なぜ、急激に弱くなったのか――。夏の甲子園『都道府県別勝利数ランキング』で鳥取は戦後、最下位に落ち込んでいる。今大会も1回戦で鳥取商が仙台育英に0対10で完敗するなど、2000年以降はわずか3勝しかしていない。
 しかし、1915(大正4)年の『第1回全国中等学校優勝野球大会』で全国初勝利を挙げたのは、鳥取中だった。戦前の旧制中学時代は白星19を数え、香川と並んで10位タイ。ベスト4に4度入るなど、強豪の部類に入っていた。一体、何が起こったのか。NHK高校野球解説者で、鳥取在住の杉本真吾氏(元米子東監督)が知られざる実情を明かす。(全5回の#4/#5へ)

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1960年センバツで準優勝も…なぜ低迷?

 雨の中、地元の英雄となった米子東ナインを一目見ようと、駅前のビルは人で溢れ、屋根の上で待つ人まで現れた。国鉄伯備線の米子駅周辺には1万5000人もの市民が集まった――。

 1960年、春のセンバツで準優勝した米子東ナインが故郷へ戻ると、熱狂の渦が巻き起こった。「悲願の優勝まで遠くない」。鳥取県民はそう感じていたはずだ。米子東はセンバツで翌年もベスト4、1966年にもベスト8と勝ち進み、強豪の一角を占めていた。しかし、鳥取はその後、急激に低迷していく。杉本氏がその要因を読み解く。

「地元に社会人チームがほとんどない歴史と大きく関係しています。小学生や中学生を含め、球児がレベルの高い練習や試合を観られる環境がなく、高校卒業後の受け皿がない。社会人野球が撤退したことで、高校野球も弱くなったと考えられます」

現在行われてる夏の甲子園でもNHK解説を務めている杉本真吾氏(本人提供)

 戦前、鳥取が強かった頃には米子鉄道局(のちに米子鉄道管理局に改称)が存在し、創部6年目の1934(昭和9)年から都市対抗野球に3年連続出場を果たした。『東の沢村、西の北井』と沢村栄治と並び称された北井正雄、国鉄スワローズ初代主将の井上親一郎、国鉄初の開幕投手を務めた成田啓二、『8時半の男』宮田征典を義弟に持つ巨人の種部儀康も在籍歴のあるチームだ。

 しかし、自動車の生産台数が伸びるなど他の交通機関が発達したことで、経営が悪化。1963年3月、米子鉄道管理局の野球部は休部に追い込まれた。

「その後、20年間も鳥取には社会人チームがありませんでしたが、1983年に王子製紙米子が創部され、1998年まで続きました。都市対抗には出場できなかったものの、ドラフトでは嶋田哲也(現・NPB審判員)が阪神、玉峰伸典が巨人に指名されています。今年、甲子園に出場した盈進(広島)の佐藤康彦監督も王子製紙米子出身です。この頃、鳥取勢は弱くなかったんですよ」

「社会人チームがある」時代は強かった

 社会人チームの有無は、本当に高校野球に影響を与えているのか。データで検証しよう。

 夏の大会が1県1代表制になる1978年以前、鳥取は県予選を突破後に他県との地区大会を勝ち抜かなければならなかった。戦前の1915年から山陰大会を島根、戦後の1948年から東中国大会を島根、岡山と戦った。1959年からは岡山、1975年からは島根との2県で争った。まず、米子鉄道管理局野球部の消滅前後の『夏の大会出場確率』を挙げてみよう。

【鳥取の夏の大会出場確率】

1915〜1962年:43回中27回 6割2分8厘

1963〜1977年:15回中5回 3割3分3厘 

 社会人チームがゼロになって以降、出場確率は半減している。春のセンバツを合わせた同時期の『初戦敗退確率』を出してみよう(※1916年夏は敗者復活で1勝するも、初戦は敗退)。

【鳥取の春夏の初戦敗退確率】

1915〜1962年 春夏49回 2割2分4厘

1963〜1977年 春夏13回 7割6分9厘

 大会開始から50年近く、鳥取は甲子園に出場すれば、8割近く初戦を突破していた。しかし、米子鉄道管理局の野球部消滅後は本大会にコマを進めても8割弱は初戦で姿を消すようになった。プロ野球選手を生み出していた社会人チームの休部は明らかに鳥取の弱体化につながった。次に、王子製紙米子のあった時代とその後を比べてみよう。

【鳥取の春夏の初戦敗退確率】

1983〜1998年:春夏22回出場中13回 5割9分1厘

1999〜2022年:春夏28回出場中23回 8割2分1厘 ※2020年夏の交流試合除く

 王子製紙米子が存続していた頃も初戦敗退確率は高いが、中身は濃かった。1984年夏、初戦で法政一と当たった境は、エースの安部伸一が9回までノーヒットノーランを続ける。しかし、延長10回2死、末野芳樹に左中間のラッキーゾーンに運ばれて涙を呑んだ。

「1985年夏は準優勝の宇部商、1986年は優勝の天理、1988年は準優勝の福岡第一に2試合目で、1989年は優勝の帝京に初戦で負けています。このうち最初の2年は初戦で鳥取西が日大三、米子東が東亜学園という東京勢に勝っていますし、福岡第一には米子商が7回までリードしていました。あの頃の鳥取は全国レベルだったんです」

鳥取から“高卒プロ入り”も1985年が最後

 対戦相手には恵まれなかったが、1980年代はかつての強さを取り戻しつつあった。王子製紙米子誕生直前には、“山陰の暴れん坊”倉吉北が県外から選手を多数獲得し、1981年のセンバツベスト4に進出。当時は野球留学生がまだ少なく、全国に散らばっていなかったため、その恩恵にあずかったのだろう。地元出身選手も彼らに刺激を受け、ドラフトでは田子譲治(鳥取西高)が1981年にロッテ2位、加藤伸一(倉吉北)が1983年に南海1位と上位指名を受けている。

「鳥取の高校から直接、プロ入りした選手は1985年秋の足立亘(米子市出身/境→広島5位)を最後に40年近くいません(育成除く)。たとえば、大阪桐蔭は毎年、OBが自主トレで母校を訪れますよね。プロで活躍している先輩から受ける刺激は計り知れません。鳥取にはそういう環境がないんです」

高卒選手の「受け皿」が地元にない

 1990年代に入ると甲子園での成績も低迷し、王子製紙米子が不況の煽りで1998年9月に廃部すると、さらに勝てなくなる。2000年以降は春2勝、夏3勝しか挙げていない。

 社会人チームの減少は他県も同じだが、四国や九州、北関東などに独立リーグが発足し、ドラフト指名選手も生まれている。鳥取には2006年3月に社会人クラブチーム『鳥取キタロウズ』が創設されたが、前の試合のピッチャーが次の試合でキャッチャーを務めるなど選手不足に悩み、NPBへ選手を送り出せるレベルではなかった。同チームは『鳥取ペアキングス』に改名して4年後の2016年5月に休部。中国地区大学野球連盟には鳥取大学が1980年から加盟しているが、1990年を最後に1部から遠ざかっている。

 なぜ、一定のレベルを保つ大学や社会人の存在はそこまで大きいのか。米子東から1浪して慶應大学に入学し、野球部で4年生の時に新人戦の監督、卒業後に助監督を務めた杉本氏はこう考える。

「野球は確率のスポーツですよね。打者の読み、捕手の配球、守備陣形などを含め、成功率の高い作戦を選択することで勝利に近づける。上のレベルで大舞台を経験しないと、そのセオリーは身に付かない。鳥取は県内に受け皿となるチームがないので、高校卒業と同時に野球生活を終える選手がほとんどです。そのため、大学や社会人で学んだ指導者が必然的に少なくなってしまう」

鳥取の県民性も関係?

 杉本氏は自身の経験を踏まえ、鳥取が甲子園で勝てないもう1つの理由を挙げる。

「県民性も関係していると思います。全体的におとなしいですし、高望みをしない。私も甲子園に出場できただけで満足してしまった。(1983年夏の)初戦で学法石川(福島)に1対2で負けたのですが、もっと死ぬ気で勝ちに行けば良かったと未だに後悔しています。また、鳥取には堅実でスタンダードなチームが多いため、他地区の野球に戸惑うこともある。たとえば、本州から離れた九州には野武士的な高校があります」

左下の盾を持っている球児が杉本真吾氏(米子東時代/本人提供)

 米子東がセンバツに出場した2019年、部員10人の川棚高校(長崎)がマイクロバスに乗って練習試合に訪れた。選手によって実力差の激しいチームは極端な作戦を取ってきた。打撃力の高い選手を1番から5番まで並べ、それ以外は6番から9番に固めた。

「結局、上位打線に打たれて、米子東が負けました。その年は夏も出場しているし、強いチームだったんですけどね。九州のチームは、思い切りの良さがある。鳥取は交通の便が良くないですけど、隣接県だけでなく、他地区と積極的に練習試合をするといいと思います」

「校数の多さが強さに比例するとは限らない」

 杉本氏は他県の大会を見ても、鳥取のレベルが格段に落ちるとは感じていない。

「どの都道府県も強い高校は一握りです。他県の強豪校で監督をしていた方が鳥取に来たら、3年連続初戦敗退した例もありました。校数は少ないですけど、鳥取は平均以上のチームが多い。記念大会の年に2校出場する県もありますが、両方とも勝ち上がるケースは少ないですよね。校数の多さが強さに比例するとは限らない証拠だと思います」

 今後の鳥取には、期待を持てる要素もあるという。

「最近は米子東から東京六大学の慶応、明治、法政に入った選手もいますし、7月の都市対抗で日本製鉄鹿島の補強選手として出場した森下智之外野手がクリーンアップで猛打賞を決めるなど活躍しました。近年、大学や社会人で戦う選手が増えており、彼らが将来指導者として鳥取を復活させてくれるかもしれません」

 高校生だけの頑張りで勝てるわけではない。甲子園での1勝には、県の景気や野球環境など複雑な要素が絡み合っているのだ。

参考文献:『国鉄野球史』(1981年3月発行/国鉄硬式野球連盟)

文=岡野誠

photograph by KYODO