い込まれてしまっていたかもしれないような、罵詈雑言が溢れていた。
2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表メンバーが発表されると、ニュースサイトのコメント欄にはもちろん連覇を期待する応援コメントが溢れたが、その一方で巨人・亀井善行外野手の代表入りを批判する口汚い言葉がこれでもかというほど書き込まれた。
亀井「実績のない自分が行くのは辛かったです」
「正直、いまだから言えますけど選ばれたくなかった」
10月21日。今季限りでの現役引退を発表した亀井は、引退発表の記者会見であのWBCのことを聞かれると、こう振り返ったという。
「実績もないですし、実績のない自分が行くのは辛かったですし、他にも実績のある人が落選しているのを見て辛い思いをしました」

当時の亀井はプロ5年目。巨人でもレギュラーポジションを確保していたわけではなく、大会前年の2008年の年間成績は96試合の出場で打率2割6分8厘、本塁打5本の23打点と、まさに控え選手の数字でしかなかった。
一方、他チームの外野手に目を向ければ打率3割2分2厘でパ・リーグの首位打者に輝いたことのある当時中日の和田一浩外野手、シーズン40本塁打の記録を持つ阪神の金本知憲外野手や05年に打率3割2分4厘を残していた横浜の金城龍彦外野手や阪神のスピードスター・赤星憲広外野手など数字的には亀井を上回る選手が大勢いたのも確かだった。
ただこのときの日本代表を率いた巨人・原辰徳監督にとっては、熟慮に熟慮を重ねた結果、亀井でなければならない理由があったのである。
亀井でなければならなかった理由とは?
「一番最初に決めたのが、片岡(易之内野手、当時西武)と川崎(宗則内野手、当時ソフトバンク)と亀井の3人だった」
この日の引退会見に駆けつけた原監督は当時のメンバー選考をこう振り返ったが、正確に言えばちょっと違うのかもしれない。

と、いうのも当時の原監督の頭には、代表の骨格を形成する野手が3人いて、その選手を軸にチームのメンバー構成を考えていた。その3人というのが第1回大会でもチームリーダーとして優勝の原動力となったイチロー(当時シアトル・マリナーズ)と、当時タンパベイ・レイズでレギュラー選手として活躍していた二塁の岩村明憲内野手、そして原監督がその打撃技術を高く評価していた中島裕之(現宏之)内野手(当時西武)の3人だ。もちろん代表チームは選り抜きのエリートの集まりになり、それぞれのポジションに入る選手は基本的には不動であるが、中でもこの3人に関しては、特に不動のメンバーとして全試合に先発してもらうつもりで、最初に代表入りを決めている。
WBCでは野手は原則的には交代する必要がない
そこで大事になるのがこの3人の控え選手だったのである。
もともと日本代表というチームは、12球団の選りすぐりのエリートたちの集団で、しかもメジャーリーガーも参加するWBCの場合は、そこにイチローのような選手も加わったドリームチームだ。もちろん投手は先発に中継ぎ、セットアッパーに、クローザーという役割分担があり、それぞれの部門の専門職を集めるためには、人数も必要になる。しかし野手の場合は先発したメンバーはこれ以上ない選手たちなので、投手を除く8人は原則的には交代する必要もない。必要があるとすれば相手投手の右左による代打と代走や守備固めの要員ということになる。
しかもWBCではもう1つ大きな問題があるのだ。
それは大会開催の時期の問題だった。
控え選手は練習すらもままならない
大会が行われる3月は、プロ野球開幕直前で選手にとってはシーズンに向けた最後の調整時期でもある。代表メンバーに選ばれると、例年より早めに身体を作り、例年より早めにコンディションを上げていかなければならない。しかも最終調整として必要ならば打ち込みなどを行なって仕上げていくが、最後は渡米しての試合があるために、そういう練習をする時間と場所に制約がかかる。
大会本部が設定した練習しかできないので、シーズンに向けての練習不足を覚悟をしなければならないのである。
レギュラーとして試合に出られる選手はまだいい。控え選手は試合にも出られないし、練習すらも先発メンバーが優先されて、1日のバッティング練習も3人で回して10分などというケースも出てくる。
原監督「特に大変なのはイチローの控えなんだ」
「だから問題なのは3人の控えなんだけど、特に大変なのはイチローの控えなんだ。基本的にイチローは交代させる場面がない。多分、約1カ月の間、試合にもほとんど出られないし、練習時間の制約も大きい。そういう役回りになるのは分かっていて、他のチームのレギュラー選手も嫌がったし、それをムリやり呼ぶことはできないのも分かっていた」
大会後に原監督から聞いた裏事情だった。
要は日本代表という名誉の代わりに、開幕直前までほとんど自分を捨てて、ただひたすら「イチローに何かあった場合のためにベンチに座っている」ことが役割になる。
だからこそ、原監督は自分が指揮するチームの亀井を選んだ。
「亀井は守れるから。おそらくバッティングでイチローに代打を送ることはない。休ませるとしたら最後の守備。ならばきっちり守れる亀井が最善の選択だと思っている」
それが理由だったのである。
本番が始まると侍ジャパンの柱と頼んだイチローは絶不調でハラハラさせたが、結果的に原監督は先発から外すことも、代打を送ることもなかった。そして亀井は日本での第1ラウンドの中国戦では代走からレフトの守備固めに入り、米国に渡った第2ラウンドでは同ラウンド2度目の韓国戦で村田修一内野手が安打を打った際に故障を起こしたため、その代走から左翼に入り、6回に左前安打と8回に送りバントを決めたのが記録に残る打席だった。
亀井「声出しや雑用で貢献したいと思っていきました」
「本当にすごい選手ばかり揃っていたので、自分だけ違うなと思っていた。辛かったです。試合では貢献できないかもしれないですけど、選ばれたからには、選ばれなかった人たちのためにも、声出しだったり、雑用だったりで貢献したいと思っていきました」
亀井は振り返った。
そうしてチームを陰から支えながら準決勝の米国戦で9回に左翼の守備固めに入ったのが最後の出場で、決勝戦では出番はなかった。
それが亀井のWBCで残した足跡だった。
ただ亀井自身は様々な罵詈雑言を浴び、そのチームに選ばれたことを辛く思ったが、それでもかけがえのないものを手に日本に戻ってきたのも事実である。
代表が集合するとイチローのキャッチボールの相手に指名され、練習をつぶさに見ることができた。そのイチローが亀井を評して「いい選手ですね。守備もバッティングも。チームにいてくれたら助かる選手ですね」と原監督に語っていたということを伝え聞いた。
原監督は何度も「困ったときには亀ちゃんがいる」
「偉大な先輩から直接ではないですけど、そう言っていただけて凄く嬉しかったですし、エネルギーをもらったというか、自信をもらったという気持ちでした」
その自信を糧に2009年のシーズンでは打率2割9分、25本塁打、71打点とキャリアハイの成績を残して、あの罵詈雑言を結果で封じ込んで見せた。
「結果として世界一を取れたことで自分に力をもらえた。その年に初めて規定打席にもいったし、ゴールデングラブ賞も獲らせてもらいました。いい経験になった。いま思い返せばそういう風に思います」
引退会見で亀井は自身のターニングポイントとなった2009年をこう振り返った。
ケガに泣いた野球人生だったかもしれない。
そのケガのためについにレギュラー選手となることはできなかったが、あのWBCと同じようにチームにとっては守備でも打撃でも欠かせぬ存在として過ごした17年間だった。
「困ったときには亀ちゃんがいる」

原監督から何度も聞いた言葉だったし、引退会見で改めて原監督は亀井のことをこう評した。
「巨人においての守り神という存在だった」
まさにそれが亀井善行という選手の価値である。
文=鷲田康
photograph by JIJI PRESS