学校部活動での体罰やパワハラが問題になる一方で、新たな指導の取り組み方で強さを手に入れているチームがある。全国高校サッカー選手権に出場するまで成長した高校を追った『「毎日の部活が高校生活一番の宝物」堀越高校サッカー部のボトムアップ物語』(竹書房)の一部を転載する(全3回の1回目/#2,#3へ) 『「毎日の部活が高校生活一番の宝物」 堀越高校サッカー部のボトムアップ物語』(竹書房)(書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします)

任せる・認める・考えさせる」畑喜美夫の指導

 2012年、ゴールデンウィークに入ると堀越高校でAチームを指導する佐藤実は、広島県立安芸南高校でサッカー部監督を務める畑喜美夫を訪ねた。同校の体育教官室で畑の解説を聞き、ボトムアップ理論の原点となった広島大河フットボールクラブ(FC)の浜本敏勝総監督と会い、同理論で全国制覇を達成した広島観音高校も視察するなど忙しく駆け巡った。

 広島へ足を運ぶ段階で、既に選手たちには堀越高校もボトムアップ方式にシフトしていくことを伝えていた。決断を力強く後押ししたのは、波崎で行われた四日市中央工業戦だった。

 3泊4日の広島滞在で、佐藤は濃密な時を過ごし大きな収穫を得た。しかし反面それだけでは《まだ(理解が)薄いな……》と感じてもいたので、さらにその後も数回は広島へ出かけて、疑問点が出てくればその都度畑にアドバイスを仰いだ。

 当時「古豪」と呼ばれていた堀越高校が、その旧い衣を脱ぎ捨てようとしていた。

 広島で生まれ育った畑は、静岡県の東海大一高校(現・東海大翔洋高校)時代にU-17、順天堂大学へ進学後はU-20と、それぞれ年代別日本代表に選出され4年時には大学三冠を達成している。

昔は先輩が後輩を説教して殴るようなこともありましたが

 1965年生まれの畑は、小学2年生でボールを蹴り始めて以来、1度もトップダウンでの強制的、高圧的な指導に遭遇していない。この年代では非常に珍しく幸せな選手生活を全うした。とりわけ多大な影響を受け自身の原点ともなっているのが、最初にサッカーを満喫した広島大河FCの創設者で、小学5〜6年生時代の担任でもあった浜本敏勝の指導だった。

「見て感じて気づいて実践する。それが浜本方式です。子供たちを試合へ送り出す時は『信じているから』『自信を持ってプレーしなさい』と伝え、あとは黙って見守る。任せるというのは、そういうことなんだと見せて頂きました」

 浜本は常々言っていた。

「試合が始まるまでが指導者の仕事。始まってしまったらそれからは子供たちの仕事だよ」

 試合中に「ノーコーチング」を貫くために、コーチにも保護者にも要請した。

「大きな声を挙げて「ああせい、こうせい」と言うのはやめてください」

 畑と同じく広島大河FCから静岡県の私立東海大一高校へ進む選手が目立つようになったのは、同校サッカー部を指導する望月保次監督の考え方が浜本と通底していたからだった。畑が述懐する。

「望月監督は厳しくてよく叱られたけれど、全てはサッカーに関してではなく日常生活についてでした。昔は先輩が後輩を説教して殴るようなこともありましたが、キャプテンがそれを禁止して洗濯なども含めて自分のことは自分でやるようになりました。それから強くなってきたんです。トレーニングも素走りはほとんどなく、終わってからも自主トレをしたくなるような内容でした」

「体罰等を徹底排除する校風」だった大学で

 望月は、同じ静岡県内でエリートを揃えた伝統校にスピードや体力で対抗しても勝てないと考え、トレーニングではテクニックを中心に量より質を追求し、試合数も減らして公式戦へ向けてフレッシュなコンディション作りを意識した。こうして1986年度にはアデミール・サントス、澤登正朗、大嶽直人らを擁して全国高校選手権に初出場を果たすと、そのまま初優勝を飾るのだった。

東海大一高時代のアデミール・サントス ©Sports Graphic Number

 さらに順天堂大学は、医療系とスポーツ系の学部が中心になっているので「体罰等を徹底排除する校風があった」(畑)という。先輩に殴られたり怒られたりしたことは1度もなく、ボールを使わない素走りのメニューも一切なかった。ある時監督が「あと100mのダッシュを10本やっておけ」と命じると、畑と同期で後に日本代表として長く活躍する堀池巧(現・順天堂大学監督)が即座に反論した。

「いや、もうトレーニングの中で十分に走りました」

 堀池は、いつもリーダーとして部員たちに言っていた。

「絶対に最後に勝つのは質だ」

 ライバル大学が《こんなに走り込んだ》という噂が流れてきても揺るぎなかった。

「大丈夫、オレたちは質を求めて来たから」

 そういう環境で育って来たからこそ、畑は自身が指導者に転身すると、まず3つの信条を確立した。

(1)トレーニングは量より質(2)自主自立の精神(3)信頼と絆(コミュニケーション能力の向上)

 順天堂大学を卒業して教員になると、最初の赴任先は廿日市西高校だった。しかし同校には8年間在籍したが、任された部活は輝かしい経歴を持つサッカーではなくバレーボール、卓球、バスケットボールだったので、この間は浜本総監督に頼み大河FCで週3回のペースで指導経験を積んだ。

風紀が乱れていた学校をどう勝たせていくのか

 1997年には広島観音高校に異動し今度こそサッカー部の監督になるが、最初からボトムアップ方式を取り入れたわけではない。当時は専門誌をめくれば『強豪校がこれだけ走らされて強くなった』という記事が溢れていて、畑はそういう発想が大嫌いだったので日々考え続けた。

《もっとプレイヤーズ・ファーストで勝てる方法はないだろうか……》

 実は畑が赴任した当時の広島観音高校サッカー部は、風紀が乱れていた。

「ちょうどタバコを吸った生徒がいて出場停止中でした。朝練習でのタバコは当たり前、カンニングも頻出でした。生活指導の先生からは『サッカー部員がいなくなれば、良い学校になるのに』と言われました」

 そんな状態から畑は、選手たちが自主的に動き出すのを我慢強く待った。最初の数カ月間は、グラウンドに出るより部室周りを率先して片づけた。「綺麗にしなさいよ」と命じるのは簡単だ。実際に監督が厳しく躾けることで整理整頓が出来ている強豪校は少なくない。しかし畑はそれでは意味がないと考えていた。

「厳しく強要された行為には、思考が伴っていません。トップダウンに【指示、命令、思考停止】というキーワードがあるとすれば、ボトムアップは【任せる、認める、考えさせる】です。主体的、創造的、積極的に行動していくのが特徴で、結果は同じでも5年後10年後に大きな違いとなって表れてきます」

ボトムアップ方式でインターハイ制覇

 畑はビジネスの分野を盛んに勉強して、そこからヒントを得てボトムアップ方式に辿り着いた。日進月歩のビジネスの世界で、スポーツ界以上にシビアな競争が繰り広げられている。生き残っていくにはトップに立つ人間の限られたパワーに頼るより、底辺(ボトム)から多様な意見を吸い上げ新しい活力を引き出していく方が、はるかに効率的だった。

《米国の企業は、既に9割近くがボトムアップ方式を活用していたのに、日本はトップダウン型が多く厳しい状況に置かれている》

※写真はイメージです ©Getty Images

 彼我の相違を確認し、畑は選手の主体性を引き出すために、徐々にメンバー選考から戦術、トレーニングメニューの作成までを彼らに託していった。全体練習も週に3回(その後2回に減らした)に止め、オフ日の過ごし方も自主性に委ねた。

 最初は懐疑的な視線が集まり異論を耳にした。

「週に2回の練習じゃダメだよ」「選手たちがメンバーを決めているようじゃ勝てるわけがない」

 だが赴任して2年目には広島県でベスト4に入り、中国大会でも準決勝に進出する。

 7年目の2003年にはJFAプリンスリーグの中国Aブロックを7勝3分けと無敗で制し、高円宮杯全日本ユース(U-18)選手権への出場を果たした。

選手たちに責任を持たせて「思い切りやって来い」

 畑は引き続き自ら信じる道を歩み検証を続けた。3月の新人戦は、畑が指揮するトップダウン方式で臨み準優勝。だが2か月後に今度は選手主導のボトムアップ方式で出場すると優勝することが出来た。

《僕はしっかりとスカウティングをして臨んだけれど決勝戦では勝たせることが出来なかった。でも選手たちは、その負けた経験を見事に活かした。やはり選手たちの学ぶ力は凄い》

 当時広島観音高校のサッカー部員は120名だった。

《120人いれば、選手主導のボトムアップ方式のほうが一人の監督より細かく目が行き届く。いろんな発想、イマジネーションも生まれてくる。それを大事にした方がいい》

 そう確信すると、選手たちには責任を持たせて「思い切りやって来い」と送り出すようになった。チーム内では、上級生や下級生に関係なく、いつでも意見を出し合う習慣づけを心がけ、「人間力を養う」ミッションと「日本一魅力のあるチーム創り」というビジョンを共有した。

インターハイで優勝したが世間の注目は…

 こうして2006年、広島観音高校サッカー部は、大きな歓喜に包まれる。8月4日から大阪で行われたインターハイで、中1日の過酷な6連戦を勝ち抜き優勝を飾るのだ。

「大会の開催中は、選手たちが宿舎でミーティングを重ね、プランを立てて戦い抜きました。メディアには『僕はベンチでコーヒーを飲んでいたら勝っちゃった』と話したくらいです。それだけ彼らを信じていました。あれがターニングポイントになりました」

 しかし、《これで世の中も動くかな》という畑の予感は外れた。冬の選手権に比べてインターハイへの注目度が低かったこともあり、メディアの反応は鈍く、畑の斬新な方法は日本のスポーツ界に大きなインパクトを残すには至らなかった。<#2につづく>

文=加部究

photograph by Kyodo News