2021年から2022年(対象:12月〜4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。契約更改・戦力外通告部門の第4位は、こちら!(初公開日 2021年12月12日/肩書などはすべて当時)。 日本ハムの新監督に就任した“ビッグボス”新庄剛志(49歳)。1989年ドラフト5位で阪神入りし、2006年に日本ハムで現役引退した。去り際の熱いドラマを描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)の著者が、新庄のプレイヤーとしての「最後の1年」までを振り返る。(全2回の1回目/後編へ)。

「阪神の内野が吉本からジャニーズへ」

 これは『サンデー毎日』92年7月25日号の新庄剛志“目立ちたがり屋のニューアイドル”特集の見出しである。そらそうよ……じゃなくて、当時20歳の若虎はレギュラー三塁手オマリーの骨折でチャンスを掴み、5月26日の大洋戦、シーズン初スタメンの初打席で初球をとらえ、甲子園の左翼席へプロ初ホームランをかっ飛ばす。いわば、ひと振りで人生を変えてみせたのである。

1992年5月26日、大洋戦の第1打席でプロ初ホームランを放った新庄

 新庄はこのプロ3年目のシーズン、前年の巨人戦でプロ初安打を放つも開幕一軍40人枠から外れ、希望していたアメリカ留学も叶わなかった。ドラフト5位入団で背番号63の自分が置かれた立場は理解していた。だから、オマリーの代役でほとんど経験のない三塁ができるかと聞かれたら、「できます!」と即答した。ずば抜けた強肩で俊足、パワーも度胸もある。背筋力220kgを誇り、入団1年目の選手名鑑では「右75キロ、左70キロの握力が自慢」と紹介されている。怪物級の身体能力の持ち主で、おまけにモデル体型のイケメンだ。真っ赤なリストバンドにサラサラの茶髪は、当時の阪神では圧倒的なアイドル人気を獲得する。

92年まで背番号「63」をつけていた

「イチゴのショートケーキが好き…」“亀新コンビ”に取材殺到

 木村拓哉、香取慎吾、一色紗英が表紙を飾る『明星』92年9月号には、“ウブでひたむきな素顔に接近!”とグラビアで取り上げられ、「イチゴのショートケーキが好きなんです。5〜6個はいけます。ほかにも、果物、チョコレート……甘いものはみんな好きです」なんてプリンススマイル。甲子園球場近くの合宿所・虎風荘まで歩いて数分の距離も、サインを求める女性ファンが殺到してしまうため車で通った。この年2位の阪神は最後までヤクルトと優勝を争い、新庄は11本塁打を放ち、オマリー復帰後はセンターに回った守備でも、甲子園の広い外野でファインプレーを連発した。

 オフもヘッドスライディングが代名詞の亀山努との“亀新コンビ”に取材依頼が殺到。『週刊ポスト』92年12月18日号では、その様子を亀山自身が「新庄が取材の場所まで来といて、“亀山さん、『アン、アン』て何ですか”やて。これで阪神のトレンディボーイなんやから、信じられんワ」なんてネタにする。翌93年に新庄は背番号5を託され、23本塁打を放ち外野手部門のベストナインとゴールデングラブ賞を初受賞。瞬く間にスター選手へと駆け上がり、阪神タイガースの新たな顔となる。

突然の引退宣言「センスがないから辞める」

 しかし、皮肉にも華とスター性がありすぎて、なにをやっても新庄だけが目立つ。自著『もう一度、プロ野球選手になる。』(ポプラ社)によると、地元・福岡の大先輩、真弓明信の活躍で阪神が勝った試合の翌朝、在阪スポーツ新聞の一面は「新庄、髪を切った」だったという。さすがにこれには本人も絶句する。遠征の移動中も常に記者が追うので、次第に同僚選手から避けられるようになる。もちろん男同士の嫉妬もあっただろう。練習する姿を周囲に見せたくないというプロの美学が誤解を招くこともあった。気がつけば、チームから浮いていたのだ。

 95年オフには監督との野球観の違いや足首の故障時にグラウンドで正座を命じられた件がこじれ、「センスがないから辞める」と唐突に引退宣言。2日後に撤回するが、当時の『週刊ベースボール』に交渉にあたった沢田球団代表の「彼は、ちょっと人と違う。どう説明していいか、僕のボキャブラリーでは言い切れない。考え方が、ちょっと違うんや」と困惑したコメントが残されている。その頃、阪神は万年Bクラスの低迷期に入り、チームの顔の背番号5に対する風当たりも強くなる。97年のオールスター戦では、阪神ファンを中心に応援ボイコットされ、大阪ドームのグラウンドにペットボトルやメガホンが投げ込まれ試合が中断してしまう。

「知らない番号だったから」横浜関係者の電話に出ず

 リーグ最低打率かと思えば、リーグ最多捕殺でゴールデングラブ賞の常連。次に何をするか読めない男は99年に野村克也監督がやってくると、投手との二刀流プランや巨人戦で敬遠球を打ってのサヨナラ安打も話題になった。打率.278、28本塁打、85打点、15盗塁とキャリアハイの成績を残した2000年にはFAで関東の球団への移籍が確実視されたが、交渉解禁当日に横浜関係者が電話を入れるも「(表示が)知らない番号だったから」と繋がらず。もしも、このときに電話に出て横浜移籍を決断していたら、平成球史も大きく変わっていただろう。かと思えば、ヤクルト入りを見越して東京の住居を探したことが週刊誌を賑わした。当然、阪神も大型契約で生え抜きスターの流出を阻止しようとする。しかし、28歳の新庄が決めた新天地はまさかのニューヨークだった。

 打率4割超えと大活躍した日米野球が終わった直後の11月30日に正式オファーがあり、12月11日にメジャー行きを表明。5年12億円を提示したNPB球団ではなく、1年契約の年俸2200万円、契約金・出来高を含めても最大1億1000万円のメッツを選んだのだ。その新天地ではオレンジ色のリストバンドを身につけ、打率.268、10本塁打という成績でときに4番を打ち、翌年トレードされたサンフランシスコ・ジャイアンツではバリー・ボンズとともに外野を守り、日本人選手初のワールドシリーズ出場を果たした。あの周囲が過剰に気を使う超大物ボンズにも物怖じすることなく接すると気に入られ、良好な関係を築く。

巨人・原辰徳監督からの電話も…「これからはパリーグです!」

 メジャーからマイナーまでを経験して、03年秋には日本球界復帰を表明。ここでSHINJOは古巣・阪神でも原監督が誘いの電話をかけてきた巨人でもなく、「これからはメジャーでもない。セリーグでもない。パリーグです!」と北海道に移転したばかりの日本ハムファイターズを日米プロ15年目の舞台に選ぶ。04年のオールスター戦では球宴史上初の単独ホームスチールでMVP獲得。球界再編の真っ只中、ストライキ明けの9月20日ダイエー戦では、札幌ドームでかぶりものパフォーマンス“ゴレンジャー”を結成して、9回裏に劇的サヨナラ満塁弾かと思ったら、一塁走者・田中幸雄が新庄に抱きつき走者追い越し判定で単打に。北海道のファン、そしてチームメイトまで背番号1に乗せられ躍動した。日本ハムは3位に入り、32歳の新庄も打率.298、150安打と自己最高成績を更新。ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞する。

 右手に死球を受け、「右小指球部挫傷」で戦線離脱した05年は108試合の出場にとどまり、ゴールデングラブ賞に選出されるも、「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んで欲しい」と異例のコメントを発表。その派手なイメージとは裏腹に、守備にこだわり、新人時代に7500円で買ったグラブを手入れしながらずっと使い続ける職人肌の一面も持っていた。

 この年限りで日本ハムとの2年契約が終了し去就が注目されたが、11月に年俸2億2000万円アップの総額3億円の1年契約で残留が発表される。ダース・ベイダーに扮しての始球式や自腹で350万円かけて作った特殊メイクのマスクまで、あらゆるパフォーマンスをやった。やり残したことは、もう一度札幌ドームを超満員にすること。日本ハムを優勝させることだ。

 そして、迎えた2006年。稀代のトリックスター新庄剛志は、「最後の1年」を迎えることになる。<後編へ続く>

文=中溝康隆

photograph by Sankei Shimbun