羽生善治九段(51)は6月16日、公式戦の対局に勝って通算1500勝(歴代1位)を達成。終局後の記者会見で、「一つ一つの積み重ねの中で、大きな節目を迎えることができて、うれしく思います」と喜び、思い出の対局についての質問には「強いて挙げればデビュー戦」と語った。1500勝という大河の「源流の一滴」に当たる対局とは、どんな状況で行われたのだろうか――。田丸昇九段に36年前の当時を振り返ってもらった。【棋士の肩書は当時】

 羽生九段は前期のA級順位戦で陥落し、連続29期(名人在位9期を含む)も在籍していたA級の地位を失った。永世名人(十九世名人)の資格を有する大棋士だけに、その去就が注目されていた。

 同じような前例では、十八世名人の資格を有し、A級に連続22期(名人在位8期を含む)も在籍していた森内俊之九段は、2017年にA級順位戦で陥落した後、「フリークラス」に転出した。

 これは、順位戦に参加しない形で現役棋士を続ける制度。以後は順位戦に復帰できず、名人復位の道は閉ざされる。森内は「永世名人の資格者として、A級から降級したら、何らかの決断をしなくてはいけないと思った」と、当時の心境を語ったものだ。

 羽生はフリークラスに転出せず、順位戦でB級1組に在籍して再出発を図った。これも、ひとつの決断である。6月16日の1回戦では山崎隆之八段に勝ち、A級復帰に向けて幸先のよいスタートを切った。

 そして、冒頭で記したように、公式戦の対局で通算1500勝(歴代1位)を達成した。

 羽生は1982年12月に奨励会(棋士養成機関)に12歳で6級で入会。1985年12月に15歳2カ月で四段に昇段して棋士になった。その3年間は義務教育中で、公式戦の記録係をあまり経験してこなかった。

90年12月、20歳になった頃の羽生善治 ©Kyodo News

 前述の記者会見で、「思い出の対局はデビュー戦」と語った理由として、公式戦の対局がどのように行われるのか勝手が分からなかったので、いちばん印象に残っていたという。また、別の記者会見では「個性的で迫力ある大先輩の人たちと対局していく中で、大変な世界に来てしまった、というところが出発点としてあったと思います」とも語った。

藤井聡太のデビュー戦に比べれば静かなものだった

 1986(昭和61)年1月31日。羽生四段は王将戦で宮田利男六段(当時33)とのデビュー戦に臨んだ。将棋雑誌などに載った記事を基にして、当時の状況を振り返ってみる。

 2016年12月に行われた藤井聡太四段(同14)のデビュー戦には、多くの報道陣が駆けつけて社会的にも注目された。

 羽生のデビュー戦には、写真誌の『毎日グラフ』『フォーカス』などが取材に訪れたが、藤井の対局と比べると静かなものであった。

 当日は将棋会館で公式戦が何局か行われていて、対局者らは羽生の戦いぶりをたまに見にきた。

 羽生は先輩棋士のそうした視線を気にする様子はなかった。

 時には乱れ気味の自分の髪をかきむしり、正座をくずして胡坐をかくこともあった。体裁に無頓着で、マイペースの対局態度だった。

 公式戦の対局での勝手が分からなかったので、自然体に過ごしたともいえる。

羽生のデビュー戦で居合わせた先崎学が受けた衝撃

 昼食休憩のとき対局室で、羽生とほかの対局で記録係を務めた先崎学初段(同15)が並んで立つ光景が、後日に将棋雑誌に載った。そのキャプションには《元天才? の先崎》と記された。

 先崎は、同年の羽生より奨励会入会が1年先輩で嘱望されていた。しかし、10代前半でパチンコや麻雀などの遊びにのめり込むと、奨励会の成績は低迷。後輩の羽生にすぐに抜かれた。ただギャンブルの技は冴えていたので、遊び仲間には《天才》と呼ばれた。

 先崎は将棋雑誌の写真と文言を見て、大きな衝撃を受けたという。

 後年に出版した自伝エッセイ集『一葉の写真』では、《あの一葉の写真は、生まれてはじめて味わう屈辱だった。クエスチョンマークがなければ、僕は将棋をやめていただろう。そして僕のあたらしい人生の一歩だった》と、当時の心境を綴った。

 先崎は、その写真と文言を契機に奮起。《不良少年の典型が、闘争心あふれる明るい少年に》変貌していったのだ。そして翌1987年の秋、四段に昇段して棋士になった。

 宮田−羽生戦の戦型は、当時の定番だった「相矢倉」。羽生は後手番ながら先攻し、有利な戦いに進めた。宮田も攻勢に転じ、終盤は難解な形勢に思えた。羽生は攻防を兼ねた好手で乗り切り、最後は鮮やかな決め手の△4五銀を放って勝った。

 終局後の感想戦で、天才棋士と謳われた谷川浩司九段(同23)が、羽生の後方からそっと見ていた。その光景は、人気写真誌『フォーカス』に掲載されて話題になった。

 羽生がデビュー戦で勝利すると、メディアは「若き天才棋士 現われる」と報じた。

1986年に撮影された1枚 ©BUNGEISHUNJU

「完成されていて、荒けずりの魅力がない」

 ただ先輩棋士の中には、「若けりゃ、いいってもんじゃない」「高校野球の優勝投手みたいに完成されていて、荒けずりの魅力がない」などと、辛口の見方もあった。

 若手精鋭の島朗五段(同22)は、羽生将棋と△4五銀について、「大したことはないと、みんな言っていますよ。△4五銀はいい手ですけど、あのくらいは……」と評し、羽生に対抗心を見せた。

 しかし、羽生がものすごい勢いで勝ちまくっていくと、そうした声はかき消された。

 翌年の1987年、島六段が主宰し、若手精鋭の佐藤康光四段(同18)と森内四段(同17)がメンバーの伝説の研究会「島研」に、羽生四段が加わった。島が羽生の強さを認めて入会を勧めたのだ。その後、4人の棋士は切磋琢磨して実力を伸ばし、後年にタイトルをともに獲得した。

(左から)島朗、佐藤康光、羽生善治、森下卓、森内俊之 ©BUNGEISHUNJU

 羽生が公式戦の対局で達成した通算1500勝。その大河の「源流の一滴」ともいえるデビュー戦は、以上のエピソードのように、いろいろな波紋を及ぼした。

1000勝、1434勝の時に残した言葉も含蓄に富んでいる

 公式戦の通算勝利では、600勝(将棋栄誉賞)と800勝(将棋栄誉敢闘賞)が節目となる。羽生にとって、それらは通過点にすぎなかった。

 2007年12月20日。羽生二冠はA級順位戦で久保利明八段に勝ち、通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成した。達成時の通算成績は1000勝373敗。年少記録1位(37歳2カ月)、速度記録1位(22年0カ月)、勝率記録1位(7割2分8厘)と、記録ずくめだった。

 羽生は終局後の記者会見で、「1000勝という実感はわかないです。四、五段時代に勝ち星の貯金をしたのが大きかったと思います。まだ30代なので、着実に前に進んでいきたいです」と語った。

 2019年6月4日。羽生九段は王位戦の白組プレーオフで永瀬拓矢叡王に勝ち、通算1434勝を達成した。

 大山康晴十五世名人(1992年に69歳で死去)の通算勝利を超えて、歴代1位となった。

 羽生は終局後の記者会見で、「大山先生は60代の晩年でも、棋譜で見た昔の強さと迫力というものがありました。私自身は、その領域にまだ行ってないと思います。息長く活躍できるように頑張りたいです」と語った。

2019年 ©BUNGEISHUNJU

羽生ら現代棋士と大山康晴との比較は無理がある?

 最後に、大山十五世名人の公式戦の通算勝利(歴代2位の1433勝)について取り上げる。

 大山の記録に残る初勝利(対局)は、戦前の1940(昭和15)年に行われた四段時代の昇降段戦で、藤内金吾六段との香落ち戦。

 関西の名棋士だった藤内八段の師匠は、伝説の棋士として映画や歌謡曲でおなじみの阪田三吉(贈名人・王将)。弟子に内藤國雄九段、孫弟子に谷川九段らがいる。

 大山の公式戦の記録については、大山の評伝を30年前に出版した井口昭夫さん(元毎日新聞記者)が、大山が保存しておいた昔の棋譜や手帳などを基にして調べ上げたもので、それが根拠となっている。ただ戦前戦後の混乱期の頃は、消失した棋譜もあったようだ。将棋大成会(日本将棋連盟の前身)の本部が空襲で焼失して対局をできなかったり、大山も21歳で出征を経験したりした。

 以上の事情によって、大山の通算勝利はもっと多かったと思われる。伸び盛りの時期に対局をできなかったブランクも大きかった。

 大山と、現棋界の羽生らの棋士を記録で比較することは、歴史的にも制度的にも――そもそも無理があると思う。

文=田丸昇

photograph by KYODO