2021年から2022年(対象:12月〜4月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。箱根駅伝部門の第2位は、こちら!(初公開日 2022年1月9日/肩書などはすべて当時)。 東京五輪のマラソンで6位に入賞した大迫傑が佐久長聖高時代に、朝練習から常に挑んでいた先輩がいた。村澤明伸、30歳。大迫は「高校でも、アメリカでもチームの中で一番じゃなかったのが良かった」と語るが、当時、日本人高校生最強と言われた村澤の存在はその象徴だろう。だが、現在はSGホールディングスに所属する村澤は長らく故障に苦しみ、華やかな舞台から遠ざかっている。恩師・両角速が「エースらしいエース」というランナーに、大迫のこと、故障の詳細、そして現在地について話を聞いた。

「高校、大学、実業団と一緒のチームで過ごしたり、道が分かれたり。そうしていく中で私と彼(大迫傑)の結果はどんどん差が開いていく。正直、いやでもそれは目に入ります。彼の活躍は自分を正しく律してきた結果であり、尊敬の気持ちはずっと持っています。アメリカに拠点を置くなど、今まで日本人がやってこなかったこともやってきたわけですからね」

 大迫傑について質問すると、村澤明伸は静かにこう語った。

 高校時代は1学年下の大迫とともに全国高校駅伝で佐久長聖高校を初優勝に導いた。東海大入学後も駅伝やトラックで学生長距離界のエースとして活躍し、特に11年の箱根駅伝2区で、チームを20位から一気に3位へと引き上げた勇姿は今も多くのファンの目に焼き付いていることだろう。トラックでも11年の日本選手権10000mで2位。早稲田大学の大迫とともに、大学卒業後も日本の長距離・マラソン界を引っ張っていく存在と見られていた。

 しかし、その後、村澤は長らく故障に苦しんだ。大迫が活躍した東京五輪は代表権を獲得できず、テレビで観戦するしかできなかった。

「ただ、私にも私なりに積み上げてきたものがあります。それはいいとか悪いとかいう問題ではないと思うんです。もちろんオリンピックは見ていて悔しかったですけど、その気持ちがある以上、まだ自分はやれるはず。今はただ自分を信じたいと思います」

 19年9月に行われた東京五輪マラソン代表選考レース、マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)。村澤は公表はしていなかったものの、その1年以上前からコンディションを崩しており、「今、振り返れば走る前からオリンピックを目指せるような状態ではなかった」と話す。だが結果への言い訳にしたくなかったからか、その前後の時期、自身の体について詳細に口にすることはなかった。

ジョグですら疲れるように…

 当時のことについて口にするようになったのは2021年、東京五輪の直前になってからだ。最初に異変を感じたのは日清食品グループに所属していた2017年春。ペースを上げようとすると意識と体の反応にギャップが生まれる瞬間があったという。

「その時は一瞬だけでしたので、まったく気にならなかったです。後になって練習日誌を見返して“ああ、ここの時から兆候があったんだな”と気がついたくらいで」

 だが症状は頻度を増して現れるようになる。イメージ通りにペースが上がらないため、走りに力みが出て、普段なら楽に走れるペースでも、楽に走れない。18年8月には完全に“走りが崩れた”と自覚した。

 原因は分からない。今、思いつくのは細かい故障を繰り返す中、痛んだ場所をかばい、次第にフォームのバランスが崩れたのではないかということだけで、それも定かではない。走る動作が常にフルパワーを使わなければできなくなり、ジョグですら疲れるようになった。そこからはずっと慢性疲労にさいなまれ続けた。

 19年1月のニューイヤー駅伝では、3区13.6kmで区間34位。箱根の例を挙げるまでもなく、駅伝で無類の強さを見せていた村澤にしては信じられない結果に終わっている。直後に所属していた日清食品が活動の縮小を発表。MGCを控えていた村澤は所属が継続されたが、心中は穏やかではなかった。そして走りを取り戻すことが出来ないまま同年9月のMGCを迎える。

「そもそもこの時点で練習が積めていませんでしたので、体よりメンタルがきつかったです。“自分の力を発揮して、オリンピックを目指したい”という前向きな意欲を持ってレースに臨めず、“結果を出さなければいけない”と自分で自分を追い込んでしまっていました」

2年前の手術「それでもスピードが上がらない」

 MGCが終わってすぐ、股関節周辺の損傷と診断され19年10月にその縫合手術に踏み切る。思い通りに走れない状態で引退しては、陸上が嫌いになる。原因らしきものがわかった以上、改善に踏み出すことにためらいはなかった。

 手術は問題なく成功し、20年の秋から記録会に姿を見せ出した。明るい表情も戻ってきたようだった。しかしそれも束の間のことで、21年から歩みはまた停滞していく。スピードが求められる3000mでも彼本来の大きなストライドは見られず、不調の様子は明らかだった。それでも声をかけると、笑顔で前向きな言葉を発してくれた。

「少しずつ戻ってきていますよ。大丈夫です、焦らずにやっていきます」

写真は東海大時代 ©AFLO

 だが、現在も所属するSGホールディングスに移籍をして迎えた21年6月。5000mの記録会に出場した村澤は14分59秒33という高校1年生から本格的に陸上を始めて以来、走ったことのないタイムを出してしまう。

「走っている感覚がMGC前と同じなんです。力んでしまうし、スピードも上がらない。この記録会前からずっとそれに気がついていましたが、認めたくない自分がいて、目を背けて練習を続けていました。“手術したんだから治っているはずだ”と意地になっていたんですね。股関節が損傷していたのは事実でしたが、それは走りを崩した原因ではなく、結果だったってことです。このままじゃダメで、もっと本質的な原因に向き合わないといけないと思わざるを得なかった」

村澤は“完全に走るのをやめた”

 関係者から紹介された医師の診察を仰ぐと「普通の人ができる当たり前の動きができていない。走る以前に取り組むべきことがある」と言われた。ここで村澤は2度目の決断に踏み切った。医師の指示通り、完全に走るのをやめたのである。

 病名はなく、村澤は自分の症状を“機能不全”との言葉で表現する。

「調子を崩してから、痛みは一度もないんです。以前のように走れないのは、体が自然な動きができていないということに尽きると思います」

 そこから現在に至るまで、骨格を正しい位置に戻し、正しく力を発揮する動作を取り戻すリハビリテーションに取り組み続けている。 

 かつてお世話になった人たちへの感謝を走りで伝えたい、そして今の仲間のために力になりたいという気持ちが彼の言葉の端々に現れる。前所属チームの活動休止後、本来の走りができない状態にも関わらず、今のチームに誘ってもらった。焦りがあることも否定しない。だが今はそれを抑え、辛抱強く、「今、やるべきこと」という単調で小さな動きのリハビリを繰り返す。

「最近、ジョグを始めていい許可も出ましたよ」

「月並みですけれど、今、この状態でも諦めずに前を向いていけるのは”頑張って“とか、”待っているよ“と応援してくれる人がいるからです。それが心の支えですね」

©Shigeki Yamamoto

 目指す先は駅伝なのか、マラソンなのか。それもまだ何も考えておらず、今はただ自身の走りをゼロから作り上げるつもりでリハビリに取り組んでいる。

「過去の感覚はもう忘れてしまいましたから」と村澤は笑う。世間が箱根駅伝に盛り上がっていた間も、かつてそこで自分が脚光を浴びた事実に心が乱されることもなかった。どの種目においても次に走るレースの結果が自己ベスト、そして新しい村澤明伸の姿なのだと彼は考えている。

「最近、ようやく自分の動きの感覚がわかってきて、どうすればいいかも見えてきました。ジョグを始めていい許可も出ましたよ」

 年末、村澤は笑顔でそう教えてくれた。その表情は春先に見せていたものとは違う、彼らしい自然な明るさがあった。待っているファンがいる限り、村澤はきっと戻ってくる。

文=加藤康博

photograph by AFLO