1965年から2003年まで帝京高校サッカー部を率い、全国高校サッカー選手権で戦後最多タイとなる6度の優勝を経験した古沼貞雄さん。今年4月で83歳となった名将は、実は生前のオシムとよく一緒に食事をともにするなど親交が深かった。古沼さんの口から語られる人間・オシムとは――。(全3回の2回目/#1、#3へ)

 思い立ったらすぐ行動――。それは古沼貞雄さんのポリシーの一つである。2003年限りで9度の全国優勝に導いた帝京高校の監督を退いて、少しした時期だった。当時、66歳を迎えたばかりの古沼さんは、ジェフユナイテッド市原・千葉の練習場に足しげく通うようになっていた。高校サッカー界きっての名将は、イビチャ・オシム監督の『走るサッカー』、『走る練習』に興味を抱いたという。知人だった当時の祖母井秀隆ゼネラルマネジャー(GM)に「練習を見てみたい」と相談すると、快く迎えてくれた。

オシムのトレーニング法は横綱・白鵬と同じ?

「トレーニングの前にオシムとも顔を合わせました。どのように紹介されたのかは分からないですが、会ったその日からよくしてくれて。65歳を過ぎた白髪頭のジイさんがわざわざ来るんだ、コイツは普通じゃないな、と思ったのかもしれませんね」

 遠慮してタッチライン際で眺めていると、オシムがつかつかと歩み寄ってきた。「そんな遠くにいないで、近くまで来い」と。古沼さんは初日からスニーカーでピッチの中まで入り、間近でトレーニングを見学した。感心させられたのは、入念なウォーミングアップ。

「横綱の白鵬は土俵に上がる前に1時間くらいは準備運動を兼ねた基礎トレーニングをしていたと言いますが、それと同じでしたよ」

ジェフ千葉時代、練習中に指示をするオシム ©Toshiya Kondo

 週2回は千葉の姉崎まで通い、飽きもせずに選手たちがボールを追いかける姿を眺めた。気がつけば、帰り際にクラブハウスの食堂で選手、スタッフと一緒に昼食を食べていくように促されるまでになった。指導者として学ぶ姿勢を持っていたこともあるが、何よりオシムの練習を見ているのが楽しかったのだ。

「いざ本格的な練習が始まれば、どの練習も球際が激しくてね。メニューも次から次に効率よく回転させて、無駄がなかった。新鮮味はありましたが、ゴール前での『4対4』などの練習を見ていると、帝京時代にやってきたことは間違いではなかったなと思うこともありました」

名将が目撃したオシムのタフさとサッカーへの情熱

 週末になれば、ホームの市原臨海競技場、フクダ電子アリーナに毎回のように足を運んだ。

©Takao Yamada

 しばらくしたある日、試合後に祖母井GMから誘われ、浦安市内の中華料理店「泰興」に出向くと、オシムも席についていた。通訳役となった祖母井GMを通じて、会話をかわしたものの、特別なことを話したわけではない。古沼さんはオシムよりも2歳上。同世代の指導者同士、意気投合する部分があった。

 この日を境にホームゲームの後は、浦安市内でともに食事する機会が増えた。オシムはタフだった。17時キックオフの試合後、ミーティングもしないで自宅に飛んで帰り、次節の対戦相手の試合をテレビでチェック。その後から浦安の街に出て、一緒に食事を取った。21時半頃から焼肉屋でせっせと肉を焼き、お気に入りの冷酒をあおりながら話し続けた。酒を飲まない古沼さんはジンジャエールとコーラで最後まで付き合い、解散するのは24時頃。店の前で別れるときも、オシムはまだ元気だった。

「オシムもひとりの人間だった」と深い交流を続けた古沼さんは語る ©Yuki Suenaga

「深夜に家に戻って、午前3時頃からヨーロッパのサッカーを観ていたんですから。それで翌日の朝にはしっかり起き、午前の早い時間帯から練習場に顔を見せて、試合に出ていない選手たちのトレーニングマッチに目を凝らしているんですよ。ウサギのような真っ赤な目をしながらね。60歳を過ぎていたのに、あんなJリーグの監督は、あまり見たことがなかった。私もスタミナはある方だと思っていましたが、オシムには驚かされました」

ジェフのトルコキャンプに帯同

 古沼さんの行動力も目を見張るものがあった。2006年のシーズン前、ジェフユナイテッド市原・千葉のトルコキャンプにまで帯同。祖母井GMに「俺も見に行ってもいいかな」と相談し、まるで国内の合宿に付いていくように地中海沿岸の都市アンタルヤまで飛んで行った。数日遅れて到着した古沼さんは、ホテル前のグラウンドで朝から走り込んでいる姿に衝撃を受けた。トレーナーが先頭になり、ボールを蹴る前に1時間近く、走らせていた。3部練習も当たり前。ランチタイムに練習試合のスケジュールが決まることも珍しくなかった。昼食を取りながら、他チームの監督と話をつけるのだ。

「『きょうの夜、1試合やるか』という具合でした。当日に試合を組むなんて、日常茶飯事でしたよ」

鼻水をたらしながら指導、夜はトランプゲーム

 アンタルヤは合宿地としても知られ、2月頃にはヨーロッパ中のクラブが集まってきていたという。ある日の練習試合は夕方の17時頃から行われ、先に控え組がグラウンドに入り、レギュラー組は19時キックオフ。アンタルヤの2月は夜間の冷え込みが厳しく、みぞれが降っていた。古沼さんは暖を取れる小屋から試合を眺めていたが、オシムは寒空のもと、鋭い目でじっとピッチをにらんでいた。

©Takashi Shimizu

「厚手のベンチウォーマーのような物を羽織っていても鼻水をたらしていました。寒さに負けない指導熱はすごかった。21時くらいにホテルに戻り、熱いシャワーを浴びてから夜の食事を取っていました。それで寝ればいいものを、22時からトランプゲームですよ。私はルールがよく分からなかったので参加しませんでしたが、決まったメンバーで24時くらいまで必死にやっていました。体力は尋常ではなかった」

オシムを襲った突然の病魔、最期となった対面

 ただ、鉄人のような男も病魔には勝てなかった。06年7月、ジェフユナイテッド市原・千葉を退任して日本代表監督となり、1年余りが過ぎた頃だ。07年11月16日、千葉県内の自宅で脳梗塞で倒れ、浦安市内の病院に緊急入院。その翌年、古沼さんは都内でリハビリに励む、オシムのもとへ見舞いに行ったことがある。

「病院関係者に言われましたよ。『オシムさんはすごい人ですね』って。その数年前に同じ病院でリハビリをしていた長嶋茂雄さん(現読売ジャイアンツ終身名誉監督)以上に努力していると。病室も長嶋さんが使っていた部屋だったとか。オシムとは1時間くらい話しました。『古沼、わざわざ来てくれてありがとうな』というようなことを言われたと思います。対面で話したのは、あれが最後だったと思います」

 オーストリアに帰国して以降は、メディアを通してオシムの言葉を見るのがほとんどだった。

ときには故郷に残してきた娘さんの話も聞きました

 2022年5月1日、自宅のあるオーストリアのグラーツで死去した知らせは、テレビのニュースで知った。オシムと過ごした約2年半をふと振り返れば、思い出すのは食事をしながらよく聞いたよもやま話ばかり。『オシム語録』として残るような文句は、あまり記憶にない。

「亡くなってからは本や雑誌で、いかに素晴らしい指導者だったかを取り上げられていますが、オシムもごく普通の人間でした。個人的な付き合いをする中では、どこにでもいるようなオジさんの一面もありました。いつも会えば、8割くらいはサッカー以外の雑談をしていました。四六時中サッカーのことだけを考えていたわけではないと思います。ときには故郷に残してきた娘さんの話も聞きましたよ。読んだ本の話だったり、浦安市内にいい食材を買えるスーパーを見つけて、最近は料理をするのが楽しいとかね。人間、60歳をすぎれば、話すことなんて、それほど変わらないものです」

©Yuki Sueanaga

オシムが高校サッカーを見て、激怒した“あること”

 それでも、かつて1度だけオシム節を聞いたことがある。ヨーロッパのサッカー界で長年働き、育成に強い関心を示していた名伯楽は、全国高校選手権をスタンドで観戦して憤慨していた。高校サッカー界の重鎮として知られる古沼さんは、普段見ないような剣幕で詰め寄られた。

©Takuya Sugiyama

「聞けば、全国各地から高校のチームが、自費で首都圏に集まってくるみたいだな。なぜ1試合負けただけで、遠路はるばるきた九州のチームがすぐに帰らないといけないんだ。これだけ学校が集まっているんだから、せめて予選リーグをしてからトーナメントだろ。いったい、古沼は何年間、高校の指導者をやってきたんだ。世界中を見渡しても、こんな大会方式を採用している国はないぞ。いまからでも遅くない、お前が言わないとダメだ」

 古沼さんは静かに頷きながら、苦し紛れの言い訳をしたという。かつて帝京の監督として大会に出場してきたが、いち指導者が運営にまで口は出せない。もちろん、オシムの意見が的を得ていることは理解している。

「そのあと、大会運営の関係者には『オシムにこんなことを言われたよ』と伝えました。とはいえ、会場や滞在費などの問題もあり、難しい面があるのも分かります」

 いまとなっては、あらためて考えることも多い。古沼さんも一発勝負で争う全国高校選手権の頂点を目指すなか、かつて帝京では多くの名選手たちを育ててきた。

 高校サッカー界を席巻したカナリア色の常勝軍団。ただ、古沼が指導を始めた時点ではユニフォームはまだ黄色に染まっていなかったという――。

 <帝京サッカー部秘話編へ続く>

文=杉園昌之

photograph by Takao Yamada