人もボールも動くサッカー――。5月1日に逝去されたイビチャ・オシムさんのサッカーはそう称されました。それまで中位に留まっていたジェフ千葉の監督に就任すると1年目から優勝圏内へと押し上げ、'05年にはナビスコカップ優勝という大きな結果をもたらしました。その変革の意味を、当時の選手とスタッフの証言で紐解いた有料記事を特別に無料公開します。(全2回の後編/#1へ)
<初出:Sports Graphic Number 798号(2012年2月23日発売)、肩書などすべて当時>

 それではオシムのサッカーの本質とは何だったのか。当時称された「走るサッカー」の正体とは一体何であったのか。

「たしかに走っていたし、そのことが強調されていましたが、同時に技術も大切にしていたし、ゴール前の局面を作るのもうまかった。オシムさんがやろうとしたことは、実は今のバルサに近いと思います」と江尻は言う。

 華麗にパスをつなぐバルセロナと、選手が献身的に走るジェフ。異なるように見えて、共通点は意外に多いと江尻は指摘する。

 史上最強の誉れ高いペップ・グアルディオラのバルセロナに、オシムのジェフは時間的に先行している。オシム自身、ヨハン・クライフに触発されたと認めてはいるものの、基本的なコンセプトは監督を始めた'80年代から変わっていないと述べている。

問題を解くカギは、代名詞である「走る」にあった

 ならばオシムのジェフは、バルセロナを先取りしていたと言えるのか? 問題を解くカギは、代名詞である「走る」にあった。

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 90分問休むことなくピッチを駆け回るスタイルは、のちに「考えて」という言葉が頭につき「考えて走るサッカー」になったが、必ずしも肯定的な意味ばかりではなかった。そのときの評価を羽生が振り返る。

「リアリティのある動きで、丁寧にタイミングを取るということを意識してやっていました。ただそれが、周囲の目には『よくがんばって走っているね』というふうにしか映らなかったのが正直な印象です」

 当時のサッカーで重視されたのはボールコントロール能力であり、その延長上にあるパスの技術とセンスであった。走ることも大事だが、パス&ゴーか、せいぜいパスの受け手としての2人目、3人目の動きであり、それ以上ではなかった。

たしかにジェフの選手はずっと走っていたが……

 運動量を前面に押し出すのは特別なことであり、ジェフの選手は個の能力に欠けるから走力で補おうとしているというのが、一般的な見方だった。オシム自身が質と量を対概念として捉えず、質を別の言葉――戦術的ディシプリンやコレクティビティ――に置き換えて語っていることも、誤解に拍車をかけた。

 たしかにジェフの選手はずっと走っていた。しかし、本当に量だけの問題なのかと、江尻は当時から疑問を感じていた。

「動き出しの早さであったり、いつ、どこに、どう動いていくか。それは量よりも質の高さではないか。そのタイミングや判断が良かったから、量が多いように見えたのではないか。実際に質を高めるためのトレーニングを、試合に出てくるさまざまなシチュエーションを設定しながらやっていました」

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練習で状況設定のために使うビブスの色は8色にもおよんだ

 質が上がれば、それだけでプレーに躍動感が生まれる。全員が瞬時に同じ判断をして、運動しながらそれぞれの役割を果たせば、ピッチを幅広く使ってさまざまな変化を作り出せる。スペースを狭めてDFブロックを固める相手を、分散させることもできる。

 練習で状況設定のために使うビブスの色は8色にもおよんだ。30人の選手がそれをポジションや役割ごとに変えて使うため、組み合わせは無限大になる。そのすべてをオシムは頭のなかで瞬時にイメージしながら、無数の異なるシチュエーション――そのひとつひとつに意味がある――を作り出して、選手たちの判断力を鍛えた。個別の指示も、具体的で細かかったと江尻は言う。

「たとえば崔龍洙やサンドロが相手と1対1の状況を作るために、カバーリングの選手を剥がす変化を羽生に作れと言うのですが、長い距離を走れとか斜めに走れ、この選手を視野に入れながら走れといったように、細かく要求していました。また、動きすぎるなともよく言っていた。そこは止まっておけと」

オシム「私は独自のアイデアを持っていた」

 それまで日本では、守備に関してはコレクティブな連動が当たり前だった。ボールを奪うために、失点しないために、チームメイトをカバーする。献身的に走り、ボールを追いかける。だが攻撃においては、せいぜい基本形といくつかのバリエーションを持つ程度で、そこまで具体的な共通意識をチームに植えつけようと試みたことはなかった。世界の歴史を紐解いても、アヤックスやディナモ・キエフなどのトータルフットボールで見られたぐらいだろう。オシムは言う。

「私は独自のアイデアを持っていた。ボールを失わず、質の高いコンビネーションを発揮するスタイルだ。そのために個人主義のサッカー、エゴイストのサッカーを回避し、コレクティブな本物のチームを作る。今日のバルセロナのように5、6人が一度に連動して、ひとつの有機体として機能するチームだ」

2008年にグラーツで撮影 ©Takuya Sugiyama

 なるべく走らないというのが、バルセロナの哲学だ。全員が効率よく動けば、ひとりが走る距離は短くとも、複数のパスコースができる。DFブロックに綻びが生じて、さらにスペースに入り込める。

「羽生は別にして、佐藤勇人も阿部も村井も平均以下」

 ジェフも「個人の走る能力は、羽生は別にして、佐藤勇人も阿部も村井慎二も、みんな平均以下なんです」と江尻は明かす。

「クーパー走(12分間で走れる距離を測定する)では3200mが目標なのに、阿部は2800mぐらいしか走れない。あれだけ走っているように見える勇人でも、せいぜい3000mです。当時、オシムさんには『選手には絶対に言うな』ときつく言われましたが」

「走る」ことの実態が、量の問題でないことはもはや明らかだろう。それはオシムが言うように「欧州のトップクラブでは誰もが普通に行なっているスプリント」であり、戦術的ディシプリンに基づいた必然的かつ基本的なプレーでもある。「走る」ことの真の意味とはそういうことだった。

「選手を育てては売るダイナミズム」は跡形もなく消え去った

 ジェフというJリーグでごく平均的なクラブでも、欧州のトップクラブのように「走る」ことができる。羽生や阿部、佐藤勇人ら日本の若い選手たちも、現在のメッシやダニエウ・アウベスのように「走る」ことができる。そのことをあの当時すでに当然のように考えて、実現したことにオシムの革新性はあった。その意味では、たしかに「走る」ことこそが革命だった。

 もしオシムが、あのまま監督に留まっていたら、ジェフ千葉というチームは一体どこまで行っていただろうか。あるいは、倒れることなく日本代表監督を続けていたら、どんなスタイルを完成させて、そこでジェフの選手たちはどんな役割を担っただろうか。

 少なくともどちらにも、今より確固としたものが残っていただろう。だが現実には、彼がジェフで作り出した「選手を育てては売るダイナミズム」は跡形もなく消え去り、オシム・チルドレンと呼ばれた教え子たちも、阿部を除いて代表に定着することはなかった。

 そして、オシム自身の全体像――方法論やコンセプト、サッカー哲学も、いまだにすべてが理解されたとは言いがたいと江尻は言う。

「自分が監督やコーチを経験していけばいくほど、あのときの言葉はこういう意味だったんだとか、グアルディオラがバルサで仕掛けていることを7年前にすでにやっていたんだとか、今だからわかること、これからわかることがまだまだたくさんあると思います」

 そうである限り、これからもオシムは日本の進むべき道筋を照らし続けるのだろう。 <前編からつづく>

※Sports Graphic Numberでは、オシムさんのご逝去を悼んで、様々な人に思い出と功績を語っていただき、もう一度読みたい名作記事も再録したNumber PLUS『イビチャ・オシム 日本サッカーへの遺言』を6月13日に発売予定です。そちらもぜひご覧ください。 ©Sports Graphic Number

文=田村修一

photograph by Sports Graphic Number