1986年にジャパン女子プロレスでデビューし、アイドルプロレスラーとして一世を風靡したキューティー鈴木。現在52歳になった彼女の特別インタビューをお届けする《全3回の2回目/#3へ続く》

 肌の露出が高めのコスチュームをまとった女性アスリートは、“非競技”写真に悩まされる。胸やでん部、秘部にフォーカスした盗撮だ。この数年で、現役やOGが声に出して苦悩を訴えるようになった。それでも、インターネットで一度でも公開された画像は、デジタルタトゥーとなって残る。トップアイドルレスラーだったキューティー鈴木は、その格好のターゲットだった。当時の悲痛な本音を聞いた。

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キューティー鈴木(以下、キューティー) 私たちのころは今みたいにネットがなくて、雑誌しかない時代。プロレス雑誌以外の雑誌ではやっぱり、胸元、お尻ばかりの写真を集めたものがよく出ていましたね。だからって、声に出したところでなくならないだろうっていうのが、最初から頭にあった。私の時代にはじまったことではないから、もう仕方ないことなんだって思ってました。

 スポーツをやってる女性たちは、純粋に闘っている姿を観てもらいたいっていうのがありますよね。私たちも、そういう(性的な)目で見られたいと思って水着を着てるわけではないし、やっぱり闘いを観てもらいたかった。最近になって声をあげた人は勇気がいっただろうし、これを機に、正当に観てもらえるスポーツになってくれればいいなぁと思います。

現役時代、アイドルレスラーとして絶大な人気を誇ったキューティー鈴木(1992年撮影) ©AFLO

「胸元から乳首が見える写真を狙われて…すごいショックでした」

――セクシャリティーが強調される写真が出回ることは、当時も嫌でしたか。

キューティー そりゃ、嫌ですよ。ほんとに傷つく人だと、そのスポーツさえ嫌になってしまって、表に出たくなくなると思う。一生懸命積み重ねてきた努力がそんなことで消えてしまうのは、もったいない。ちゃんと声に出して、周りもサポートしてあげてほしい。

――当時の嫌なエピソードはありますか。

キューティー ロープに逃げるときに、胸元から乳首が見えてるか見えてないかっていう微妙な写真が、ある写真週刊誌に載ったんですね。リングサイドで撮っていたカメラマンだったので、てっきり試合写真だと思ってたら、そういうことが目当ての写真。なんであんな写真を出すんだろうって、すごいショックでした。会社の人にも言いましたよ、「ちゃんとした写真を載せるように」と。「もし男性目線の写真を撮るのであれば、取材で入ってほしくはないです」と。

――訴えて、何か変わりましたか。

キューティー いや、そんなに深く受け取られはしなかった。「それだけ人気が出たってことだよ」って流された。そういう時代だったかなとも思うんですよ。有名な一般雑誌に載る、イコール名前が売れてきた証拠だから。わざわざ買って、一部の人しか見ないものかもしれないけど、その雑誌を身内とか純粋なファンの人が見たら嫌だなぁとは思ってましたね。今のネット時代とは、ちょっと違うかもしれないけど。

現役時代のキューティー鈴木(1990年撮影) ©AFLO

男性ファンからの侮辱「俺の方が強い。(ケンカを)やろうぜ」

――男性ファンからカチンとくる態度を取られたことはありますか。

キューティー 街を歩いてて、「俺のほうが強い。(ケンカを)やろうぜ」とか、ありましたよ。そういう男が女性をダメにしてると思うし、女性っていうだけで見下してる。プロレスはケンカじゃないからね。ルールがある格闘技で、強い・弱いも大事だけど、技の美しさを観てもらいたいのに、そう吹っかられるのが腹立たしかったし、低レベルだなって思ってました。無視……ですね、そういうときは。

――「これは有名税だ」と流せなかった?

キューティー 流……せた、最終的にはね。芸能の仕事を何年も続けていくと、自分の知らないところで嘘をたくさん書かれたり、話題にされたりするんです。19歳ぐらいから芸能の仕事が忙しくなって、あのころは真剣にがむしゃらにやってたので、流せなかったと思います。この団体(ジャパン女子プロレス/1986年〜92年)がメジャーになるために、こんなに一生懸命やってるのに、なんでそっち(不快な写真)にいっちゃうんだろうって思った時期もあったし。自分に自信がなかったことも大きいですね。当時は忙しくて、家に帰ってもテレビも雑誌も見なかったので、結果が見えない。

人気爆発のきっかけは「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」だった?

――「最終的に流せた」のは、自信を持てるようになって、結果が見えたから、ですか。

キューティー 街で声をかけられるようになったんですね。JWP(92年〜2017年/現:PURE-J)になって、試合中継がWOWOWで放送されていて、チャンネル数が少ない田舎の人たちがよく観てたんです。地方に行くと、おじいちゃん、おばあちゃんから、「キューティー鈴木はどこにいるんだい?」って聞かれて、「私がキューティー鈴木ですよ」って言うと、「あー、あんたかい!」って喜んでもらえて。今までがんばった甲斐があったなぁって、認められたというか、結果が出てきたことがわかるようになると、自信がつくんですね。

――なるほど。芸能活動が多忙になったのはジャパン女子時代だと思いますが、そもそも人気が爆発したきっかけって何だったんですか。

キューティー 「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ系)です。あの番組を観た業界の人たちが、仕事を依頼してくれた……らしい。その時期にちょうど芸能事務所の人がプロレスを観に来て、「次はどの子を売りだそうか」となったときに、「あの子がいいんじゃない?」って私を指してくれたらしいです。そこからビデオを撮って、そしたら、ビデオの宣伝で雑誌に出て、CDを出してっていういろんなことが重なった。

超売れっ子だったのに「月給は8万円でした」

――売れっ子になっていく過程を、当の本人はどのように痛感するんですか。

キューティー 当時の事務所が(東京都)金町っていうところにあって、仕事があるときは事務所集合なんです。前日に「明日は〇時に事務所に来て」っていう連絡が入るんですけど、気がついたら毎日になってた。「私服を持ってきて」「化粧をしてきて」とか。事務所の担当者がおじさんだったんで、「ジーパンは禁止」って、それはあなたの好みじゃないの?っていうのもあった(笑)。ふだん着るのはジャージだし、私服はジーパンしか持ってない。買うお金もないので、何回かお兄ちゃんの彼女に洋服を借りてました(笑)。

――そんなにお金がなかった?

キューティー 寮を出てひとり暮らしをしてたころなんですけど、月に8万円ぐらいだったかなぁ。

――東京都内に住んで月給8万円では、生活できないでしょ。

キューティー 亀有っていう、都内でもちょっと奥に友だちと住んで、家賃は折半。食べることに困ったときはお母さんに来てもらって、一緒にスーパーに行って、大量に買ってもらって、「バイバイ」って(笑)。おこづかい的なものも、ちょこちょこもらってた気がします。

――そんなに困窮しているのに、芸能の仕事は服が自前って矛盾してますね。

キューティー いつも言ってたのは、「メイクは自分でやるけれども、せめてスタイリストさんを付けてほしい」と。そうすると、「経費を節約したい」どうのこうのって、結局最後まで付けてくれなかったのに、「ズボンをはいてきて」「スカートにして」「この色とかぶらないで」って注文だけが多い。よくケンカしてました。1週間、口きかないとか(笑)。

<#3へ続く>

文=伊藤雅奈子

photograph by Takuya Sugiyama/AFLO