昨シーズン限りで国内トップリーグを担当する審判員を退いた、プロフェッショナルレフェリーの家本政明(48歳)。判定を巡った抗議やバッシングに遭いながらも、笛を吹き続けてきた男の半生を改めて振り返る。全3回の#1(#2、#3へ)

 最後の最後に、求めていたものに出会えた気がした。

 これまでの試練も逡巡も、この日のためにあったとさえ思えた。

 サッカー競技規則の「理念と精神」には心に刻んできた3つの文言がある。

「最高の試合とは、競技者同士、審判、そして競技規則がリスペクトされ、審判がほとんど登場することのない試合である」
「サッカーは、競技者、審判、指導者にとって、また、観客、ファン、運営者などにとっても魅力的で、楽しいものでなければならない」
「IFABは、審判が競技の『精神』に基づき判定を下すよう求めている」

 48歳、家本政明の体内を爽快感が駆け巡っていた。

 プロフェッショナルレフェリーを卒業する感慨がそうさせたわけではない。2021年12月4日、日産スタジアムで主審を担当した横浜F・マリノスと川崎フロンターレの最終節はまるで消化試合の気配など微塵もなく、スタイルとプライドがぶつかって生まれるハーモニーを壊すことなく90分間が過ぎ去った。

 あれから時間が流れても、瑞々しいほどの余韻が残っていた。

「最高に素晴らしい映画を見終わったような心地良さがありました。ああ、これだよなって思えたんです。選手も、観客も楽しかったに違いないし、そしてレフェリーである僕自身も本当に楽しかった。両チームの持ち味が出ていて、凄く魅力的でもありました。もし後輩にどの試合が審判として理想だったかと聞かれたら、絶対にこれだと伝えます」

最後の試合で、最高のサプライズ

 2002年からJリーグを担当して20年目。J1で338試合、J2で176試合、J3で2試合、主審を任された。

 サプライズが待っていた。

 横浜F・マリノスと川崎フロンターレの選手たちが花道をつくってくれた。拍手に包まれてそのなかを通り、両チームのキャプテンから記念ユニフォームを、妻と2人の子供たちから花束を受け取った。

 F・マリノスから今回、家族が招待を受けて「簡単に記念写真を撮りましょう」と伝えられていたが、両チームの選手が入っての大掛かりな写真撮影があるとは聞いていなかった。

 スタンドには「家本さんJリーグの魅力を高めてくれて有難うございました!」「いえぽんお疲れ様でした 次の笛をさあ吹こう!」と横断幕が掲げられる。

 パパ、凄いね。子供たちの声に、思わず顔がほころんでしまう。

 こんなフィナーレが待っているとは、夢にも思わなかった。

両チーム、家族と共に撮影した記念撮影 (c)J.LEAGUE

 審判は中立な立場ゆえにクラブから招待となると中立性を損なうなどと、お堅い人は言うかもしれない。いやいや、ピッチを離れていく功労者にリスペクトを示すのは、スポーツの素晴らしさ。Jリーグ、そしてクラブの枠を超えた配慮に家本は感謝した。Jリーグでレフェリーをやってきて本当に良かったと、心から誇りに思えた。

 10年以上前のこと。

 彼ほど嫌われまくったレフェリーを知らない。今とは真逆のスタイル。厳格にやろうとするあまりにカードを乱発して、結果的にそこがクローズアップされてしまうことが散見された。

 決定打となったのが2008年3月1日のゼロックススーパーカップだった。鹿島アントラーズとサンフレッチェ広島の一戦、怒号と罵声が一人のレフェリーに注がれていた。

 前半12分に鹿島DF岩政大樹が相手GKに背後から近づいて保持していたボールを足で蹴り落とす行為をイエローと判断して2枚目の警告処分で退場にした。PK戦では相手のキックよりも早くゴールラインの前に踏み出したGK曽ケ端準に2度やり直しを命じた末にサンフレッチェ広島が勝利したこともあって混乱が生じた。

 試合の判定を不服としたアントラーズの選手たちに詰め寄られても毅然とカードを提示したことで今度はサポーターがなだれ込んでくる。

 警告11枚、退場者3人。大荒れだった。

2008年、ゼロックススーパーカップで鹿島DF岩政大樹に退場を命じる家本主審(c)KYODO

大バッシングに異例の釈明会見

 シーズン直前のスーパーカップは、レフェリングの指針を示す意味合いもある。PKは特に留意すべきポイントであった。PK戦が始まる前には両GKに再度確認もしていた。家本からすれば、何の負い目もない。90分間のゲームにおいても正しい位置でプレーを確認して、正しくジャッジできたと思っていた。レフェリングの出来栄えを評価するアセッサーからは“合格点”が与えられた。

 しかし「不可解判定」と大バッシングに遭い、レフェリングを問題視された。釈明会見を余儀なくされ、審判委員会から判定をおおむね支持されながらも「冷却期間が必要。割り当てられるチームと家本主審、どっちにとっても不幸」と、当面の割り当て停止を命じられてしまう。

 そのときのレフェリングを、今の家本はどう見るのか。

「はっきり言って、ひどいです(笑)。プロ審判になってまだ4年目。大抜擢されて、気負って空回りした感じがありました。人としての若さや未熟さが如実にあらわれていると言いますか。岩政選手に出した最初のイエローも、(カードを出さずに)“分かるけど、落ち着こうよ”とコミュニケーションを取ったほうが絶対によかった。あの程度の反則にカードを出してしまうと、そこが基準になるのでカードの設定値が低くなる。

 ただ当時は全体の指針として、選手と話をしちゃいけない、笑っちゃいけないというのがありました。厳格にやろうとするのは、僕だけじゃなかった。サッカーの神様に“レフェリーのみなさん、どうあることが望ましいのか考えましょうね”と問われた気がしました。どうしてこんなに叩かれるんだろうっていうのはありましたけど、自分もあの出来事に真摯に向き合い考えなきゃいけないと思いました」

 自宅には無言電話が掛かるようになり、知らないアドレスから「辞めろ!」と書き込まれたメールも届いた。まるで犯罪者のような扱いに、精神的に追い込まれた。

 それでもレフェリーを辞めることまでは考えなかった。

「もし辞めたら、失敗を取り返すチャンスも、サッカーをもっと良くするチャレンジも全部放棄することになるじゃないですか。それだけは絶対にイヤだったんです。イバラの道かもしれないけど、辞めるという選択は違うだろって」

 実際に「スポーツマーケティングの仕事に戻ってきたらどうだ」と誘われてもいた。だが今の状況から逃げたくなかった。

ゼロックススーパーカップから5日後、会見に出席した家本 (c)KYODO

時之栖に移住してリスタート

 静岡・時之栖に家本が“師匠”と呼ぶ人がいた。ケガの治療術と独自のトレーニング理論を持つその人の指導を受けるために、時之栖に移住した。レフェリーとして疲れない走り方や、ファウルを見極められるように動作解析の研究などに没頭した。

 富士山の麓で自転車を走らせて心を洗い、古典に加え心理学や行動経済学など多くの書物も心の栄養剤となった。同志社大学の学生時代にカイロプラクティックの資格を取得しており、ここではアスリートの治療も手伝っている。

 同時に、国際主審としてAFC(アジアサッカー連盟)の要請でアジア各地に出向いて高い評価を得ると、スーパーカップから3カ月後の6月にJリーグで再び笛を吹くことがようやく決まった。

 大自然に触れ、多くのことを学び直し、見つめ直したうえでのリスタート。しかしまだ、大きく考えが変わったというところまでには辿り着いていない。

 自分がレフェリーをやる意義とは何か――。

 その解を家本は探し求めていた。

(つづく)

文=二宮寿朗

photograph by J.LEAGUE