「フェラーリの魅力には誰も逆らえない。跳ね馬(フェラーリのシンボルマーク)は神話なんだ。どんな車と比べても、フェラーリはどこか特別。魂の宿った車なんだ。F1マシンも同じくらい素晴らしいものであることを願っている」

 これは7月末に今シーズン限りでの引退を表明した4冠王者のセバスチャン・ベッテルが、2015年にフェラーリに移籍する直前に語っていた言葉だ。フェラーリはF1が世界選手権として創設された1950年から参戦し続けている唯一のチーム。フェラーリでF1を走ることは当時から多くのF1ドライバーの夢であり、それはいまも変わりない。

 しかし、跳ね馬が魅力的であればあるほど、フェラーリに加入した後に経験する現実に、数多のドライバーたちが苦悩してきたことも、また事実だった。

 シャルル・ルクレールは今季開幕戦で優勝し、シーズンのチャンピオンシップ争いをリードするかに見えた。しかし第7戦モナコGPでは、圧倒的優位のポールポジションスタートながら、チームがピットストップ戦略で痛恨のミスを犯し逆転負け。第10戦イギリスGPではトップを走行中のセーフティーカー導入時にピットインさせてもらえず、結果的に優勝を逃した。さらに夏休み前の最後の一戦となった第13戦ハンガリーGPでは、レース終盤にトップチームで唯一フェラーリだけがハードタイヤを選択し、優勝争いを演じていたルクレールがペースダウン。まさかの6位に終わった。

エンツォに始まったフェラーリの掟

 なぜ、フェラーリはこのような失態を繰り返すのか。そこには、伝統のチームならではの「驕り」が見え隠れしているように思える。

 それは、ドライバーよりもスクーデリア(チーム)が優先されるという掟だ。

フェラーリの創設者であり、F1チームのオーナーでもあったエンツォ・フェラーリ。88年に90歳で亡くなった

 これは創始者であるエンツォ・フェラーリがドライバーに厳しかったことが大きく影響している。不死鳥と呼ばれた偉大なドライバー、ニキ・ラウダも例外ではなかった。

 75年にフェラーリで王者となった翌年、大事故に遭い、瀕死の重傷を負ったラウダは、1カ月後に奇跡のカムバックを果たして、タイトル争いに踏みとどまった。

 そして、最終戦「F1世界選手権イン・ジャパン」が開催された富士スピードウェイは、豪雨と深い霧に見舞われる。危険性を訴えるドライバーがいる中、レースがスタートされるとラウダは2周目にスローダウンしながらピットイン。レースを強行した主催者への抗議のリタイアだった。

 これがエンツォの逆鱗に触れた。ラウダは翌年もフェラーリに残ってタイトル争いを繰り広げたが、シーズン中にエンツォから厳しく対応され、チーム内で居場所を失う。チャンピオンに返り咲いた後、「この屈辱は生涯忘れない」とシーズン最終戦を待たずして、フェラーリを電撃離脱した。

 それでも、エンツォにはフェラーリの創始者としてのカリスマ性があり、ドライバーとの対立は時にチームの求心力を高めるための有効な手段ともなっていた。ドライバーに厳しかった一方で、マシン開発にも手を抜かず、チームスタッフたちを大切にしていたからだ。勝つために、速いマシンを作るという軸にブレがなかった。

 これに対して、エンツォが他界した88年以降のフェラーリは、親会社のフィアットの上層部たちが成績だけを求めるようになっていった。思うような成績があがらないと、責任の所在を求めて粛清が始まり、チームは内紛とも思える混乱を度々起こしてきた。

ラウダが自身初のタイトルを獲得した75年のフェラーリ312T

プロストを苛立たせた「赤いカミオン」

 チャンピオンナンバーである「1」とともにフェラーリに移籍してきたものの、2年後にチームを去った「プロフェッサー」ことアラン・プロストも、そうした混乱に巻き込まれたひとりだ。

 移籍した90年こそ、チャンピオンにはなれなかったものの、プロストはフェラーリにとって79年以来の年間6勝を挙げ、跳ね馬の復活を牽引するかに思われた。ところがこの頃のフェラーリの新車は、89年にジョン・バーナードによってデザインされた「640」を進化させ続ける手法を採っていた。バーナードはすでに去り、91年はその3作目。フェラーリが投入した新車「642」は、時代遅れの感が否めなかった。

 開幕戦から勝てないレースが続くと、フェラーリは指揮官を務めていたチェーザレ・フィオリオを更迭。後任のクラウディオ・ロンバルディはすぐさま「643」の開発に取り掛かり、シーズン中にデビューさせるが、急ごしらえで登場した新車に戦闘力はなく、プロストはついに体制批判を口にした。4位に終わった日本GPでフェラーリのマシンを「赤いカミオン(フランス語で「大型トラック」)」と罵倒したのである。これに激怒したフェラーリ上層部は、最終戦を前にプロストを解雇した。

 2005年と06年に2冠を達成し、跳ね馬の再建を託されて2010年にフェラーリ入りしたフェルナンド・アロンソも、内紛の中でチームを去った王者のひとりとなった。

 2010年と12年に最終戦までチャンピオンシップ争いを行ったものの、タイトルを逃していたアロンソとフェラーリ。14年はF1に「パワーユニット」と呼ばれるハイブリッド技術が導入され、勢力図が大きく変わり、フェラーリは93年以来の未勝利シーズンとなる大不振の年となった。チームの混乱は開幕直後から始まった。チーム代表のステファノ・ドメニカリが成績不振の責任をとって辞任すると、車体部門とエンジン部門による責任のなすりつけ合いが始まり、その結果エンジン部門トップのルカ・マルモリーニがシーズン途中に解雇された。

 その後も復調の兆しが見えず、ついにはフィアットクライスラーグループ会長のセルジオ・マルキオンネが、フェラーリ部門の会長の座にいたルカ・モンテゼモーロを事実上、更迭。この混乱を間近で見ていたアロンソは、長期契約を残していたものの、その年限りでチームを去った。

 そのアロンソと入れ替わるようにフェラーリ入りしたベッテルも例外ではなかった。5度目のチャンピオンを目指してフェラーリに来たベッテルだったが、結局一度もタイトルを獲得することなく、5年後に跳ね馬を去った。それは本人の希望ではなく、チームの内紛によって前年から新しくチーム代表となったマティア・ビノットからの「これ以上契約を継続する意思はない」という電話がきっかけだった。

 そして、いまそのビノット自身が今シーズン前半戦の成績不振によって、批判の矢面に立たされている。歴史は繰り返されるのか?

シューマッハが築いた黄金時代

 幾度となく内紛が起きてきたフェラーリの歴史の中で、近年唯一、同じ過ちを繰り返さなかった時代がある。ミハエル・シューマッハがいた2000年代前半だ。

自身最後のタイトルを獲得した04年のシューマッハ

 この時期のフェラーリはシューマッハだけでなく、ロス・ブラウンやロリー・バーンといった優秀なエンジニアが集まり、スーパースター軍団と呼ばれていたが、それだけが勝因ではなかった。チーム代表のジャン・トッドがまとめ役としてスーパースター軍団を率いていたことが重要だった。

 トッドはチーム内が不穏な雰囲気に包まれるとすぐにミーティングを行い、問題点を整理して、常にチームを改善していた。またフェラーリ上層部たちからの雑音を自らが吸収し、現場でレースをするスタッフたちに極力プレッシャーを感じさせない努力も怠らなかった。

 このトッドの統率力と包容力があったからこそ、フェラーリは2000年から5年連続でダブルチャンピオンに輝くという黄金時代を築くことができた。

 だが、甘美な思い出も遥か彼方。強いフェラーリの復活を皆が待っている。

文=尾張正博

photograph by Getty Images