大引啓次とのインタビューはリモートで行ったが、それに先立って大阪府内の少年野球チーム、堺ビッグボーイズのグラウンドで顔を合わせた。大引は中学生にアドバイスをしていたが、全体練習の後、中学生とともにノックを受けた。

 大引に飛んだ打球は一瞬で方向を変えて二塁手のグラブに吸い込まれる。捕球するのではなく、打球の方向を変えているだけなのか、と思えるくらいスムーズだ。筆者はかなり長い時間、大引の守備に見とれてしまった。

©Kou Hiroo

 そんな大引は2013年、オリックスの選手会長に就任したのだが――突然、日本ハムの中心打者、糸井嘉男の移籍話が持ち上がる。これに巻き込まれる形で、大引は木佐貫洋、赤田将吾とともにオリックスから日本ハムに移籍したのだ。第2回は電撃トレードの知られざる話から聞いてみた。(全2回/#1も)

よくよく聞いてみれば、「自分の話やん!」

「さあキャンプへの荷物出しをしようという日の朝10時に球団から呼ばれました。たまたま契約書に印鑑を押す用事もあったし、キャンプの荷物出しもあったので、その件かなと思ったのですが、行ったらトレードの話をされたんですね。でも『トレード』という言葉がすぐに頭に入ってこなかった。当時選手会長になりたてだったので、“大きなトレードで選手に動揺が走るかもしれないから、選手会長としてまとめてくれ”という話かな、と一瞬、思ったんですが、よくよく聞いてみれば、『自分の話やん!』ということでした。

 キャンプへ送る荷物の行先も、オリックスの宮古島から日本ハムの名護に変わりました。例年は(キャンプインの)少し前に宮古島に入って仲間と自主トレをしていたのですが、それもできなくなって、1月の後半は心にぽっかり穴があいたような、一人寂しい自主トレでした。

 しかも、このタイミングで結婚したんです。大阪からキャンプで沖縄に行って、帰りは大阪に行かず北海道に直行です。家内が家の荷物をまとめてくれて、私がキャンプに行っている2月に北海道の不動産屋に行って部屋を探してくれました」

金子誠さんにボソッと言われたこと

――まさに電撃トレードで日本ハムへ。そのチームの正遊撃手は、大引さんが目標としてきた金子誠選手でしたね。

「金子さんは、ひざの手術をされて、ご本人も『ショートを守るのがもうしんどいから、サードかセカンドになると思うわ』とボソッとおっしゃいました。

 私がトレードされたのは、栗山英樹さんが監督に就任されて優勝した翌年でした。オリックスでは、ベンチの指示でボールを待つような自己犠牲的な打者だったので、日本ハムでもそういう役割かなと思ったら、“そんなに待たなくていいから、どんどん好きなようにやってくれればいい”ということでした。その言葉が背中を押してくれましたね。

 日本ハムに行ってからオールスターにも選ばれましたし、ちょっと胸を張れるような選手になったかなと。ヤジを飛ばすお客は大阪の方が多かった一方で、北海道は地元愛が深いというか、負けても“あー今日はいい試合だったね”みたいな。温かいファンだったと思います」

翔平は、彼なりの哲学と言いますか

――この年、日本ハムには大谷翔平選手も入団しました。

「入団同期ですが、翔平がまさかここまで手の届かない存在になるとは夢にも思っていなかったですね。もちろんすごい選手でしたけど、ピッチャーとしてはまだまだ制球にばらつきがあったし、球は速かったけどコントロールは今一つだな、という印象でした。打者としても非常に柔らかくて飛距離もあるバッターでしたけど、まだまだ縦の変化についていけていないような。泳がされてとんでもないワンバウンドも三振していました。

 人間的には懐に入る人懐っこさとともに、彼なりの哲学と言いますか、納得しないといくら先輩だろうが “なんでそうなるんですか?”、 “それ、何のためにやるんですか?”と聞き返す。言葉遣いは丁寧ですけど、頑固さは当時から持っていましたね。これはいい意味での頑固さなんですけどね」

2013年の大引と大谷 ©Sports Graphic Number

ヤクルトに加われば優勝できるかなと

――日本ハムでは2シーズンともに規定打席に達し、オールスターにも出場した大引さんはFA権を行使し、ヤクルトに移籍しました。

「オリックス生え抜きのままだったら、FAしていなかったと思います。日本ハムでは“自分はやはり外から来た選手だ”という自覚がありました。それからセ・リーグの野球も見てみたいなと思いました。神宮はずっと大学時代からプレーしてきましたし、辞めた時に指導者としての幅を広げておきたいという思いもありました。

 実は、私がヤクルトに加われば優勝できるかなという気持ちもあったんです。“ヤクルトは2年連続で最下位でしたが、どうもショートがウィークポイントやぞ”、と。そこに自分が入ることで……私としては現役の間に一度は優勝を経験してみたいなと思いました。

 それから日本ハムの1年目に選手とコーチの関係でやらせてもらった三木肇さんが、ヤクルトのコーチに就任されたのも大きかった。三木さんは、非常に野球をよくご存じで、私の野球観とリンクするところがたくさんあり、もう一度一緒にやってみたいなと思ったんです」

パとセでは野球のスタイルが違った

――初めてのセ・リーグはやはりファンの反響が違ったそうですね。

「やっぱりセ・リーグのファンは熱狂的と言いますか、平日のナイターがあれだけ埋まるのはセ・リーグやなと感じましたね。もちろんヤクルトもそうですし、カープや阪神、ジャイアンツの3球団は本当にファンが熱狂的で、カープのときは神宮球場の6割くらい赤に染まっているんじゃないかという感じでした」

――セ・リーグでは野球のスタイルも違いましたか。

「セの野球はノーアウトで初回にランナーが出たら、2番が簡単に送っている場合じゃない。送るだけじゃなく、打っていったり、粘ったり色々な作戦に転じられる選手でないときついなと感じましたね」

2015年の大引 ©Sports Graphic Number

――そして大引さんの予想通り、この年のヤクルトは真中満監督のもと、リーグ優勝を果たしました。

「私の優勝経験はこの年だけです。首位打者が三塁の川端慎吾、打点王が一塁の畠山和洋、ホームラン王が二塁の山田哲人と、私の周りにいる内野手が全部打撃タイトルを取っていまして(笑)。私はわき腹を痛めてしまって96試合の出場にとどまりました。でも、私が故障から復帰したときにチームはまだ下位だったんです。そこから団子レースを勝ち抜いて優勝したので、その一翼を担えたのかなと。優勝は格別ですね。苦労が報われた感じがしました」

ショートができないのならいつ引退してもいいかな

――キャリア最後の2年間、大引さんは三塁を守りました。

「もうショートができないのならいつ引退してもいいかな、というのはありましたね。当時の小川(淳司)監督にもっと積極的に“もう1回やらせてくれ、その上で今ショートを守っている若い子に自分が劣るのであれば、二軍でいいです”と言えばよかったとは思います。でも、チームから守備固めで三塁を守ってくれ、サードの面倒を見てくれ、という気の遣い方をされたので、言い出せなかった。自分のプライドもあるし、チーム事情もありますから、大きな葛藤でしたね」

 このあたり、プロの内野手として長年やってきた職人選手ならではの心の動きではある。

 筆者は現役最晩年の大引を宮崎県西都市の二軍キャンプで見ている。大引は新人、若手選手に交じって黙々と体を動かしていた。

「個人的には“この子らにはまだ負けへんな”とは思いましたし、ただ一軍で長いことやっている選手はこういう練習をしてるんだ、といういい見本になればと思ってキャンプを過ごしていました」

 こうして大引啓次は2019年限りで引退する。1288試合に出場し1004安打、オールスターには3回選出された。

2019年2軍キャンプでの大引 ©Kou Hiroo

将来的には、大学などアマ野球を指導できたら良いな

 そして引退後、大引には独立リーグのコーチの声もかかったが、大学院で学ぶ道を選んだ。

「(浪速高校時代の恩師である)小林敬一良先生に相談したところ、もう一度外で勉強しなさいと言われて、大学院に行く決意をしました。

 その前にメジャーリーグを視察したいと思い、日本ハム球団にご紹介いただいて自費でレンジャーズのキャンプの視察に行ったのですが、あいにくコロナで1か月だけになってしまいました。

 大学院とは“自分で研究するところ”だと知って、大学ではなく指導者で進路を選ぶことにして日本体育大学の伊藤雅充教授のもとで、コーチングを学ばせていただいています。

 将来的には、大学などアマチュア野球を指導できたら良いなと思っています。高校野球は実質2年数カ月で終わってしまうので、あまりにも期間が短いです。やはり、大学、社会人でじっくり教えたいなと思います」

 ちなみに早稲田大の野村徹元監督は、法政大1年の大引を見て「下級生だが周りもよく見えていて、素晴らしい選手になるのではないか」と言ったそうだ。見る人は見ているのである。選手としても一流になったが、大引は指導者として“すごい存在”になるのではないか。

未熟ですが、例えば10人の選手がいたとしたら

 堺ビッグボーイズで大引は中学生たちを相手に内野守備の指導を行った。自らの身体を使って、守備に大事な身のこなし、打球や送球の「待ち方」などを熱心に教えている。子どもたちには、これがどれだけ「贅沢な時間」であるのかを知ってほしい――とも感じる。

©Kou Hiroo

「私の指導者としての原点は、高校時代の恩師、小林敬一良先生です。答えを押し付けるのではなく、選手に考える余地を与えること、選択肢が多くあること、コーチングには絶対的な解がないということを教えていただいたことが今につながっています。

 私もまだまだ未熟ですが、例えば10人の選手がいたとしたら、そのうち一人を育て上げる“名コーチ”ではなく、なんとか10人全員進むべき道に導いてあげられるような指導ができるようになりたいと、勉強を続けています」

<第1回から続く>

文=広尾晃

photograph by Hideki Sugiyama