中島翔哉の活躍で日本のサッカーファンの中で有名になったポルトガルのポルティモネンセ。ブラジル在住のライターが現地取材し、中島や中村航輔、さらには浦和レッズで活躍したロブソン・ポンテ副会長らに直撃した記事をお届けします(計4回/#1、#3、#4も)

 日本人選手が多く在籍するポルティモネンセ。そのクラブの歴史についてはあまり知られていないのではないか。

 ポルティモネンセ・スポルティング・クラブは、1914年8月14日、ポルトガル南部の町ポルティモンで、当初、フットボールのアマチュアクラブとして創設された(「ポルティモネンセ」とは、「ポルティモンのもの、人」を意味する)。つまり、クラブとして108年の歴史を有する。

 1913年、地元の学生が英国留学から帰国した際にフットボールの用具とルールブックを持ち帰った。そして、友人らにこの新しいスポーツを伝え、彼らと一緒に楽しむ目的でクラブを設立したのである。

©Hiroaki Sawada

90年代から00年代は2部で戦っていた

 彼らの多くは学生で、金銭的な余裕がなかった。ユニフォームを作る際、原色を加えると割高になるので、シャツを白と黒の縦縞、パンツを白、ソックスも白としたという(ちなみに、ポルティモン市のエンブレムは緑と白が基調で、ユニフォームの色とリンクしていない)。

 その後、フットサル、バスケットボール、ハンドボールの部門も設立され、市民に広くスポーツを楽しむ機会を提供した。そして、1990年にフットサルの、2003年にバスケットボールのプロチームを併設している。

 ポルトガルのプロリーグ(1部)は、1934年に発足している。

 ポルティモネンセは1937年に地域リーグで優勝し、1953年、2部リーグに初参加。1975−76年に2部を制覇し、悲願の1部昇格を成し遂げた。しかし、わずか2シーズンで2部へ降格。その後は、1部と2部の昇降格を繰り返した。

 クラブ史上最高の成績は1984-85シーズンの1部5位で、翌年の欧州リーグ出場権を獲得した。結果は、1回戦でセルビアの強豪パルチザンと対戦し、1勝1敗だったが得失点差で敗退した。当時監督を務めたヴィトール・マヌエル・オリエイラは、クラブ史上最大の英雄である(2020年、67歳で逝去)。

 しかし1989-90シーズン、17位に沈んで降格。以後は、2010−11シーズンを除き、2部で戦っていた。

クラブ事情を一変させたのは“Jリーグ勢”の力だった

 このように1部と2部を行き来していたいわゆるエレベータークラブを、2000年代後半からブラジル人と日本人が一変させる。

 最大の立役者が、1990年代からエメルソン(元コンサドーレ札幌、川崎フロンターレ、浦和レッズ)、フッキ(元川崎F、札幌、東京ヴェルディ)ら100人を優に超えるブラジル人選手のJリーグへの移籍を手がけた敏腕代理人テオドーロ・フォンセッカ(通称テオ)である。

 彼と彼の右腕ロジネイ・サンパイオが、ポルティモネンセへもブラジル人選手を送り込むようになった。

テオことテオドーロ・フォンセカ ©Hiroaki Sawada

 2009年には、クラブ初の日本人選手としてFW中村祐人(現リーマン=香港)が入団。翌年には2008年から川崎Fで大活躍したFWレナチーニョを移籍させるなど、Jリーグで活躍したブラジル人選手を送り込んだり、逆にこのクラブで実績を残したブラジル人選手をJリーグへ送り込んだ。

 これらの移籍を通じてポルティモネンセからテオへの負債が生じ、それが次第に膨れ上がっていった。2013年、クラブがフットボールのプロ部門を切り離して株式会社化すると、テオはクラブへの債務を用いて株式の過半数を買い取り、最大株主即ちオーナーとなった。会長には、ロジネイが就任した。

ブラジルや南米選手、日本の力の有効活用を

 2人が考えた戦略は、費用対効果が優れたブラジル人や南米人選手を補強することに加え、自分たちが熟知する日本と日本のフットボールとの関係を利用してクラブの財政を安定させ、同時に強化を図って1部に定着することだった。

 この年9月、ニュルンベルク(ドイツ)で出場機会が少なかったFW金崎夢生(現名古屋グランパス)を獲得した。当時、チームは2部で戦っていたが、金崎は攻撃の主力を担い、1シーズン半の間に47試合に出場して16得点。地元サポーターからも愛された。

 2016年には、かつてテオとロジネイが代理人を務めて浦和へ移籍させたロブソン・ポンテを強化部門の国際担当として迎え入れた(その後、副会長兼強化部長に昇格)。

 そして、2016-17シーズンに2部で優勝して1部へ昇格すると、2017年8月、FC東京からFW中島翔哉を獲得した(当初は期限付き移籍で、後に完全移籍)。この小柄な日本人アタッカーが、ポルティモネンセと日本の距離を劇的に縮めることになる。

中島翔哉の活躍はクラブにとってエポックメイキングな出来事だった ※クラブ提供

 当時23歳の中島はチームの攻撃の中心としての役割を与えられて躍動する。持ち前のトリッキーなドリブルと意表を突くスルーパスで決定機を演出し、自らも積極的にゴールを狙った。2017−18シーズンにはリーグ戦29試合に出場して、10得点12アシストと大ブレイク。日本代表にも招集され、2018年ワールドカップ後は代表の常連となった。

©Hiroaki Sawada

2018年以降の日本人選手を見てみると

 中島の所属クラブということで日本におけるポルティモネンセの知名度も高まり、2018年以降、多くの日本企業がスポンサー契約を結んだ。

 以来、ポルティモネンセはさらに多くの日本人選手を獲得するようになった。

<2018年>
FW長島滉大(FC今治から/現奈良クラブ)

<2019年>
GK権田修一(サガン鳥栖から/現清水エスパルス)
SB安西幸輝(鹿島アントラーズから/現鹿島)

<2020年>
MF西村拓真(CSKAモスクワから/現横浜F・マリノス)

<2021年>
GK中村航輔(柏レイソルから)
FW川崎修平(ガンバ大阪から)

 さらに、Uー23にもFW中野優太(23)、MF廣澤灯喜(19)、浅野葵(20)の3人が在籍し、リーガ・レヴェラソン(基本的に23歳以下の選手によるリーグだが、23歳以上の選手も各チーム2人までプレーできる)で腕を磨いている。また、2020年9月から日本人マッサージ師(戸田圭星さん)が選手たちの体のケアを担当している。

FW廣澤灯喜(19)、MF浅野蒼(20)、FW中野優大(23)、FWキム・ヨン・ハク(20) ©Hiroaki Sawada

 ちなみに、中島は2019年2月にアル・ドゥハイル(カタール)へ日本フットボール史上最高額の3500万ユーロ(約48億円)で移籍。これは、ポルティモネンセにとってもクラブ史上最高額の移籍金だった。

中島翔哉や権田修一も研鑽を積んだ

 その後、中島は7月にポルトガル屈指の強豪ポルトへ移籍する。

 しかし、次回の記事で説明するような事情もあって昨年1月、アル・アイン(UAE)へ貸し出される。ところが、練習中に腓骨を骨折し、靭帯も損傷して長期欠場。6月末に期限付き期間が満了してポルトへ戻ったが、やはり監督の戦力構想から外れ、8月末、古巣ポルティモネンセへ期限付き移籍した。10月に故障から復帰し、以後はトップ下もしくは左ウイングとして先発出場を続けており、かつてのようなキレのあるプレーを取り戻しつつある。

ポルティモネンセ時代の権田 ©Getty Images

 GKの権田は当初こそ控えだったが、2019-20シーズンの後半からレギュラーとして活躍。このクラブでの成長を糧として、2019年以降、日本代表の絶対的なレギュラーとなっている。さらにサイドバックの安西は、在籍した2シーズンに渡って右SBもしくは左SBを任され、54試合に出場して1得点1アシストを記録した。

 このように、とりわけ2013年以降、ポルティモネンセと日本のフットボールは非常に密接な関係にある。

取材に応じてくれたポンテ副会長 ©Hiroaki Sawada

 ポンテ副会長は「我々は日本人の能力、特性、メンタリティを熟知しており、欧州での飛躍を目指す日本人選手に最高の環境を提供している」と胸を張る。そして、「若くて才能に溢れ、大きな野心を抱く日本人をこれからも積極的に獲得していきたい」と語っている。

<#3へつづく>

文=沢田啓明

photograph by Hiroaki Sawada