名門・駒澤大学の監督を務め、多くの名選手を育て上げてきた大八木弘明。現在4年生の田澤廉は、なかでも特に注目を浴びる存在だ。名将が語る“天才ランナーの育て方”とは?《特別インタビュー全2回の2回目/前編から続く》

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 田澤廉が世界を狙う。

 その強化は将来を見据えて段階的に行われてきた。大学入学当初、10000mでの目標は大迫傑が持っていた日本人学生最高記録27分38秒31。しかしそれを大きくクリアする27分23秒44に到達し、今は相澤晃が持つ27分18秒75の日本記録も視野に入れる。ここまで大八木の想定以上の成長を遂げてきた。

「練習の質を徐々に上げ、力がついてくる中で、東京五輪、世界選手権の参加標準記録の27分28秒00を突破する手ごたえが出てきたんです。“世界に行けるんじゃないか”から“どうしても世界に出たい”という思いへと変わっていき、それは日頃の言葉や態度からもひしひしと感じました。練習では余裕を持ってやらせていますが、試合への集中力も高い選手ですし、それが結果につながっているのでしょうね」

追い込みすぎない練習が生む“気持ちの余裕”

 追い込みすぎない練習を心がける中、スピード強化だけは“27分30秒を安定して出せる力をつける”という確固たる目標を持って進めた。タイムはレース展開やペースメーカーの動きによって左右される面もあるが、その成果は1回の記録だけでなく、2020年12月の日本選手権からここまで4戦連続で27分台という形でも表れている。高いレベルで安定感を発揮しており、強化は狙い通りに進んでいる。

「最低でもこのくらいで走れるという自信が生まれたんでしょうね。結局、練習って自信をつけることなんです。それは走力の面もそうだし、気持ちの面も大きい。気持ちの余裕があると、レース中、ペースや周りの選手の変化への対応力が生まれますので」

 余裕という言葉には田澤自身も呼応し、このように考えを口にする。

「練習で監督が出す設定タイムって、目標というより最低ラインなんです。なので、それをいかに余裕を持ってクリアするかを考えて走っています。時には“速すぎる”と注意されることもありますが、練習でやっていることは必ず試合でも出せると思えるようになりましたし、練習自体ももっとやりたいと思うところを監督が抑えてくれているので、今の形は理想だと思いますよ」

箱根2区は「将来のマラソン挑戦の土台になる」

 一方で練習量を抑えていることもあり、スタミナ面にはまだ改善の余地を多く残しており、それこそが田澤の伸びしろと言える。だが抑えながらも大八木は箱根2区で結果を残すことだけは田澤に求め続けた。

「日本記録保持者の相澤選手を始め、10000mで強い選手は皆、2区を走っています。確かに2区は距離も長いし、途中や終盤に起伏もある難しい区間です。田澤もアップダウンが苦手と言いますが、それでもこの2区をしっかり走れる体力を作ることが10000mの後半の走りにつながりますし、将来のマラソン挑戦の土台になりますので、ここではしっかり走って欲しいと思っていました」

 昨年12月に10000mで上記の自己ベストを出した通り、冬の間も1月の箱根駅伝だけを見据えて強化に励んだわけではない。にも関わらず箱根2区で相澤に次ぐ日本人歴代2位、1時間6分13秒で走った田澤の非凡な能力は圧巻というより他ないが、“余裕を持ちながらも押さえるべきポイントを押さえた強化をする“という大八木の信念が結果になったという見方もできる。

今年の箱根駅伝では2区で驚異的な走りを見せた田澤 ©Yuki Suenaga

 5月7日の日本選手権10000m。世界選手権日本代表の選考基準は、参加標準記録を突破し、この日本選手権で3位以内に入ること。突破者は4月末時点で田澤ひとりであり、圧倒的に優位な立場だ。今季初戦の4月9日の金栗記念5000m、レース前に田澤は「13分30秒くらいでいい」と、スピードの確認の場として挑むと話していたが、実際は13分22秒60。それまでの自己ベストを7秒以上も上回る走りを見せた。その姿に大八木は手ごたえを口にする。

「スピードが伸びていることを確認できました。もっと出せたとは思いますが、狙いは日本選手権ですので十分だと思います。日本選手権は疲労をいかに残さず、いいコンディションで挑めるかでしょうね」

パリ五輪では10000mか、マラソンか?

 今季、狙うは世界選手権出場と日本記録の更新。しかし後者については「チャンスがあれば」という形であり、是が非でも狙うという思いはない。田澤の現在地を知り、今後のプランを立てるために世界の舞台でスタートラインに立つことを何より重視する。

「まずは一度、日の丸を胸に、世界で走ってみないことには何も言えません。世界のトップ選手がハイペースでレースを動かす中で27分台が出せるのか、そしてどこまで戦えるのかをみたいと思っています。それ次第でパリ五輪まで10000mで挑むのか、早めにマラソンに移行するのかは変わってくるでしょう」

 過去3年間の指導の中で、体質、体の強さ、練習での余裕度から、田澤にはマラソンの適性があることも分かり、その強化のイメージもすでに大八木の頭の中にはあるという。いずれにせよ世界に出て何を手にするかで、今後の方向性が見えてくる。シニアでは初となる世界の舞台への出場権をつかみたい。

4月9日の金栗記念では 隣は東京国際大のヴィンセント ©AFLO

「ピークが来るのは社会人になってからにしなければ」

 田澤、佐藤など在学中の選手について話す時でも、「世界」、「日本記録」という言葉が出る機会が以前よりも増えた。それこそ大八木が求めていたことだが、スタンスは変わらない。

「どの選手もピークが来るのは社会人になってからにしなければなりません。田澤は想定以上に伸びましたが、彼は例外でしょう。社会に出れば走ることで給料をもらうようになりますので、大学では下地を作ることが大切です。その考えは変えずに、やっていくつもりです」

 まだまだこれからですよ。楽しみな選手がいっぱいいるんですから――。そう言って大八木は楽しそうに笑った。

文=加藤康博

photograph by Shigeki Yamamoto/Yuki Suenaga