発売中のNumber1058・1059号「落合博満と野村克也」特集では、2人の名将のさまざまな共通点、相違点を解明している。共通点のひとつが、2人とも三冠王を獲得した名選手でありながら、落合は日本ハム、野村は西武と、それまで縁のなかった球団で静かに現役を引退していることだ。落合は44歳、野村は45歳。当時の報道を基に、最後まで選手であり続けようとする現役晩年の2人を描いた「諦めの悪いエピローグ」を特別に全文公開する(全2回の2回目/#1へ)。

<西武で現役引退してから16年。「落合がワシとダブってしょうがないんや」96年オフ、巨人を退団した落合獲得に乗り出したヤクルト野村監督だったが……>

 ――それから、16年。南海を追われるように去り、「その後の現役生活は惨めやった」と振り返る野村は、巨人をやめた元・三冠王の背中に昔の自分を見た。だが、プロとして自分を高く評価してくれるところへ行くという落合は冷静だった。駆け引きのように条件を徐々に上げていくヤクルトとは対照的に、日本ハムは1回目の交渉から年俸3億円の2年契約を提示。しかも、フロントの重役がわざわざ車で家まで迎えにきてくれた。12月9日、落合は自身の43歳の誕生日にヤクルトに断りを入れ、日本ハム入りを表明する。

 プロ19年目の背番号は「3」に決定。自身4球団目にして初めてオーナー同席の入団会見に臨み、日本一奪取を宣言して華々しくファイターズ生活が始まった。この時期、メディアでは「リストラに負けない中年の星・落合」のような論調の応援記事が目立つ。選手会を脱退したり、名球会入りを拒否するなど、ずっと異端の悪役だった男が、初めてヒーロー扱いされたのである。自主トレからチーム全体の露出を増やそうと報道陣へ積極的にコメントを残しながら、マイペース調整。すべてが順調なスタート。いや、順調すぎた。春季キャンプを訪ねた恩師の稲尾和久はこんな言葉を残している。

「あいつは反骨精神でのし上がってきた人間なんだ。他人を押しのけて、自分の考えを通してな。それにしても、ずいぶん平和な顔になったな」

落合「おまえ、ヒロスエリョウコって知ってるか?」

 落合のキャリアは戦いの歴史でもある。逆風の中で、自らの存在価値を証明しようと戦ってきた。「あんな打ち方じゃプロでは通用しない」と指摘されるも己の打撃で跳ね返し、「年俸が高すぎる」なんて声には3度の三冠王に無数のタイトルで黙らせた。いわば“オレ流”とは、球界の常識に対する反逆だった。怒りと言ってもいい。だが、日本ハムの落合は全方面から歓迎された。巨人を出て大型契約を勝ち取ったことで反逆の物語は完結してしまったのだ。

 日本ハムで過ごした最後の2年は、まるで映画のエピローグのようだった。「4番・一塁」で開幕を迎えた97年は、4月16日の西武戦で4打数4安打と健在ぶりをアピールするが、その後は途中交代の多い起用法にも戸惑い、調子が上がらず失速してしまう。パ・リーグの広い球場に、慣れない投手の攻め、終盤には16年ぶりの6番降格も経験した。打率.262、3本塁打という期待外れの成績に終わるも、史上初めて44歳シーズンでの規定打席到達。史上2人目の1500四死球にセ・パ両リーグ1000安打も達成した。意外なところでは43歳以上の盗塁数3は歴代トップだった。

 なお、オールスター戦に一塁手部門のファン投票で選出されると、全パの仰木彬監督から1番打者で起用される。始球式は当時17歳のトップアイドル広末涼子。若い選手からはしきりに羨ましがられたが、落合はその名を知らず、全セ最年長の大野豊(広島)をつかまえ、「おまえ、ヒロスエリョウコって知ってるか?」と中年サラリーマンのように笑い合ったという。

最後の試合、先発出場を断った

 現役最後の打席は98年10月7日、千葉マリンスタジアムの古巣ロッテ戦だ。プロ20年目、それまでのスタイルをかなぐり捨て、打撃用手袋やサングラスを試すも効果はなく、打率.235、2本塁打と低迷すると、V争いをするチームで後半は出場機会が激減。すでに各スポーツ紙で「今季限りでの引退」が報じられていた。最終戦で有終の一発を打てば、全12球団から本塁打という記録がかかっていたが、上田監督からの先発出場の打診を「代打で始まった男だから最後も代打で」と断った。プロの職場に気遣いや同情を持ち込む気はなかった。

 5回表1死、代打で登場すると全盛期と同じように素手でバットを握り、神主打法と呼ばれた独特の構えで打席に立つと、黒木知宏が投じた3球目の141kmの直球を打って一塁ゴロに倒れる。ベンチに戻る際、微かに笑みを浮かべる背番号3。華やかなセレモニーも涙もない雨中のラストゲームだ。ひとつの区切りはつけたが、退団会見では「ま、引退会見みたいなもんですね」と答えた。契約社会でオレの技術を買う球団がなければそこでお終いさ。戦う気持ちが薄れ、怒りの炎が消え、落合博満は45歳を目前に静かにバットを置いたのである。

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 なお、その2日後の10月9日、神宮球場では野村が9年間指揮を執ったヤクルト監督の座を退任した。選手が提案した胴上げを断り、川崎憲次郎から渡されたウイニングボールもスタンドのファンに投げ入れ、名将は淡々と神宮を去った。そして、直後に阪神の監督に電撃就任して日本中を驚かすことになる。

 25歳でプロ入りした落合とテスト生あがりの野村。彼らは甲子園や六大学で活躍したアマ球界のスターたちのように、最初から椅子が用意されていたわけではない。戦ってあらゆるものを勝ち取った。だから、簡単にやめて手放すわけにはいかなかった。落合は日本ハムで、野村は西武で、45歳になる年まであがき、しがみついたのだ。

 男たちは最後のその瞬間まで“職業・プロ野球選手”であり続けたのである。

<前編から続く>

文=中溝康隆

photograph by KYODO