身長200cm、体重100kgの巨体で猛打を爆発させた史上初にしてパ・リーグ唯一の助っ人三冠王。ブーマー・ウェルズが10年にわたる日本でのプレーで最も印象に残るベテラン投手との対戦に思いを馳せた。Number1023号『怪人ブーマーが語る 忘れじのジャパニーズ・エース』の記事を全文掲載します。

「えええ、データが間違っているんじゃないかい。その数字はあり得ない!」

 助っ人外国人としてプロ野球史上初の三冠王を獲得した元阪急の主砲グレゴリー“ブーマー”ウェルズは、自身が挙げたパ・リーグのエース投手との通算対戦成績を明かされると、まっさきに否定した。

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 村田兆治(ロッテ)、東尾修、工藤公康(ともに西武)、西崎幸広(日本ハム)、阿波野秀幸、野茂英雄(ともに近鉄)……中でも圧倒的に高い打率を残したのは村田だった。

「対戦打率は最低のはずだが。なんといっても、ダントツのナンバーワンピッチャーだったからね。打ったという印象は全くない。むしろ苦しんだという思い出しか残ってないよ」

 だが、数字は違う事実を物語る。69打数25安打、打率.362、1本塁打、8打点。

試合中盤までの村田は、攻略しようがなかったからね

 初対戦は1985年だった。ブーマーが来日した'83年は、村田は左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受け、登録を抹消されていた。三冠王を獲得した'84年もシーズン終盤までリハビリが続いた村田とは一度も対戦が実現していない。つまり、二人が相まみえるのは、村田が手術をした後の35歳からだ。

村田兆治 ©Sports Graphic Number

「確かにオールドマンだった」とブーマーは笑いながら村田との対決に思いを馳せる。

「パ・リーグのベストピッチャーだったね。25本もヒットを打てたのだとしたら、大半は6回以降だったはずだ。それ以外、説明がつかない。村田は手術後で年齢を考えれば、体力的に6回までは持つ。でも交代するべきタイミングで日本の監督は降板させないだろう? だから日本の文化のお陰で村田を打てたというわけさ。試合中盤までの村田は、攻略しようがなかったからね」

私がロッテの監督だったら、村田の完投はゼロだね

 対戦した'85年から'90年、村田は136試合に登板して43完投した。およそ3回に1回の割合で投げ切ったことになる。

「私がロッテの監督だったら、村田の完投はゼロだね。6回ぐらいで交代させるはずさ。そういう起用をしていれば、いったい彼は何歳まで投げられたんだろう」

 ブーマーにとって特にやっかいだったのは村田の代名詞であるフォークではなく、スライダーだったと明かす。

「誰もが村田のベストボールはフォークだと言う。でも一番苦労したのはスライダーだね。確かにフォークもストレートも良かったが、あのスライダーの伸びは凄かった。伸びるスライダーに独特のモーションが加わると、手のつけられないピッチャーになる。モーションインにこだわり過ぎると、タイミングを崩されてしまうんだ。対戦するときの課題は集中力をモーションインからリリースポイントに移すことだった。決して簡単ではないが、そうすればより早く球種を見極めることができるからね」

落合博満、ブーマー、バースの「三冠王談義」©Sports Graphic Number

35歳以降の村田もかなり難しいピッチャーだったが

 当時の通訳はキューバ出身で'55年から助っ人として阪急、近鉄でプレーし、引退後はコーチなどをして長年日本球界で活躍したロベルト“チコ”バルボン。手術前の若い頃から村田の投球をずっと見てきた。

「チコはベンチで横に座って“おい、ブーマー、村田はもっといいピッチャーだったよ。信じられないぐらい難しかった”と叫び続けるんだ。“うるさいよ!”と僕は言い返していた。“今も十分苦しんでいるんだから若い頃の村田は知らなくていい”ってね。でも、振り返れば全盛期の村田を知りたかったという思いもある。どの時代でも、最も優秀なピッチャーと対戦するのは刺激的だし、勉強にもなる。やっぱり勝負してみたいものさ。ボールの質はどうか、それにどう対応するのか――興味は尽きない。35歳以降の村田もかなり難しいピッチャーだったが、若い頃に対戦していたらどんな勝負になったんだろうね」

 勝負好き、研究熱心なブーマーは、村田をはじめとする日本人投手たちへの対応策を考えれば考えるほど、自身の打撃が向上していくことを実感した。

 その原則は自分だけに当てはまるわけではないという。

東尾はアメリカのピッチャーに似ていたかな

「アメリカのバッターは日本の経験で生まれ変わるんだ。マット・ステアーズ(中日)やセシル・フィルダー(阪神)はその好例さ。二人とも1年しか日本にいなかったけれど、アメリカに戻ったらバッティング技術がずいぶん高くなっていたからね。フィルダーは2年連続で本塁打と打点の二冠王になったし、ステアーズは中日で好成績を残せなかったが、アメリカに戻って18シーズンもキャリアを伸ばした。日本は打者にとって打撃を勉強するのに格好の場なんだ」

 ブーマーにはもう一人、印象に色濃く残るベテランピッチャーがいた。

 西武のエースとして通算251勝をあげた東尾修だ。村田と同様、その実力を評価しており、対戦成績は110打数33安打。打率こそ3割ちょうどだが、通算9本塁打と打ち込んでいる。

西武時代の東尾修 ©Sports Graphic Number

「東尾は、勝負強くていいピッチャーだった。どちらかというと投球スタイルはアメリカのピッチャーに似ていたかな。日本人バッターは結構苦しんでいた。勇気があって平気でガンガン内角に投げてくるかと思うと、次はベストピッチの外角低めのスライダーで勝負する。でもアメリカンスタイルを経験している自分としては、そのスライダーが来るのを待って打てたわけさ」

西崎はアイドル扱いだったからこそ……

 村田と東尾のようなベテランとは対照的な、'80年代にドラフトされた4人の若手エース――工藤、西崎、阿波野、野茂――との対戦も楽しんでいたという。

「若いピッチャーたちも良かったね。特に西崎が印象的だった。彼の細い体を見て大丈夫かと思っていたけど、力で勝負してくるんだ。球種も豊富だったし。だが正直に言うと、ハンサムでファッション、車などで注目を集めていてアイドル扱いだったからこそ、より燃えたというのが事実かな」

西崎幸広 ©Sports Graphic Number

 ベテランから若手まで様々なタイプのエースとの駆け引きをすることで、ブーマーの打撃の幅は広がった。その結果、パ・リーグでの10年間で通算打率.317、277本塁打、901打点という成績を残した。

 そんな怪人ブーマーがやっぱり忘れられないのは“オールドマン”村田兆治との対戦だった。

文=ブラッド・レフトン

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