2022年度に入り、桐山清澄九段(74)、田中寅彦九段(65)、小林健二九段(65)らのベテラン棋士が、引退規定によって現役を退いた。筆者の田丸昇九段(72)は現役時代、この3人の棋士とは公式戦で何局も対戦し、「戦友」のような思い出があるという。今回は、桐山九段、田中九段の棋士人生について記してもらった。【棋士の肩書は当時】

 桐山清澄は1947(昭和22)年に奈良県下市町で生まれた。5歳で将棋を覚えると、めきめきと上達していった。

 1956年に升田幸三王将・九段(当時38)が桐山の地元の旅館を訪れた。その経営者と懇意で、升田夫人の実家が近在という縁があった。升田は将棋の強い子がいると聞き、当時8歳の桐山を呼び出して4枚落ち(上手が飛・角・左右の香を落とす)で指導した。そして、「この子が棋士を志したいなら、内弟子にしてもいい」と母親に言った。

 桐山は、棋士の意味がよく分からなかったが、好きな将棋をたくさん指せるなら楽しいと思った。

 当時は升田の絶頂期だった。1957年に名人を獲得し、史上初の「三冠王」になってタイトルを独占した。

升田幸三が困り果てたほどの「泣く子と高額の電話料」

 桐山は1957年の春に上京し、東京・中野の升田の自宅で内弟子生活を送った。しかし、通学した小学校では関西弁がよく伝わらず、友達を作れずに寂しい思いをした。やがてホームシックにかかった。毎晩のように奈良の実家に長距離電話をかけ、「お母さん、帰りたい」と泣きじゃくった。鬼才と呼ばれた升田も「泣く子と高額の電話料」に困り果て、桐山を数カ月で奈良に帰した。

 ただ桐山の将棋熱は冷めてなかった。

 1958年に縁あって増田敏二六段の弟子となり、関西の奨励会に入って棋士を目指した。師匠は「大マスダ」から「小マスダ」になった。

 当初は奨励会でなかなか勝てなかった。しかし、関西本部に住み込み、雑用を務めながら将棋に打ち込むと、次第に実力をつけて昇進を重ねた。

 1965年の頃の奨励会では、桐山三段は中原誠三段と実力で拮抗し、「東の中原」「西の桐山」と並び称された。両者はほぼ同時期に四段に昇段し、ともに18歳で棋士になった。

41年前の名人戦で中原誠に挑んだが

 将棋と棋士をこよなく愛した作家の山口瞳さんは、文芸誌で連載していた『血涙十番勝負』の企画で、1971年に桐山六段(同23)と飛車落ちで対戦した。その自戦記で、桐山の風貌を次のように表現した。

《桐山は小柄で、顔もちいさい。しかし、目も鼻も唇も大きい。どこかで見た顔だと思う。あっ、そうだ。烏天狗の顔ではないか。これは悪くない。将来は大天狗である。天下を取る顔だ》

 桐山は名人の獲得を最大の目標として奮闘していた。

 しかし、1972年に中原新名人(同24)が誕生し、中原は同期の競争相手から大きな目標という存在になった。1981年に名人戦の挑戦権を初めて得たが、中原名人に1勝4敗で敗退した。山口瞳さんに見込まれた「天下を取る」ことは成らなかった。

 私こと田丸九段は30代の頃、王座戦の本戦トーナメントで準決勝に2回進出したが、いずれも桐山に敗れた。後年に「いぶし銀」の異名で呼ばれたように、地道で底力のある指し方に特徴があった。

 桐山はタイトル獲得(棋聖・棋王)が合計4期、順位戦でA級在籍が通算14期という実績を挙げた。

豊島将之との“師弟ダブル快挙”の目前で

 2017年度の終了時点では、桐山は公式戦で通算1000勝の大記録まで、あと8勝に迫っていた。手塩にかけて育てた愛弟子の豊島将之八段(同26)のタイトル初獲得と、自身の1000勝をダブルで祝う日は、それほど遠くないと思われた。しかし、以後の数年間は成績が極度に落ち、順位戦でC級2組から降級したことで、引退の危機に陥っていた。

 そして2022年4月27日。桐山九段は竜王戦で畠山鎮八段との現役最後の対局を迎えた。「ぶざまな将棋だけは指したくない」と語り、精いっぱいに指したが、敗れて56年の現役生活を終えた。

 公式戦の通算成績は、996勝(歴代10位)958敗。立派な記録である。

桐山清澄 ©Kyodo News

 桐山は今後、将棋の普及に努めるとともに、在住する大阪府高槻市の文化スポーツ振興事業団の理事長として、地域の活性化に尽力したいという。

「114連勝」すれば名人になれると本気で考えた

 田中寅彦は1957年に大阪府豊中市で生まれた。小学生時代は野球・水泳・スケートなどのスポーツに熱中した。将棋の面白さが分かったのは中学生時代で、同世代の友人に勝ちたくて猛烈に勉強した。やがて、棋士になりたいと思ったが、棋力はまだ低かった。

 田中は将棋が強くなるには、東京に行くことだと思い込んだ。中学3年のときに単身で上京し、親戚の家の近くのアパートに住んだ。そして、中原名人の師匠の高柳敏夫八段が開いていた渋谷の「高柳道場」に通って腕を磨いた。1972年には奨励会の入会試験に高柳門下で6級で受けて合格した。

 田中は奨励会に入った頃、何連勝すれば最短で名人になれるかと本気で考えたところ、当時の制度で「114連勝」すれば可能と分かった。何事も自信過剰な性格だった。しかし現実には、いきなり4連敗して前途多難のスタートとなった。それでも兄弟子たちに指導され、次第に実力をつけていった。中原名人の自宅に呼ばれて初めて指してもらったとき、高柳門下に入って良かったと思ったという。

「あんな将棋を指しては大成しない」と言われたが

 田中は1976年に四段に昇段し、19歳で棋士になった。

 田中はデビュー戦で、対戦相手の振り飛車に対して、「居飛車穴熊」の強固な囲いを築いた。当時は珍しい作戦だった。その対局で惜敗すると、相手の棋士に「作戦的におかしい」と批判された。ほかの棋士にも「若いうちから玉を金銀で固める、あんな将棋を指しては大成しない」と言われた。

 しかし、田中は以後の対局でも居飛車穴熊を指し続けて改良を重ね、「堅い、攻めてる、切れない」という必勝パターンが決まり出した。やがて、ほかの棋士たちも指すようになり、居飛車穴熊は大流行した。あまりの威力に「イビアナ」という怪獣のような呼び名がつき、振り飛車を止めた棋士が続出したほどだった。

 なお、居飛車穴熊は田中のオリジナル戦法ではない。同期の奨励会員が指していたのを参考にしたという。その田中が用いて連勝していたから定着したわけで、負け続けていたら廃れたことであろう。

 現代では、居飛車穴熊はタイトル戦の対局で指されるほど、主要戦法になっている。それは1970年代に開発した田中の功績といえる。

田中寅彦 ©BUNGEISHUNJU

 田中は、相矢倉で「飛車先不突き」という新手法も開発した。独創的な発想から「序盤のエジソン」と称された。

谷川浩司についての記事での物議、藤井聡太との対局では

 田中は1983年の七段時代、将棋雑誌に書いた「これほどの人が名人になれないでいる。一方、あのくらいで名人になる男もいる」という記事で、物議をかもしたことがあった。

 前者は、多くのタイトルを獲得していた米長邦雄王将(同40)。後者は、名人以外のタイトルがまだなかった谷川浩司名人(同22)。田中は同期の谷川に対して、差をつけられたもどかしさを感じていて、つい挑発めいた記事になってしまったようだ。後日に、谷川ファンから抗議されたという。

 田中はタイトル獲得(棋聖)が1期、順位戦でA級在籍が通算6期という実績を挙げた。

 そして2022年4月15日。田中寅彦九段は竜王戦で田中悠一五段との対局に敗れて引退が決まり、46年の現役生活を終えた。公式戦の通算成績は、794勝783敗。これも立派な記録である。

 田中九段は引退間際に、非公式戦の「新銀河戦」で藤井聡太五冠(竜王・王位・叡王・王将・棋聖)と対戦した。序盤でリードして終盤で必勝の形勢になったが、何と反則を犯して敗れた。「序盤はエジソンだけど、終盤はピエロでした」と、自嘲気味に語った。

草野球では江夏豊も応援に駆け付けたことも

 田中は今後、将棋ファンとの交流に努めるなど、普及活動に尽力したいという。

 なお田中は30代の頃から草野球に熱中している。棋士チーム「キングス」の主力選手として、年間で数多くの試合をこなしている。

野球 ©NoboruTamaru

 写真は、将棋と野球を愛好する作家の逢坂剛さんが、2013年に70歳の古稀を記念して、キングスと対戦したときの集合写真。

 中央のサングラスの人が逢坂さん。その右下が田中九段。中列の右端は、キングス元メンバーの私こと田丸九段。逢坂さんの後ろは、現役時代に豪腕投手だったあの江夏豊さん。逢坂さんのチームの応援に駆けつけていた。

 草野球で元気にプレーする田中は、65歳の今も現役選手である。

文=田丸昇

photograph by Kyodo News