三沢光晴が試合中の事故で帰らぬ人となってから早13年。今年も6月13日の命日を迎えた。

 三沢は1990年代にエースとして全日本プロレスに黄金時代をもたらし、2000年にはプロレスリング・ノアを設立。業界を牽引し続けた平成を代表する名レスラーだ。そんな三沢がプロレス界のトップに立つ前、2代目タイガーマスクとして約6年間、覆面レスラーだったことはプロレスファンならよく知るところだろう。

 ともすれば“黒歴史”とも捉えられがちな2代目タイガーマスク時代であるが、筆者は三沢光晴が真のトップレスラーになるために、重要な時期だったと考える。そこで今回、あらためて2代目タイガーマスクの誕生とその足跡を振り返ってみたい。

1984年、2代目タイガーマスクのデビュー戦 ©AFLO

“お家騒動”と初代タイガーマスクの事実上の引退

 すべての発端は、新日本プロレスの“お家騒動”だった。1983年、佐山サトル扮する初代タイガーマスクの人気もあり空前のプロレスブームを巻き起こしていた新日本だったが、エース兼社長のアントニオ猪木が個人的な事業に執心。その会社が火の車になると莫大な借金は新日本の経営までも圧迫し、社内クーデター未遂事件にまで発展してしまう。そのゴタゴタに巻き込まれたタイガーマスクが、’83年8月11日に内容証明付郵便で契約解除通告書を送付。人気絶頂のまま、事実上の引退となってしまったのだ。

 新日本を退団したタイガーマスクこと佐山サトルは、その後タイガージムを設立し、自身が考案・設立した新格闘技シューティング(現在の修斗)普及に注力する。しかし、この時点ではプロレスを完全に辞めたわけではなかった。リングに上がれば莫大な利益を生む佐山をジム経営と新格闘技だけにとどめておくのはもったいない。そう考えた当時の佐山のマネージャー、ショウジ・コンチャがタイガー復帰に向けて動き出したのだ。

 コンチャがまず最初にコンタクトを取ったのが、元・新日本プロレス営業本部長の新間寿だ。新間は、猪木の右腕として数々のビッグマッチを実現させ、漫画『タイガーマスク』の原作者・梶原一騎の許可を得て初代タイガーマスクを誕生させた張本人でもあったが、前述のクーデター騒動により失脚。新日本を追われていた。しかし、ハルク・ホーガンらを擁するアメリカのメジャー団体WWF(現WWE)会長のビンス・マクマホン・シニアと太いパイプを持っていたこともあり、佐山と再び合体することで新団体設立を決意したのだ。

 新間の計画では、まず’84年3月25日にニューヨークで行われるWWFのマディソン・スクエア・ガーデン大会で、2万人の観衆を前に佐山タイガーを華々しく復活させ、春からはタイガーをエースとした新団体UWFをスタート。猪木の協力も水面下で取り付け、84年4月からフジテレビの水曜夜8時枠でレギュラー放送も内定させていた。

「佐山を使わず、自前でタイガーマスクを作ったらどうか?」

 しかしこの計画は、契約問題などから頓挫。テレビ放送も土壇場で中止となったことで、佐山タイガーのMSGでの復帰戦も同時に消滅してしまう。そこでコンチャが次に話を持っていった相手が、全日本プロレスの総帥ジャイアント馬場だった。

 新日本で絶大な人気を誇っていたタイガーマスクに魅力を感じていた馬場は、’84年2月下旬に都内のホテルで、日本テレビから出向していた当時の全日本プロレス社長・松根光雄を交え、コンチャと極秘会談を行う。しかし、全日参戦の合意には至らなかった。コンチャが要求した条件があまりに高額だったことと、業界外の人間であるコンチャの“背後関係”に懸念を抱いた馬場が、即答せず話を保留したのである。

 こうして一時凍結されたタイガーの全日本参戦だが、4カ月後に話は急変する。’84年6月に全日本は、クーデター未遂事件を機に退社した元新日本の営業部長・大塚直樹が興した興行会社ジャパンプロレスと業務提携を結び、第1弾として8.26田園コロシアム大会を発表。その話し合いを行った際、馬場は佐山タイガーを出場させる案を大塚に持ちかけると、大塚から意外な答えが返ってきた。

 大塚は、馬場からコンチャが提示してきた条件を聞くと、「それは高すぎる。佐山を使わなくても、自前でタイガーマスクを作ったらどうですか?」と提案。大塚はもともと新間寿の腹心であり梶原一騎とも面識があったため、交渉次第で新たなタイガーマスクを誕生させることは可能だと考えたのだ。

 ここから大塚は梶原の自宅に日参し、何度目かの訪問でついに条件付きでOKの返事を引き出すことに成功。そしてその条件を馬場がすべてクリアしたことで、“タイガーマスク”の全日本登場が決定したのである。

22歳の三沢光晴が2代目タイガーマスクになるまで

 ここで2代目タイガーマスクとして白羽の矢が立ったのが、当時22歳の若手だった三沢光晴。馬場はメキシコ修行中だった三沢にすぐさま帰国命令を出し、三沢は’84年7月22日に極秘帰国。デビュー戦は8.26田園コロシアムに決まったことで、準備期間はわずか1カ月。ここからすべてが突貫工事で進められた。

 デビューのプロモーションとして、まず7.31蔵前国技館で2代目タイガーマスクのお披露目が行われたが、あまりにも急な話だったためマスクのサイズは合っておらず、マントは制作が間に合わず、日本テレビの倉庫にあったミス・ユニバースで使用したマントで代用した。初代タイガーマスクがデビュー戦で、あまりにもお粗末なマスクとマントで登場したことは有名な話だが、2代目タイガーマスクの初登場も初代とたいして変わらなかったのである。

蔵前大会にて初登場となった2代目タイガー。

 そしてコスチューム以上に問題だったのは、たった1カ月でタイガーマスクの動きを身につけなければならなかったことだ。器械体操経験者でメキシコ修行中だった三沢は、空中殺法は器用にこなしたが、課題となったのはタイガーのもう一つの武器である蹴り技だった。

 佐山タイガーの蹴りは、若手時代からキックボクシングジムで学んだ本格派で、そこにブルース・リー的な要素を加えた佐山独特のもの。三沢も梶原一騎と親交のある士道館空手の添野義二館長に集中特訓を受けたが、ローリングソバットをはじめとした佐山独特の蹴りはなかなかマスターすることができなかった。

鶴田・天龍の“やられ役”に…2代目タイガーの苦闘

 それでも、短期間でできるかぎりの準備をして迎えたデビュー当日。リングサイドで“生みの親”である梶原一騎が見守る中、2代目タイガーマスクこと三沢は極度の緊張をはねのけ、メキシコ時代のライバルであるラ・フィエラを相手に大技トペ・コンヒーロを爆発させ、最後はタイガースープレックス’84で勝利。無事、初陣を飾った。

 デビュー戦としては十分に合格点の内容で、関係者の評判も上々。しかし、客席からは試合中に冷やかしの「三沢コール」が起こるなど、“2代目”がファンに受け入れられたとは言い難いことも事実だった。

 佐山タイガーの印象があまりにも鮮烈だったため、ファンはなかなか「佐山ではない」タイガーマスクを認めなかった。また、三沢は佐山よりひと回り以上身体が大きかったため、どうしても同じような技を使った場合、初代に比べてやや動きが鈍く見えてしまう。それもあって2代目タイガーマスクは、初代のような爆発的人気を得ることはできなかったのだ。

1984年のデビュー戦。

 その後、2代目タイガーはヘビー級に転向。’88年5月に結婚を機に正体を明かし、そこからは佐山タイガーの動きにとらわれない吹っ切れた試合を見せていたが、苦闘は続いた。

 ヘビー級になってからの2代目タイガーのポジションは、ジャンボ鶴田、天龍源一郎のツートップに続く第2グループ。鶴田や天龍とタッグを組んだ際は、どうしてもタイガーが“やられ役”にならざるを得ない。虎のマスクをかぶったヒーローでありながら、いつもやられる姿を見せていた2代目タイガーは、ジュニア時代以上になかなかファンの支持を得ることが難しかったのである。

マスクを脱いだ三沢光晴が活躍できた理由

 そんなタイガーに大きな転機が訪れる。1990年春、全日本プロレスは新団体SWS設立にともなう天龍源一郎をはじめとしたレスラーの大量離脱により、存亡の危機に見舞われる。そこで立ち上がったのが、長年苦闘を続けていた2代目タイガーマスクだった。

 タイガーは’90年5月14日、東京体育館での試合中にマスクを脱ぎ捨て、以後、素顔の三沢光晴として天龍の穴を埋めるべく奮闘。鶴田やスタン・ハンセンといったスーパーヘビー級に立ち向かっていく三沢の身体を張った闘いは、若いファンのハートをガッチリとつかみ、全日本に90年代の黄金期をもたらしたのだ。

 三沢光晴が素顔になってすぐ、鶴田やハンセンらとあれだけの名勝負を展開できたのは、タイガーマスク時代後期、鶴田らのパートナーとしてヘビー級のトップレスラーと闘うキャリアが積めたからであろう。

素顔時代の三沢光晴(1991年撮影) ©BUNGEISHUNJU

 ヘビー級時代の2代目タイガーは“やられ役”であったかもしれないが、そこで蓄えた技術とトップレスラーとしての気概を素顔になって一気に解放することで、目覚ましい活躍をすることができた。2代目タイガーマスクとしての苦しい6年間は、三沢光晴にとって決して無駄ではなかった。

 2代目タイガーマスクは、たしかに初代のような爆発的な人気を得ることはできなかった。しかし三沢光晴という稀代の名レスラーを生む上で欠かせない時代だったのである。

文=堀江ガンツ

photograph by AFLO