フランスのジャックルマロワ賞などGIを5勝し、史上初めて短距離馬として年度代表馬(1998年)になったタイキシャトルが、今年8月17日に世を去った。死因は老衰による心不全。28歳だった。

 現役引退後は種牡馬となり、2003年のNHKマイルカップを勝ったウインクリューガー、05年のフェブラリーステークスを制したメイショウボーラーといったGI馬を送り出したほか、ダービー馬ワンアンドオンリー、GIを3勝した女傑ストレイトガールの母の父となるなど、その血をつないだ。

 17年に種牡馬を引退したあとは、認定非営利法人引退馬協会が所有し、支援者の出資で支えられる「フォスターホース」として余生を過ごしていた。最初は浦河のイーストスタッド、次は日高町のヴェルサイユファームへと繋養先が変わり、21年6月、新冠の引退馬牧場「ノーザンレイク」に移動し、ここで天寿を全うした。

21年6月にノーザンレイクにやってきたタイキシャトル。今年8月17日、ここで天寿を全うした ©Daisuke Asauchi

タイキシャトルは「寂しがり屋でしたね」

 タイキシャトルを「シャトじいじ」「じっちゃん」と呼んで世話をしていたノーザンレイクの佐々木祥恵さんは、晩年のシャトルについてこう話す。

「現役時代から元気がよかったようです。ここに来てからも、たぶんイタズラだと思うのですが、人の足を踏もうとしたり、噛みつこうとしたりしていました。性格は、寂しがり屋でしたね。

 年も年なので、天候によって熱発したり、疝痛になることがあったので、管理に気を遣いました。暑さが苦手で、陽射しが強いと元気がなくなるので、早めに馬房に入れて、扇風機の風を当てたりしていました」

 夏場は日中、陽射しが強く、アブも多いので、毎朝4時か5時ごろに検温して、乾草を与えてから放牧に出す。8時くらいには他馬より先に厩舎に戻していたという。

タイキシャトルと、ノーザンレイクの佐々木祥恵さん ©The Retired Horse Association

現在シャトルの馬房は献花でいっぱいに

 今回、佐々木さんに電話で話を聞いたのは、シャトルが亡くなってから2週間ほど経った、9月の初めだった。まだ悲しみが癒えない時期だったにもかかわらず、気持ちよく取材に応じてくれた。

「今、シャトルの馬房がたくさんの方々から届けられたお花で一杯になっていて、問い合わせや取材に対応したり、ほかの馬たちの世話をしたり、書く仕事をしたりしているうちに、どんどん時間が過ぎて行く感じでした」

 ご存知の方も多いと思うが、佐々木さんは、競馬ポータルサイト「netkeiba.com」や「Loveuma.」などに寄稿する競馬ライターでもある。「netkeiba.com」の連載「第二のストーリー 〜あの馬はいま〜」などで、以前から、引退競走馬のセカンドキャリアについて書きつづけている。

 関東を拠点にライターとして引退馬についてカバーしているうちに、ついには、北海道の引退馬牧場で働くようになったのだ。

 最近、角居勝彦元調教師が引退競走馬のリトレーニングに積極的に関わったり、全国乗馬倶楽部振興協会が引退競走馬向けの馬術競技大会「引退競走馬杯」(Retired Racehorse Cup=RRC)を開催したりと、競走馬のセカンドキャリアに関する取り組みが活発になり、注目度も高まっている。そんななか、佐々木さんの引退競走馬との関わり方は、馬に対する強い思いと理想を形にした、ひとつのモデルケースと言えるのかもしれない。

21年6月、ノーザンレイクにやって来た当時のタイキシャトル。代表の川越さんのお手入れ中 提供:ノーザンレイク

「このおびただしい数の馬たちは、引退したら…」

 佐々木祥恵さんは、1966年、旭川で生まれた。小学校5年生のときに見たテレビ番組「3時のあなた」に写真家の今井寿恵さん(故人)が出ており、悲運の名馬テンポイントについて話していた。それをきっかけに競馬に興味を持ち、乗馬を始めるなど、馬と触れ合うようになる。

 大学生のとき、知り合いの乗馬クラブに、種牡馬を引退して乗馬となっていた皐月賞馬ハードバージがいた。その後、ハードバージが乗馬をやめて観光馬車を曳くようになり死亡した、という記事を見て、「乗馬クラブにいたとき、私が何かリアクションをしていたら状況が変わっていただろうか」と考えてしまったという。

 上京後、2000年ごろから競馬ライターとして執筆活動を始める。優駿エッセイ賞で次席になったのをきっかけにスポーツニッポンでコラムを書いたのが最初で、季刊誌「競馬の達人」で馬主インタビューを担当するなどしていた。

「競馬を見ていて、このおびただしい数の馬たちは、引退したらどうなるんだろう、と考えるようになりました。それで、ライターになったころ、いや、その前くらいから、引退馬協会代表の沼田恭子さんに会いに行くなどしていました」

ノーザンレイクの看板猫メトさんとも仲良しのタイキシャトル ©The Retired Horse Association

 共著に『あの馬の素顔――「美浦・栗東・公営」厩舎リポート』、著書に『盲導馬をよろしく』などがある。競馬場やトレセンで取材をつづけ、2013年から開始した「netkeiba.com」の連載、「第二のストーリー 〜あの馬はいま〜」は人気コラムとなった。

「大それたことを考えているわけではないのですが、馬が好きだというのが大前提にあります。馬は、人のために命を懸けて走っています。生産頭数からしてすべての馬の余生の面倒を見るのは無理ですけど、縁のあった馬に対してだけでも、自分にできることをしたいな、と。引退馬について書くことは、自分の使命だと思っています」

メイショウドトウらとともに暮らしたノーザンレイクでの日々

 引退馬について書きながら、自分でも引退馬を共同で所有するようになった。それが今もノーザンレイクにいる「キリちゃん」ことキリシマノホシ(牝16歳、父サイレントハンター)である。

 2020年の7月半ば、藤沢和雄厩舎などで厩務員をつとめていた川越靖幸さんが代表となり、ノーザンレイクを開場した。その立ち上げから関わっていた佐々木さんは、当初、2020年一杯はライター業に専念して資金を貯めてから合流するつもりだったが、コロナ禍でトレセンへの出入りが制限されたため、すぐ新冠に移り住んだ。

「かつては生産牧場で、5年空いていたところに開場しました。新冠・タニグチ牧場社長の谷口貞保さんの力添えで、ここを借りることができました」

代表の川越さんとタイキシャトル 提供:ノーザンレイク

 開場時にいたのはキリシマノホシと、「芦毛ちゃん」と呼ばれている元競走馬・元繁殖牝馬の2頭。9月上旬に繁殖牝馬だったタッチノネガイ(牝20歳、父フレンチデピュティ)が加わり、21年7月、その娘のタッチデュール(牝13歳、父タップダンスシチー)もやって来た。既述のように、タイキシャトルが来たのはその前月、21年6月。2001年の宝塚記念を勝ったメイショウドトウと共にここで繋養されるようになった。

 つまり、ノーザンレイクには6頭の引退馬がいて、シャトルが旅立ち、5頭になった。

原稿料まで牧場の管理に遣って…

 現在は、佐々木さんと川越さんの2人で5頭の世話をしている。

「厩舎の雨漏りがひどくて、使える馬房は7、8馬房ですし、経営的には10頭くらいいた方がいいのですが、現在の体勢では繋養できるのは6、7頭が精一杯ですね」

馬房でくつろぐタイキシャトルたち。暑さ対策で扇風機が設置されている ©The Retired Horse Association

 馬の生産や育成などはしておらず、引退競走馬がすこやかに余生を過ごせるようにすることが目的だ。

 基本的には馬の所有者から支払われる預託料が収入の柱となる。さらに、佐々木さんの原稿料も、牧場の維持・管理に遣われているようだ。

「見学者の方限定で、クリアファイルや、馬の手入れをして抜けた尻尾の毛で作ったストラップなどを販売したら評判がよかったので、グッズ開発もしていきたいですね。将来的には厩舎も建て替えたいですし、ウォーキングマシンもほしいので、クラウドファンディングのようなこともするかもしれませんが、現時点では未定です」

なぜ、引退競走馬の世話をつづけるのか?

 馬の世話だけではなく、建物や牧柵の手入れや修理、草刈り(これがとてつもない重労働になる)など、牧場の維持・管理には膨大な手間と費用がかかる。

 高齢の引退競走馬の面倒を見るのは、楽ではない、という表現ではまったく足りないほど大変な作業の連続になる。いつ疝痛を起こすかわからないので、24時間ほとんど休みなくケアしなければならないときもある。

「シャトルがいたときは、有名だし、人気のある馬なので、家に戻ってからもドキドキでした。毎朝、目が覚めると同時に『無事かな』と気にしているような感じでした」

天国へと旅立ったタイキシャトル。ホースマンの献身と愛情であふれた生涯だった ©Daisuke Asauchi

 それでも、佐々木さんたちは、引退競走馬の世話をつづける。

「今となっては、気がついたらレールに乗っていたという感じです」

 そう言って笑うが、先にサラリと口にした「馬が好きだというのが大前提にあります」という言葉は、重い。

 好き、を突き詰めたら、ここに来ていた。

「馬生」をトータルで見る時代のホースマンの生き方が、ここにある。

文=島田明宏

photograph by Daisuke Asauchi