ポルトガル語なまりの機長のアナウンスが流れ、小窓から外を眺めた。
薄い雲の隙間を飛行機は飛んでいく。蒼い海と大地が見えた。島の上部は濃い緑で覆われていて、ところどころに集落が白い点となって続いている。
島の上に虹がかかっていた。奥地では雨が降りはじめる頃だろう。
アソーレス諸島は大西洋の真ん中に浮かんでいる。捕鯨やマグロ漁で栄えた島々はポルトガルの一部ではあるものの、本土からは1500km離れている。首都リスボンから飛行機で2時間半。大洋に隔てられ、欧州世界から断絶された島々には、いまも独特の風土が残っている。

守田英正は同諸島最大のサンミゲル島で日々を過ごしている。
島は復活祭を前に賑わいをみせていた。欧米からの観光客もいる。コロナの時代に溜め込んだ、人間の旅する欲求があたりに満ちていた。
アソーレス諸島の人口は24万人、その半分以上がこの島に住んでいる。最大の町ポンタ・デルガダは白黒の石畳が続いていて、ゆったりとした時間が流れている。道ゆく人々も素朴で、着飾った人はいない。
その午後には島のチーム、サンタ・クララの試合が控えていた。市街地から北東へ、10分ほど車で進んだところに、エスタディオ・デ・サンミゲルはある。
牧歌的なスタジアムには地方の運動公園の趣が漂う。道路からは試合が丸見えで、すぐそこで牛の群れが牧草を食んでいる。
もくもくとした湯気とともに、旨そうな匂いが漂ってきた。売店の前でサポーターが試合前の腹ごしらえをしている。
「豚サンド」と老サポーターは言った。
「旨いぞ。じっくり煮込んである」
日本人は珍しいのだろう、誰もが好奇の目を寄せてくる。日本人サッカー選手という存在がもはや珍しくなくなった欧州では感じられない、懐かしい視線だ。
二人組の若者が教えてくれた。
「モリタは今日は途中からだね、怪我してたみたいだから。でもタガワは先発だ。彼も、若いけどいい選手だ」
サンタ・クララには今冬移籍してきた田川亨介もいる。対戦相手のエストリルには食野亮太郎も。大西洋の彼方で日本人3人がリーグ戦を戦う、2022年とはそんな時代なのだ。
後半半ば、守田が監督に呼ばれた。スタンドから拍手が湧く。背中の選手名はHIDE。守田は4-4-2の右ボランチに構え、あたりの敵を潰しながら、機を見ては相手エリアへ飛び込んだ。チームの心臓部にどんと構える姿に頼もしさを感じた。

「守田が来てからチームは変わったんだ」
「守田が来てからチームは変わったんだ」
試合を取材していたヌーノ・ネべスは言った。1835年発刊の島の地元紙『アソリアーノ・オリエンタル』の記者だ。
「昨シーズンからきて、いきなりチームのベストプレーヤーになった。中盤で何でもできる選手だ。アンカーにインサイドハーフ。足元の技術が高くて、気の利いたパスも出す。なにより彼が中盤に入ってから、他の選手も積極的にプレーするようになった。それが一番の変化だ」
サンタ・クララは勝った。1部残留に近づく勝利だ。決して多いとは言えないサポーター(スタンドの半分以上は空席だった)も、それなりに勝利を祝った。丘のむこうでは、試合前と変わらずに牛たちが遠くの海を眺めていた。
試合後、守田と言葉をかわす。「すごいでしょう、このスタジアム」。彼はそう言って微笑んだ。「ホーム」と「アウェー」しか表示されないスコアボード。ロッカールームの設備も最低限だ。選手出口には柵もなく、駐車場の前でファンが出待ちをしていた。選手とファンがほとんど接触できない欧州のビッグクラブとはまるで違う。そんな環境を、守田はどこか楽しんでいるようにも見えた。後日、市内で会う約束をした。
モリタはきっとスポルティングに移籍するから、君たちともう会うことはないね。ヌーノはそう言って、なぜか筆者とカメラマンの写真を撮り帰っていった。翌日の紙面には、「日本人3人を取材する日本人」という小さな記事が載せられていた。
性格的にそうでなくても、外国人として振る舞う
その日は小雨がちらつき、町の石畳を濡らしていた。市街地のホテルに、守田は時間通りにやってきた。
辺境に生きることについて聞いた。
「うーん、きついですよね、やっぱり」
彼は数日間だけの来訪者ではない。不便に目が行くのは当然だろう。
「いまはここでひとり。時間があるのって、いいことだけじゃないんだなと。毎朝練習をして、筋トレして、その後はフリーなのでポルトガル語の授業を受けたり。ただ、ここは島なのでよりサッカーに集中できる。時間はたっぷりあるので、これからはスプリントと心肺機能を上げるトレーニングをやろうと思っています」
離島の最大の障壁は移動だろう。
彼は現欧州組の中でも最も過酷といえる環境に生きている。ほぼ2週間毎に島から本土へ飛び、試合をしては帰ってくる。それが1シーズン続く。
日本代表合流に「筋肉痛を残したまま出発する」ワケ
日本代表に合流する際はさらに厳しさが増す。3月のオーストラリア戦ではリスボン、ドバイと乗り継ぎ、約30時間かけて移動。大一番でフル出場し、ワールドカップの切符を手にした。移動に関しては、彼なりのコツもつかんだ。
「筋肉痛を残したまま出発することです。移動中は丸一日何もできないし、到着後も夜であれば何もできない。特に代表戦前のリーグ戦ではかなり負荷をかけて試合に挑む流れを作っています。オーストラリア戦のときも、そこはしっくりきてました」

異文化での生活については日本にいた頃からイメージはあった。しかし実際に海外に来て、その過酷さを身にしみて感じた。
「日本でプレーするのと海外では意識や姿勢が天と地くらい違う。環境がそうさせるのかなと。たとえ怪我があったり、キャリアが思うように進まなかったとしても、日本に戻ったときに海外移籍を後悔する選手はいないと思う。移動も含めてこっちに来ないと分からない。自分はそれを求めてここに来たんです」
サンミゲル島に日本料理店はない。レストランの選択肢も限られ、あるのは基本的には地元料理だ。かくして日本代表の万能MFは日々スーパーへ赴き、食材を購入しては自宅で調理する能力まで身につけた。
「やっぱり海の町なので、海鮮がおいしいですね。僕は肉が大好きなので肉ばかり食べてましたが、ここでは魚や貝を多く摂ってます。栄養的にもいいですし。調味料は持ってきているので、日本の料理にも近づけることはできます」
守田が勧めてくれた島の逸品がある。『Arroz de marisco(アロシュ デ マリシュコ)』。魚介のスープリゾットだ。
ポンタ・デルガダから海沿いを東に走った魚介の名店「Cais 20」で食した。本土にもあるポルトガルの名物料理だが、島のそれは格別だ。橙色のスープには大洋の滋養が詰まっていて、ちりばめられたコリアンダーの香りが匙の上を舞う。鍋底が見え始めたら、この海域で獲れる高級魚チェルネを焼いてもらう時間だ。欧州大陸にはほとんど回ってこない、脂の乗った風味豊かなこの魚も島では日常の食材である。
店は満員となり、各テーブルではピコ島産の白ワインがあいていく。テレビ画面ではポルトの試合が流されている。そう遠くない未来、違う色のユニフォームを着てプレーする守田の姿を、島民は画面越しに目にすることになるだろう。
人として「変えた」部分もあった
極東の島国から大西洋の島へ。地球の反対側にやってきて、人として変わった部分もあった。変えた、というべきだろうか。
例えばサンタ・クララのロッカールームで、移動中のチームバスで、陽気な音楽が鳴る。守田は踊る。
「日本人でいなきゃいけない時と、外国人として振る舞う時があって、性格的にそうじゃなくてもやるべき時がある。その方が受け入れてもらえる。何もせずに受け入れてもらえるのは、本当に実力がある選手だけなんです。悔しいけど、現状では日本人はブラジル人より下に見られる部分もある。もし僕がドリブラーで自分で仕掛けていく選手なら、ある程度孤立しても関係ない。でも、僕のポジションは自分の特長を周りにも生かしてもらわないといけないので、関係性は日頃から築かないと」
守田はチームの懐に器用に飛び込んだ。昨季、加入早々の彼にスタッフが告げた。
「温泉、あるぞ」
オフも家でゆっくりするタイプの守田だが、わざわざ車を走らせ山間にある温泉街フルナスに向かった。テッラ・ノストラ温泉の湯は黄銅色で、日本とは違いややぬるい。独特な泉質は好みではなかったが、貴重な体験だった。
「サッカー人生を終えたときに何が残っているかがその人の価値だと思っています。あの選手すごかったね、と言われるよりも、サッカーを通じて、人として何をやってきたかを自分は大事にしている。いろんな人種や文化に触れたいし、多くの挑戦や経験をして、いつか自分の子供にそれを伝えられるような人になりたいですね」
スポルティング移籍の噂で島はもちきりだった
島にいた数日間、ポルトガルのメディアは守田のスポルティング移籍の噂でもちきりとなっていた。
朝、売店でスポーツ新聞を買えば(本土で買うより50セントも高かった)一面には彼の顔があった。今季が終わり、目指すステップアップを果たすことができれば、その数カ月後にはもうひとつの夢、ワールドカップが待っている。
「ワールドカップという舞台は新しい自分を知ることのできる機会になると思います。僕は全くプレッシャーを感じないタイプなんですが、あの舞台ではそれを感じられるかもしれない。それに僕はこれまで一度も強豪国と試合をしてない。大人数の観客の中でやったこともない。だからスペインとドイツと戦えるのは個人的には嬉しい。ベスト8が目標と言われるけど、自分の考えとしては優勝を目指す中で結果的にベスト8なら喜ばしい、そう思いたいですね」

スペインとドイツ。両国ともボール保持に関しては世界トップの国だ。この2試合、相手にボールを支配されるという前提でいいか。そう聞くと、守田はしばらく黙り込んだ。長い沈黙だった。
「難しいですね……。うーん。難しい」
守田の頭の中には数日前に目にしたチャンピオンズリーグ準々決勝の残像があった。
「自分たちがどれだけ引いて固めていようが、最終的には上手いチームには負けるようになっているんです。リアクションとアクションの差が、そこにある。アトレティコ・マドリーは引いて守備に徹したけど、最後はマンチェスター・シティのクオリティにやられた。だから僕はスペインにもドイツにも、ボールを握りにいく姿勢は持ちたい。どれだけやれるのかを確かめたいですし。でも、5枚のブロックでカウンター狙うのもひとつのやり方。そのとき、一番勝つ確率が高い選択をしたい」
世界最高の舞台で自分の力を見せる。この1年半で、淡い自信は確信となった。
「ここに来て正しかったという手応えはあるし、自分がその選択を正しい方向に持っていったという自負もあります。代表でも、連携面は最初の頃よりは遥かによくなった。中盤は3枚でいくかどうかは分かりませんが、アンカーも好きだし、インサイドもできるし、2ボランチは元々やっていたところ。どのポジションでも、僕は戦える」
そう言い切る姿は自信に満ちていた。
礼を言い、島を発つ便に乗った。なぜだろう、復路はいつだって短く感じる。
経由地リスボンの喧騒が懐しかった。定価で買ったスポーツ紙には、写真付きの守田の記事があった。紙面の上を走る日本人が、どこか遠い世界のことに思えた。
<#1につづく>
文=豊福晋
photograph by Daisuke Nakashima