佐々木朗希の「完全試合・19奪三振」で過去の記録に脚光が当たった。その奪三振記録を持つ野田浩司氏にインタビューした(全2回/#1も)

 1992年、阪神は1986年以来のAクラスである2位になり、野田浩司もひじ痛から復活して8勝を挙げた。さあこれからというオフに、トレード話が持ち上がったのだった。

「僕、1週間くらい旅行に行ってたんです。当時は携帯電話もなかったから、帰ってみたら留守番電話が何本も入っている。聞いてみたら“中村(勝広)監督と話してほしい”という内容だったんで、また抑えをやってくれということかな、と思っていたら電話がかかってきて“監督じゃなくて社長と会うようになったから”って。うわ、これがトレードかと思って。めちゃくちゃショックでしたね」

©Kou Hiroo

阪神→オリックスの環境変化は「ヤバかったですね」

 トレードの相手はオリックスの松永浩美。すでに「史上最高のスイッチヒッター」という評判のスター内野手で、野田浩司は24歳、松永は32歳だった。「当時の松永さんはバリバリでしたから“千円札と一万円札を取り換えた”とかいろいろ言われました。でも、トレードなんて結局、やってみないとわからないんですね」。こう野田が話すように、松永浩美は阪神に移籍した1993年オフにFA権を行使してダイエーに移った。

「松永さんは一匹オオカミで、男気のある我が道を行くみたいなタイプでした。だから誤解もされたけど、同じ九州人として理解できるところもあります。ただ僕が移籍1年目に最多勝をとったので、えらい差がついてしまった。でも、松永さんがFA権を持っていたのは、トレードのときからわかっていたはずですけどね」

ダイエーの松永とオリックスの野田 ©Sankei Shimbun

 一方、野田は環境が変わったことをどのように受け止めていたのだろうか。低迷していたとはいえ、セの人気球団・阪神からパのオリックスへ、そのギャップは大きかった。

「えっ、て思うことだらけでしたね。これが同じプロ野球かと思うことがいっぱいありました。

 春季キャンプは宮古島でしたが、これがヤバかった(笑)。那覇空港から宮古島に移動するときの飛行機の待ち時間で弁当配られて、みんなその辺に座って食べるんですよ。阪神ならどこかで食べろとお金をくれるんですが。

 当時の評論家の方で、宮古島まで来たのは田尾安志さん一人だったんじゃないかなあ。ファンは、ほとんどいなかったと思う。阪神の安芸キャンプなら規制線を張ってガードしましたが。それにマスコミも入って来放題で、新聞記者がピッチャーの控え室に入ってきて“おいどうや?”って(笑)」

イチローが出て来る前のオリックスは……

 そんなオリックス移籍1年目、チームの指揮を執るのは土井正三監督だった。

「土井さんはリリーフが欲しかったんですね。ほかの人も候補に挙がったようですが、“体が丈夫で故障しないというので野田で”となったようです。でも、オープン戦で打たれて。ピッチングコーチの米田哲也さんは最初から“野田は絶対先発や”と言っておられて、先発になりました」

 この年のオリックスの投手陣は星野伸之、長谷川滋利、山沖之彦、酒井勉、伊藤敦規、佐藤義則などが名を連ねた。その陣容の中で野田は開幕4戦目、4月14日の西武戦で初先発した。

「92年の阪神は新庄、亀山フィーバーでコンサート会場みたいでした。グラウンドにキャーって黄色い声が降ってきましたし、移動の新幹線でもモミクチャでした。そんなところから、イチローが出てくる前のオリックスです。グリーンスタジアム神戸はガラーンとしていて、それでも西武戦はお客が入ると聞いていたのですが、オープン戦みたいでした。

 “何やこれは”と思って投げていたら、試合の途中でキャッチャーの中嶋聡(現オリックス監督)に怒られたんですね。“パ・リーグってこんなもんですよ、自分で勝手にテンション上げなきゃだめですよ。周り気にせんと、自分で興奮して投げてください”って(笑)」

中嶋聡のおかげでパの野球に入っていけた

 続く自身2戦目の近鉄戦で15奪三振を奪った。この試合ではさらに導火線に火がつく出来事があったのだという。

「日生球場でしたが2回までにホームランを4本打たれた。ベンチに帰ったら、バッティングコーチに“ちょっと来い”と言われて“お前、パ・リーグの野球なめてんのか”って言われて。僕は“ピッチングコーチやったらわかるけど、なんでバッティングコーチに怒られなあかんねん”って、なんかめちゃくちゃ腹立って、次の回からやけくそで投げたんですよ(笑)。

 でも、その試合で自信がつきました。阪神ではお客がワーッと盛り上げてくれたから自分の力以上のものが出た、でもパでは自分で盛り上げないと。パ・リーグの野球に入っていけたのは中嶋聡とそのバッティングコーチのおかげです」

オリックス監督の中嶋聡は現役時代、野田の潜在能力を引き出した ©Hideki Sugiyama

野茂と野田のスタイルは何が違ったのか

 さらにこの年の5月25日、米子市民球場での近鉄戦では、野茂英雄とともに延長12回を投げ合って2-2で引き分け。「190球くらい投げたんじゃないかな。野茂も僕もストレートとフォークのピッチャーでしたが、球速は野茂の方がずっと速かったけど、コントロールは僕の方が良かったですね」と野田は同じフォークを決め球にする野茂との違いについて語った。

 野茂英雄はこの年、入団から4年連続最多勝がかかっていたが、10月1日のロッテ戦で打球が右頭部を直撃。この時点で野田と野茂は14勝で並んでいたが、野茂は奇跡的に復活し、最終的に17勝で最多勝を分け合った。防御率は2.56(3位)。野田のキャリアハイとなった。

「阪神の最後の年に、何かちょっとつかみかけたんですが、パに移籍して、投球術をものにした感じです。パ・リーグのバッターは、初球からどんどん振りにきてくれるので、フォークを初球から投げたりして結構ハマったなと思います。

 球速は145キロ、調子が良くて147キロくらい。150キロは1球も出ていないです。決め球はフォークでした。社会人の2年目くらいから見よう見まねで投げていましたが、阪神2年目オフの安芸の秋季キャンプにドジャースのコーチが来て “こういう回転を与えなさい”とオーバースピンをかける方法を教わったんです。それを覚えてから奪三振が増えましたね」

イチローは「使えば打つやろうな、と」

 そして仰木彬監督に代わった2年目の1994年は開幕2戦目に先発。主戦投手としての期待値が高まっていたことを自覚していた。

「左の星野、右の野田の2枚看板みたいな感じで、良かったり悪かったりしましたが監督には信頼してもらいました。この年、イチローがブレークしました。前年から一軍と二軍を行ったり来たりしていましたが、打撃もすごいし、守りも足も肩もあるし、使えば打つやろうなとは思っていました」

94年のイチローは210安打など圧倒的な成績で大ブレークした ©Kazuaki Nishiyama

 そんなチーム状況の中で野田は8月12日のグリーンスタジアムの近鉄戦で、大記録を樹立する。17奪三振のNPBタイ記録(当時)だ。

「近鉄は13連勝中。吉井理人との投げ合いで2−2の8回にオリックスが1点取って勝ったんですが、何がなんでも連勝阻止やと8回9回と3個ずつ三振を取りました。終わってみたら17奪三振、山田久志投手コーチに“お前三振のタイ記録や”って言われて “あっそうなんや。結構とった気はしてました”みたいな話をしました」

佐々木朗希と共通だった“千葉マリンの風”

 奪三振能力に磨きがかかった野田がさらなる大記録を作ったのは、翌年のこと。1995年4月21日、千葉マリンスタジアムのロッテ戦での「1試合19奪三振」だ。野田に当時のことを聞くと、このように話す。

オリックスで奪三振能力に磨きがかかった ©Hideki Sugiyama

「前の西武戦は2回で8点取られて負け投手。人生最悪の登板でした。そのあと毎日ビデオを見て、ブルペンに入って悪いところを見つけて、いいときの感じを思い出したんです。千葉に前乗りしてゆっくり休んで朝起きてみたら体調もすごく良くて、気持ちも切り替えることができていました。

 それから千葉マリン(現ZOZOマリン)の風ですね。佐々木朗希の完全試合、19奪三振もこの球場でしたが、風がセンターから吹いてきてバックネットに跳ね返ってくるんです。まっすぐはちょっと遅くなるんですが、フォークは変化が大きくなります。2回くらいまではどのへんでリリースすれば、どう落ちるのか手探りで感覚を探っていたんですが、“風を味方につけたな”と思ったのは3回くらいですかね」

 やはり佐々木朗希と同様、「特別の感覚」があったわけだ。

なぜ田口はエレベーターホールで正座していた?

 試合は8回までオリックスが1対0でリードするという接戦だった。

「僕はランナーをかなり出してます。ただ追い込んだらフォークを投げればなんとかなる感覚はありました。17という数字は意識していたので、並んだところで“とりあえずもう1個とりたいな、その上で1対0で勝ちたいな”と思ったんですが、18個目を取った後で9回に追いつかれた。走者一塁で中前にライナーが飛んで、それをセンターの田口壮が突っ込んで逸らして一塁走者が帰ってきた。そのあとは敬遠・敬遠で満塁策にして最後は19個目の三振を取ったんです。マウンドを降りてから山田コーチに“この試合、僕に下さい”と頼んだんですが、仰木監督の判断で10回は平井正史が救援で出て負けました。

 それでもプロ野球記録ということで試合後に記者会見をして、チームから遅れてホテルに帰ったら田口壮がホテルのエレベーターホールで正座して待ってました。“申し訳ないです”、“やめろ、どんだけいつも助けてくれてんねん”みたいなやりとりをしたのを覚えています。あの頃のオリックスの外野はイチロー、田口、本西厚博って、すごい顔ぶれで、いつも助けてもらっていましたから」

オリックス時代の田口。イチローや本西らとの外野守備は鉄壁を誇った ©Hideki Sugiyama

 野田浩司は96年8勝、97年も7勝を挙げたものの翌年から急速に衰え、2000年限りで引退する。「100勝できなかった悔いはめちゃくちゃありますね。95年くらいの調子なら150くらい勝つ自信ありましたからね」と、心底悔しそうな顔をした。その表情に「投手」という生き物の心理を覗き見た気がした。

佐々木朗希はちょっと次元も時代も違いますよね

 最後に、13日の登板で今季4勝目を挙げた佐々木朗希についてはどう見ているのか。

「ちょっと次元も時代も違いますよね。パーフェクトの次の8回で降りた試合は、ボールがばらついてシュート回転して、前の試合よりは少し調子が悪いのかなと思いましたけど、個人的には“投げろよ”と思いましたね(笑)。2試合連続完全試合なんて今後100年、200年でないかもしれない。9回投げて、登録抹消して2週間明けて出ればいいと思うんです。ただそのあたりは、昔との考え方の違いを感じますが。

 何より佐々木朗希の活躍で、思い出してもらえるのはありがたいです。彼には太く長く活躍してほしいですね」

©Hideki Sugiyama

 座っている間は気が付かなかったが、取材を終えて、筆者を見送るために立ち上がった野田浩司はびっくりするほど大きかった。

「そうだ、野田浩司って足が長くてスタイル抜群だったな」

 そんなことも思い出す、楽しいインタビューだった。<前編からつづく>

文=広尾晃

photograph by Sports Graphic Number