日本将棋連盟は5月23日、谷川浩司九段が十七世名人を襲位したことを発表した。1983年(昭和58)に最年少記録の21歳2カ月で名人を奪取。1997年に通算5期目の名人を獲得したことで、永世名人の資格をすでに取得していた。

 この称号は引退後に名乗るのが原則だが、将棋界への貢献や実績、4月に還暦を迎えたことが考慮され、現役中の襲位となった。田丸昇九段が谷川十七世名人の棋士人生について、自身の思い出を含めて2回にわたって記す。第1回は、少年時代から名人戦挑戦まで。【棋士の肩書は当時】(全2回/#2も)

兄弟喧嘩を止めさせるため教えた将棋で……

授与された推戴状を披露する谷川浩司十七世名人 ©Kyodo News

 谷川浩司は1962年4月6日に兵庫県神戸市須磨区で生まれた。父親の憲正さんは浄土真宗本願寺派の高松寺の住職だった。

 幼年時代は外で遊ぶよりも家の中で遊ぶのが好きで、5歳年上の俊昭さんとダイヤモンドゲームなどに興じた。兄弟は何かにつけて喧嘩した。それを見兼ねた父親は、文房具店で安物の将棋盤と駒を買って兄弟に与えた。喧嘩を止めさせるためだった。ただ父親は将棋をまったく知らなかった。百科事典を見ながら、兄弟に将棋のルールを教えた。

 兄弟は将棋にたちまち熱中した。先にうまくなったのは兄。弟は負けると悔しまぎれに駒を噛んだり、盤をぶつけることがあった。今でもその駒には噛み跡が残り、盤は少し割れているという。

 兄弟は時に喧嘩しながら毎日のように指し、ともに強くなっていった。父親が《将棋の好きな兄弟がいます。遊びにきませんか》と大書した紙を玄関に貼ると、小学生や中学生が何人か来たが、いずれも兄弟に敵わなかった。やがて、市内の将棋クラブに通うと、さらに上達した。

 谷川は8歳のとき、将棋イベントで内藤國雄八段に2枚落ち(上手が飛・角を落とす)で指導対局を受けて勝った。内藤は「あの子は強くなるよ。将棋の腰が座っていて迫力がある」と関係者に言って、谷川の才能を高く評価した。地元の新聞には《神戸に天才少年。須磨の谷川浩司君》という記事が載った。

「ぼくのゆめは、しょうぎ名人だ」

 谷川も棋士になりたいと思い始めた。小学3年のときに文集で、《ぼくのゆめは、しょうぎ名人だ。おとうさんは「おにいちゃん追いぬかしたら、しょうれいかい(奨励会=棋士養成機関)行きやな」と、いった。そんなに早く行きたくない。大山名人でも六年生のとき、はいったんだ。学校は休まなあかん。大阪までひとりで行かなあかん。でも、早く名人になりたい》と書いた。

 谷川は「兄は私より強く、絶好の目標でした。兄がいなかったら、今の私はなかったと思います。最初の師匠は百科事典で、二番目の師匠は兄でした」と、後年に棋士になってから述懐した。

 なお、兄の俊昭さんは灘高校から東京大学へと名門コースに進学し、大手の光学機器メーカーに入社した。アマ棋界で活躍し、アマ王将戦で連続優勝した。

片道1時間40分ほどかけて将棋連盟関西本部へ

 谷川は1973年2月、関西奨励会の入会試験を5級で受けて合格。4月から奨励会の例会(月に2回)に11歳で参加した。師匠は定期的に指導を受けていた若松正和四段(内藤八段の弟弟子)。

 当時の将棋連盟関西本部は、大阪市南部の天王寺から2キロほど南の阿倍野区北畠にあった。神戸市須磨から山陽本線と地下鉄を乗り継いで、片道で1時間40分ほどかかった。小学生の谷川が独りで通うのは大変だった。

 母親の初子さんは早朝に起き、谷川に付き添って9時に始まる関西本部での例会に送り届けた。そして、須磨に引き返して家事をすませてから、夕方に迎えに行った。1日2往復で約7時間の乗車だった。母親の谷川の送迎は1年も続いた。

藤井五冠と共通する「母親の支え」とは

 実は、藤井聡太(五冠)も小学生時代に同じような経験をした。

 藤井は2012年10月、関西奨励会に10歳で6級で入会した。母親の裕子さんは早朝に起き、例会のたびに藤井に付き添った。地元の愛知県瀬戸市から名鉄・新幹線・JRを乗り継いで、現在の関西将棋会館(大阪市福島区)に送り届けた。片道で2時間以上かかった。そして、例会が終わる夕方まで、会館2階の将棋道場の脇にあるベンチで待ち続けた。

 対局の合間や昼食休憩で、母子が顔を合わせることはなかった。母親は、藤井が対局を終えて2階に降りてくる瞬間が最も緊張したそうだ。その表情によって、当日の成績がだいたい分かったという。母親の藤井の送迎は、中学に入学するまでの2年半にわたって続いた。

 後年に大棋士となった谷川と藤井。両者の奨励会時代には、母親の親心がともにあったのだ。

叡王防衛し、会見に臨んだ際の藤井聡太五冠 ©Wataru Sato

奨励会に「谷川をつぶす会」なるものがあった

 1973年5月に私こと田丸四段は、関西本部を訪れたときに奨励会の例会で、入会したばかりの谷川を初めて見た。度の強そうなメガネをかけていて、体はまだ小さかった。きちんと正座した対局姿は、大器の片鱗が早くもうかがえた。

 谷川は天才少年として注目されていたが、奨励会で当初はあまり勝てなかった。

 何でも「谷川をつぶす会」なるものがあり、先輩の奨励会員たちは敵愾心をむき出しにして戦ったという。

 谷川は中学生になると、体が成長するとともに、将棋も大きく伸びた。ハイペースで昇進していった。

“13歳の谷川初段”が記録係を務めた

 1975年9月に私こと田丸五段は、新人王戦の準決勝で森安秀光六段と対戦した。関西本部での対局で記録係を務めたのは、13歳の谷川初段だった。写真は、谷川が書いた記録用紙。

©Noboru Tamaru

 谷川の師匠の若松五段の弟弟子に当たる森安は振り飛車党で、三間飛車の戦法を武器に活躍していた。谷川も当時は三間飛車をよく指していて、盤側で勉強したいと思ったのだろう。なお森安−田丸戦は激闘の末に、田丸が終盤で寄せの好手を逃して敗れた。谷川はその手をたぶん分かっていただろう。

 谷川は1976年12月、四段に昇段して14歳8カ月で棋士になった。加藤一二三・九段に続いて、2人目の「中学生棋士」だった。

 師匠の若松五段は谷川の将棋について、「攻守にバランスがとれた将棋で、どちらかというと攻めの棋風。終盤はしっかりしています。読みが正確で、勝負強いです」と評した。

 谷川は1977年度から、名人戦の予選リーグの「順位戦」に参加した。早くも名人候補の呼び声が高く、抜群の成績を収めて昇級を重ねた。1980年度のB級2組では10戦全勝で昇級(私こと田丸六段も9勝1敗で昇級)。1982年には最上位のA級に5期目で昇級した。そんな谷川でも、C級2組順位戦で苦い経験をした。

 1期目のC級2組順位戦で8勝2敗の成績だったが、同成績順位下位によって昇級できなかった。2期目は7連勝し、残り3局のうち1勝で昇級となった。しかし、気持ちの緩みがあったのか2連敗し、東京での最終戦を迎えた。「これで負けたら、もう神戸には帰れない」という悲壮な思いで対局に臨んだ。対戦相手はベテラン棋士の関屋喜代作六段。成績不良でいわば消化試合だった。

「地獄」というものを初めて見た思いです

 関屋は決断の良い棋風で、谷川戦でも早指しで攻め込んでいった。一方の谷川は緊張感から適切に対応できず、相手の勢いに押されていつしか不利に陥った。

 関屋は終盤の局面で記者室に現われると、「△6六銀で勝ち」と言ったという。しかし、実戦では別の手を指した。以後は難しい攻防が続き、谷川が寄せ合いを制して勝った。

 関屋は△6六銀で勝ちと承知していて、なぜ指さなかったのだろうか。前途ある天才少年の芽を摘みたくないと思ったのか、それとも本譜の読み筋に誤りがあったのか……。

 谷川は関屋との対局について、後年に自戦記で次のように書いた。

《私があの対局で負けて昇級できなかったら、ショックで何年間もC級2組に足踏みしたかもしれません。勝負の怖さと勝つことの難しさを痛感しました。「地獄」というものを初めて見た思いです。そして、自分の強運を感じました。それが良い経験となり、以後は昇級などの大きな対局で、震えることがなくなりました》

「谷川、もっと学校を休め」「何より体育を」

 谷川は神戸市の滝川高校に進学した。学業は優秀だったが、対局日程が詰まる状況になると、授業の出席日数が不足してきた。

 しかし、級友たちは「谷川、もっと学校を休め」と、将棋に理解を示して激励した。学年主任の教諭も「学校に来たら、何より体育を受けなさい」と親身に助言した。私立なので柔軟に対処してくれた。

 1981年に高校を卒業。将棋に打ち込む時間が増え、公式戦でさらに活躍した。

 1982年度のA級順位戦で、谷川八段は大山康晴十五世名人、中原誠前名人らに勝って7勝2敗の成績を挙げた(同門の内藤九段には敗れた)。そして、同成績の中原とのプレーオフに勝ち、1期目で名人戦の挑戦権を得た。

 谷川は1983年の名人戦で、前期名人戦で中原名人を破って悲願を達成した加藤名人に挑戦した。

〈第2回に続く〉

文=田丸昇

photograph by BUNGEISHUNJU