昨シーズン限りで国内トップリーグを担当する審判員を退いた、プロフェッショナルレフェリーの家本政明(48歳)。判定を巡った抗議やバッシングに遭いながらも、笛を吹き続けてきた男の半生を今、改めて振り返る。全3回の#2(#1、#3へ)

 家本政明はどうしてレフェリーを目指すようになったのか――。

 元々はトッププレーヤーを目指していた。中学・高校時代には県選抜や地域選抜にも選ばれたサッカー少年は同志社大学に進学して、1年時からトップチームに入っていた。だが、激しい運動をすると吐血してしまう症状に悩まされ、医師からの勧めもあってプレーヤーを断念せざるを得なくなる。

 サッカーから離れたくない。その思いもあって独断でレフェリーになることを思い立ち、部の協力も得ながら在学中に1級審判員の候補者になり、翌年には当時史上最年少で1級審判員の資格を取得した。

 とにかく楽しかった。ボランチから見る光景と似ていた。プレーヤーではなくなったものの、一番間近でサッカーを楽しめている感覚はたまらなかった。

史上最年少の32歳でプロの審判員に

 卒業後に京都パープルサンガに入社したのも、一般の試合においてレフェリーとしての活動を認められたことも理由にあった。運営担当などクラブの仕事にもやり甲斐を感じたが、報酬を得られるプロレフェリー制度ができたことを機に2003年に退社。イベント会社に転職して、翌々年に史上最年少の32歳でプロの審判員として日本サッカー協会と契約した。

 若いレフェリーだけに年上の選手も多く、なめられているなと感じたことは多々ある。エキセントリックに反応して「逆ギレ」と指摘されたこともある。競技規則のもと毅然とやり通すことでコントロールしたいと考えるのも致し方ないところがあった。

 原点はサッカーを全力で楽しみたい。みんなと一緒になって楽しんでいた男から、その要素がいつしか薄らいでいく。

 2008年3月のゼロックススーパーカップで「不可解判定」と猛バッシングを浴び、6月になってJリーグの担当に復帰以降は落ち着いたジャッジが目立つようになった。とはいえ、彼に劇的な変化があったわけではなかった。「意義」を得るには、ある程度の時間が必要だった。

2010年、試合後にイングランド代表FWウェイン・ルーニーと握手をかわす家本 (c)AFLO

 2010年にはウェンブリーでイングランド代表とメキシコ代表の親善試合を担当した。プレースピードは経験したことがないほど速かった。試合にのめり込むと、順応できていく自分がいた。本場の人たちからそのレフェリングは讃えられた。翌年も審判員交流研修プログラムで再びイングランドへ渡った。サッカーを心から楽しむことでレフェリングが向上していくような感覚を持った。

 プライベートでは一つターニングポイントがあった。ベルリッツ・ジャパン代表取締役社長やドミノ・ピザ ジャパン代表取締役兼COOなど経営畑を歩んできた日本サッカー協会の須原清貴専務理事と交流を持つようになり、論理的思考とビジネス感覚に関心を抱いたことでグロービス経営大学院に入学した。レフェリング向上のためではなく、自分の価値を高め、自分の可能性を広げるためだった。

「須原さんに“ビジネスを体系的に学べば、いろんなことに活かすことができる”と教えていただいて、ビジネススクールに通うことにしました。クリティカルシンキングを学び、自分の思いや考えを論理的に整理したり相手によりわかりやすく伝えるために言語化したり可視化できるようになろう、と。そしてグロービスでは多くの人に出会うことができ、サッカー界の狭い人脈と価値観しかなかった自分の視界が一気に開けたんです。審判の競技規則や審判としての評価ばかり見ていた僕にとっては、大海に飛び出していくような感覚がありました。

 2016年に国際審判を退いたんですが、それまではJリーグだけじゃなくて海外もあったので時差ボケとも戦いながらレポートを書いたり、寝不足のままスクールに行ったりして大変でしたね。でもそれがまったく苦にならない。だって楽しくて仕方がないんですから」

 人脈と価値観を広げ、体系的かつ論理的な思考を深めていくなかでレフェリング自体に大きな変化があらわれていく。自分でも不思議だった。

「病気でサッカーを続けられなくなって、どうしても関わりを持ちたくてレフェリーを始めて、楽しくて面白いから続けてきたのに、それが職業になったらその気持ちが違うほうに向かっていった。サッカーが好きで、審判を始めた頃の気持ちを大事にしなきゃなって思うようになったんです」

“一緒にいいゲームにしましょうよ”

 明らかにレフェリングが変わっていった。

 競技規則に沿って厳格に、仏頂面で笛を吹いてきた人間が、極力プレーを止めなくなった。選手も観客も、そして自分もそっちのほうがサッカーを楽しめるからだ。ただ人間なのだから、自分のレフェリングにミスはちょくちょくある。それも受け入れる。選手がエキサイトしそうになったり、判定に不服があるという空気が伝わってきたりすれば、積極的にコミュニケーションを取った。

 2017年には退場処分の人違い(J2町田ゼルビアvs.名古屋グランパス)など問題視されるレフェリングはあったものの、一つひとつを向上のための肥やしにしていく。

 行き着いた境地は、こうだ。

 “レフェリーの言うことは絶対”と威厳を保とうとするのではなく、“一緒にいいゲームにしましょうよ”と言わば共創のスタンスに立つ。そうするとスムーズに流れていくのも、納得できた。だってみんなサッカーが好きで、ここに集まってくるのだから。みんなが楽しむためにレフェリーはどうあるべきか。自分のやるべきことがはっきりと見えた気がした。ルールファーストから“人間ファースト”になった。

 目指す方向が正しかったと思えたエピソードがある。

 2020年シーズンのある試合において、判定を不服とする川崎フロンターレのルーキー、旗手怜央から「あまりよろしくない言葉」でなじられたことがあった。

 昔の家本なら即座にイエローカードを提示したことだろう。ただ今は違う。キャプテンの谷口彰悟と守田英正に近寄って「今の聞いてたよね? あとはよろしく」とだけ伝え、彼らに対応を委ねた。その後、プレーが切れたところで旗手はわざわざ家本のところまで駆け寄ってきて言動を詫びた。興奮して、つい口にしてしまうことはある。それをムキになってカードを出してしまったら、選手のためにも良くない。彼は試合後にもあらためて謝りに来てくれた。

「自分が何を言うかよりも、誰が言うかが大事。谷口選手、守田選手がどう伝えたのかは知りませんが、2人の言葉に旗手選手は納得したんだと思います。試合中ですから別に謝らなくていいのに……それも旗手選手の人柄だと感じました」

 近年はチームからも選手からもそしてファンからも信頼を集めるレフェリーとして認識されるようになった。

「いえぽん」としてSNSで積極的に発信

 視野を広げていく家本は次の行動に移すことになる。

 ルールのことやレフェリーのことをもっと知ってもらいたいと、ツイッターやnoteなどSNSを通じて積極的に情報発信し始めたのだ。“閉ざされた世界”をオープンにすることが、自分に課せられた役割だと考えた。

「審判の人柄や考え方が伝わっていないから敵対したり誤解も多い。もちろん日本サッカー協会、審判委員会が“守ろう”としてくれているのは理解しています。ただ今は情報をできるだけ開示してみなで共有していく時代ですから、審判界もその流れに合わせていく、もっというならば変わっていく必要があるんじゃないか、と。

 僕がレフェリングでミスをしたら、批判が凄いでしょう? だけど僕の場合、これまでボロカスに言われてきているわけですから、別に今さら何を言われたって大丈夫(笑)。まずはドアを開けて、たくさんの人と触れ合ってみる。考え方を伝えてみる。理解や信頼ってそこから始まるんじゃないかなって」

 距離感や親しみやすさを大切にしたいという思いからアカウント名は「いえぽん」。

 自分のレフェリングに対する説明やサッカーに対する見識、競技規則の解釈などその分かりやすさから反響を呼ぶことになる。批判は、ほぼなかった。むしろ好意的な反応ばかりだった。

 ルールやレフェリングを理解してもらえば、それはサッカーを深く知ることにもつながるし、サッカーをより楽しむことにもつながる。自分のため、レフェリーのためではない。あくまで日本サッカーの発展やみんなの喜びに貢献したいという思いが、積極的な発信に走らせていた。

Jリーグへ戻ってきた長友と笑顔で言葉をかわす家本(c)J.LEAGUE

 もっともっとレフェリー目線からサッカーの魅力を伝えたい。それを自分が率先してやっていきたい。

「レフェリーとして試合中こう対応していけば、こういう結果になるという形はだいぶできていました。なのでそろそろいいかな、と。ほかに優秀なレフェリーはいっぱいいるし、僕にしかできないことで審判とは違った立場でサッカー界に貢献していくべきなんじゃないか、と。そういう考えが大きくなっていったんです」

 2020年シーズン中、彼の心にチラついていた「プロレフェリー卒業」が段々と大きくなっていった。

文=二宮寿朗

photograph by J.LEAGUE