夏の甲子園、8月9日の第1試合に登場する横浜高校。全国屈指の激戦区・神奈川を勝ち抜いた名門は、どんな野球を見せてくれるだろうか。2019年にプロ野球で活躍するOBたちを取材した、Number983号(2019年7月25日発売)『超名門の極意 「誰よりも走って、頭を使え」横浜高校』を特別に公開します。※肩書き、年齢などはすべて掲載時のまま

 進路を考えていた時の本音は「ラクして甲子園に行きたい」。親と指導者の導きで激戦区の強豪校に進むことになっても、課された走り込みをこなしながら「どうやってサボろうか」と考えを巡らせていた。

 ストイックな中学生ではなかった涌井秀章は、横浜高校での3年間を経てプロになった。15年目を迎えたいま、母校で何を学んだかとの問いに、「走ること」と真っ先に答える。

「特にエースは走らされる。ぼくはほかの人の倍くらい走りました」

 根性論的な持久走ではなく、確かな目的があったと知るのは卒業してからだ。同校野球部、小倉清一郎部長(当時)の言葉が載る記事に触れ、「そういう意図があったのか」と気づかされることがたびたびあった。

 現在では自らの実感として、走る意味を見出している。涌井は言う。

「最近の高校生は、ウェイトや科学的なトレーニングが入ってきて、投げることと走ることの結びつきをあまり感じていないと思いますけど、自分の中では横浜高校の教えである『走ること』を一番に置いている。いまでも、まだまだ走ってますよ」

西武時代、キャンプで走り込む涌井(2009年)©Hideki Sugiyama

いまも胸を張る“フィールディング”

 小倉が教える野球は、基礎的にしてハイレベルだった。バント処理や打球への反応などフィールディングを鍛えつつ、「これをやっておけばプロで困ることはない」と言い添えた。4度のゴールデングラブ賞を受賞した涌井が「プロに入って(他の投手より)自分のほうがうまいって思う時もある」と控えめながら胸を張れる礎は、高校時代に築かれた。

「たとえば一、三塁でダブルスチールを仕掛けられた時、プロならサイン優先で、ピッチャーは三塁ランナーがスタートするのが見えてもキャッチャーの二塁送球をスルーします。でも、横浜高校ではカットしてでも三塁ランナーでアウトを取りに行く。小倉さんはプロでもやらない練習を平気でやるし、プロ野球でコーチをやってもおもしろいんじゃないかな」

 技術・戦術を叩き込むのが小倉なら、心を鍛えあげたのは、監督の渡辺元智だ。

 高2の秋の神奈川県大会で、涌井は横浜隼人高校の打線に打ち込まれた。翌春センバツの出場が絶望的になった敗戦の後、渡辺に「ピッチャーはクビだ」と言い渡される。実際、しばらくは外野にまわっていた。

「さすがにエースに対して、ピッチャーをクビっていうのは……」

 苦笑とともに呼び起こされる期間はしかし、右腕に成長を促した。3年春の県大会準決勝で横浜隼人と再戦。7回コールド、涌井の完封によって勝利したのだ。

 振り返れば、入部まもない頃の涌井に渡辺は「3年後の目標は何だ?」と問いかけていた。楽な道に流れがちだった15歳は、漠たる思いを半ば無理やり言葉にした。

「ドラフト1位になって、契約金1億円をもらうことです」

ファンの声援に応える涌井(2010年)©Hideki Sugiyama

 横浜高校の創立者、黒土四郎が好んだ「目標がその日その日を支配する」との言葉を、渡辺は座右の銘とした。高みを見据え、努力を重ねれば、おのずとそこへ行き着く。現実に西武からドラフト1巡目指名を受けた涌井は、その体現者となった。

 目標を立てることの大切さ――それも高校での大きな学びだと涌井は言う。

3年春にキャプテンを“クビ”になった

 7年後輩に当たる近藤健介は、キャプテンをクビになっている。3年春の甲子園で初戦敗退。宿舎に戻るなり渡辺から通告された。近藤は言う。

「横浜高校が1回戦で負けるのは、あってはいけないことなので」

 涌井の例も重ねれば、屈辱的な負けを機とする称号の剥奪は、主力を逞しくさせるための渡辺の常套手段だったのだろう。この時の近藤たちも、夏の県大会5回戦で春全国優勝の東海大相模を撃破、さらに桐光学園との決勝では近藤のサヨナラタイムリーで延長戦を制し、春に続いて甲子園行きの切符をつかんでいる。

桐光学園との決勝でサヨナラ打を放ち、喜びを爆発させる横浜・近藤健介 ©Sankei Shimbun

 横浜高校での学びはと尋ねられ、近藤の第一回答はずばり「野球かな」。重ねて訊くと「少ないヒットで点を取る、頭を使った野球」と言葉は膨らんだ。

 遊撃手だった近藤は1年秋から捕手にコンバートされた。その秋は、翌春に定年のため部長からコーチに転じる小倉がベンチ入りした最後のシーズンでもある。

「データや、それをどう試合で生かすか、ミーティングで叩き込まれ、ベンチでもアドバイスをもらってやっていました。(小倉の)分身じゃないですけど」

 プロに入りたいと強い意思を持ってやってきた近藤に、小倉も期待をかけ、野球の細部を教え込んだ。プロ8年目、球界屈指のヒットメーカーとなった25歳は、当時の教えがいま、打席の中で生きていると話す。

高校時代は現中日・柳裕也(左)とバッテリーを組んだ近藤健介 ©Hideki Sugiyama

「頭を使わないと長生きできない世界。キャッチャーとして小倉さんに教わったこと、ほとんどそれで打っているようなものです」

 日本ハムに入団して、自分がいかに高度な野球をしてきたかに気づかされた。高卒の同期がプロの練習に目を丸くしている横で、近藤だけは平静だった。

「コーチが言うことも『あ、聞いたことあるな』って。当たり前にやってましたけど、横浜高校ってすごいんだなと思いましたね。チームの動きだとか(新しく覚えるべきことは)ぼんぼん頭に入ってきたので、1年目から自分の技術向上のために時間を割けた。それが大きかったと思います」

 ルーキーながら夏に一軍に昇格すると、日本シリーズの大舞台まで経験した。高校の下地があればこそ、適応も早かった。

「よく覚えているのは冬の練習ですね……。とにかく走る。4勤1休とかで」

 プロ野球チームのキャンプと似た練習の組み方だったなと、近藤はのちに思う。横浜高校での3年間は、いわばプロ生活の予行練習だった。

対戦相手を分析したデータ集「小倉メモ」で知られる元横浜高校野球部部長・小倉清一郎 ©Hideki Sugiyama

渡辺監督の孫「練習はきついより難しい」

 今年から楽天の一員となった渡邊佳明も同じことを言う。

「(進学した)明治大学では苦労しなかった。いきなり言われたことでも『全然できるわ』と。やっぱり高校時代に頭をフルに使ってやっていたので……プロに入ってからも動きの面では苦労してないです」

 渡辺監督の孫としてアマ時代から注目を浴び続けてきた。幼い頃から練習を眺め、「試合に出られないぞ」と祖父から反対されながらも『YOKOHAMA』のユニフォーム以外に袖を通す気持ちにはなれなかった。渡辺と一緒に暮らしていた家を出て、近くの寮に住んだ。下から数えたほうが早い序列でのスタート。渡邊は思い返す。

「各県の1番2番の選手が集まってレギュラーを争うイメージそのままでした。練習はきついというより難しい。頭がぐちゃぐちゃになるんです。覚えるというより、まずは理解する」

 プロどころか野球で大学に進む未来すら描けなかった。だからこそ、渡辺が繰り返す言葉が身に染みた。

「人生の勝利者たれ」

 渡邊はこう読んだ。

「野球をやめて別の道に行こうが、人生で成功すればいい。だから野球以外のこともしっかりやれ、と。当時から、野球がダメでもほかの道があるという考えはありましたし、逆に、それがあったからこそ野球に集中できたようにも思います」

 別の道もある。だからいまは目の前のことに没頭できる。指導者の言葉に逆説的に力を得た渡邊は、主力の一人に成長する。

 2年生となった13年夏には、当人が勲章のように語る「ひと桁の背番号」を着け、県大会準々決勝で松井裕樹を擁する桐光学園に勝利。甲子園の土も踏んだ。

甲子園出場を決め、祖父である渡辺監督を握手 ©Sankei Shimbun

 監督の孫として「厳しくいくぞ」と言われていた高校生活、「優しいおじいちゃん」と微妙な距離ができた3年間を必死に乗り切り、大学そしてプロへと未来は開けた。

 ドラフトで楽天からの6位指名を受け、祖父にかけられた言葉は「いままでどおりやれ。ケガはしないようにな」。1965年のコーチ就任から半世紀、15年夏に監督を勇退した渡辺の自負と孫への愛情が、その一言に詰まっていた。

 1年目からチャンスをつかみ、渡邊は5月に早くも一軍に呼ばれ、なお踏みとどまっている。6月5日の巨人戦、プロ初打点を挙げた一打は三遊間を鋭く破った。

「高校時代に流し打ちばかり練習していた。それが自分の一つの武器になっている」

 かつて横浜高校で「試合に出る」ために磨いた技は、プロでも活路を開くだろうか。

迷ったときに立ち返る原点

 小学生だった頃の渡邊に、高校生の涌井はカラーボールを投げてやった。寮の食堂でプラスチックのバットを振り回す渡邊の姿を思い出しながら、横浜高校とはどんな場所か、ふさわしい言葉を宙に探す。

「何かがあった時、高校の頃のこと、練習だとかを思い出しますね。迷った時とかにふと立ち返る。ありきたりな言い方だけど、原点ということになるのかな」

 33歳のクールなつぶやき。3人にとって、いや同窓のほとんどの者にとって共通の思いだろう。

文=日比野恭三

photograph by Sankei Shimbun