「ムムッ!」「いいんです!」リズミカルに飛び出す言葉に圧倒された“90分”だった。俳優・川平慈英、60歳。逸材たちとボールを追いかけた読売ユース時代、志半ばで諦めたプロの道、人生を変えた演劇との出会い、そしてキャリアを彩った「ニュースステーション」のキャスター就任……節目を迎えた男がその半生を振り返る(全3回の2回目/#1、#3を読む)。

 主演は真田広之で、ヒロインが南果歩。脇を固めるのは若き日の堤真一、伊原剛志、そして、川平慈英――。

 1986年に上演された坂東玉三郎演出の舞台『ロミオとジュリエット』のキャストである。

「僕はティボルトの役をいただいて。今振り返ると、なかなかの顔ぶれでしょ。翌年の再演では、僕がロミオをやらせていただいたんです。ジュリエットは中嶋朋子ちゃん。これもヒットしました」

 上智大学在学中に演劇の世界に飛び込んだ川平は、86年に坂上忍主演のスーパーロックミュージカル『MONKEY』でデビューを飾る。

 その後、前述の『ロミオとジュリエット』、88年には世界中で大人気のミュージカル『アニー』に出演し、91年には宮本亜門演出のひとり舞台『ジェームズ・キャグニー』で主演を務め、タップダンスを披露した。

 少しずつ、着実に演劇界で実績を積んでいた川平に大きな転機が訪れる。

 思いがけず『ニュースステーション』からサッカーキャスター就任の打診を受けるのだ。

Jリーグが開幕した頃「面白いやつがいる」

 川平が『ジェームズ・キャグニー』の主演で評価を高めた頃、日本サッカー界は大きな変革期を迎えていた。

 92年、日本代表初の外国人監督となるハンス・オフト監督が就任すると、11月には三浦知良やラモス瑠偉らの活躍によって地元開催のアジアカップで初優勝を飾る。さらに、初のプロリーグ開幕を翌年に控え、前哨戦として位置づけられたナビスコカップも盛況に終わった。

92年アジアカップを制した日本代表 ©︎Kazuaki Nishiyama

 93年に入ると、『ニュースステーション』でも5月15日に開幕するJリーグを厚く報じる準備が始められた。

「ある日、舞台のリハーサルの空き時間に、いつものようにリフティングをしていたら、演出家の福田陽一郎さんに『サッカー好きなの?』って聞かれて。『好きなんてもんじゃないですよ』とサッカー愛を語りまくったんです。そうしたら……」

 福田は『ニュースステーション』のメインキャスターである久米宏と同じ事務所に所属しており、その事務所が番組の制作も請け負っていた。福田から「サッカーフリークで、面白いやつがいる」と伝え聞いた番組のプロデューサーは、川平の芝居を見にやってきた。

「2週間後、僕の事務所に番組からカメラテストの話が来て、事務所の人間が『とりあえず受けよう』と。それで衣装を着せられ、原稿を渡され、『決まった!』『グーッ、サイコー!』って熱く叫んだの。そうしたら、さらに2週間後、『決まったよ』って。うちの事務所、万々歳ですよ。でも、僕は『ちょっと待って。俺、嫌だよ』って言ったんです」

 当時、『ニュースステーション』と言えば視聴率が20%を優に超えるお化けニュース番組である。川平の知名度からすると、大抜擢だった。

 しかし、それを断ってしまうのだ。

「いやいや、俺は役者だよ。どうしてニュース番組に出ないといけないんだって。事務所の人間は『は?』みたいな(苦笑)。『久米さんの隣に座れるんだよ』『全国放送だよ』って説得されたけど、最初のうちは『やれよ』『やらない』の繰り返しだった」

 実は川平は91年にWOWOWのサッカー番組の司会を務め、その後、テレビ東京で『ダイヤモンドサッカー』のMCも経験していた。

「サッカーの仕事は楽しい反面、仕事にするのは難しいなって。趣味で楽しむのと視聴者に伝えるのとでは雲泥の差があることに気づき始めていたんでしょうね。それに、ニュース番組に出てキャスターの色が付くのも嫌だったし、何より夜の生放送なので舞台スケジュールとの兼ね合いが心配だったんです」

 事務所の人間の説得は続いたが、川平は頑なに首を横に振り続けた。

 事務所も困っただろうが、川平も困っていた。どうしたら逃げ切れるだろうか、と。

 そこで兄のジョンに相談することにした。このとき、兄はCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)を退社し、ジョン・カビラとして人気ラジオパーソナリティになっていた。

「ジョンに『嫌なんだよね。どうしたら断れるかな』って聞いたら、『お前、ぶっとばすぞ』って。『これは表現者であるお前を多くの方に知ってもらうチャンスだぞ。こんなチャンス逃したら二度とないぞ』と。『考えてみろ、スタジオもステージも一緒だろ』って言うの。なるほど、そうかと。生放送のJリーグコーナーも考えてみれば、ひとつの劇場だなと。そこで自分を表現すればいいのか、と気づいて『すいません、やります!』って(笑)」

©︎Kiichi Matsumoto

ガチガチだったニュースステーション初出演

 こうして迎えた記念すべき第1回の放送日。川平は自身の未熟さを思い知る。スタンバイのときからガチガチで、逃げ出したくなってしまったのだ。

「役者って1カ月近く掛けて、セリフを頭に入れるでしょう。でも、ニュース番組はその場で原稿を渡されて生読みする。俺、そんなことできないよって。『俺、もう辞めたい。干されてもいいから』ってマネージャーに泣き言を言って。そんな僕を見て、久米さんが突っ込んでくるんですよ。『川平くん、テンションを上げて、自由にやってくれればいいから。大丈夫、大丈夫。ここにいるスタッフはみんな、ファミリーだから』とフォローしてくれたと思ったら、『まあ、カメラの向こうには2000万の人がいるんだけどね』ってニヤリとするんです(笑)」

 だが、川平がJリーグコーナーを自身の色に染めるのに、そう時間はかからなかった。

 ときに絶叫を交えながら、ハイテンションでサッカー愛を表現する川平の情熱を、まずは共演者たちが浴びた。当初はサッカーのことなどまったく知らなかった久米や小宮悦子が、サッカーにどっぷり浸かっていく。

 それが川平にとっては、何よりも嬉しかった。

テレビ朝日のサッカーW杯関連番組の制作発表会見に出席する(左から)ナインティナインの矢部浩之、小宮悦子、川平慈英(2002年)©︎Sankei Shimbun

「小宮さんは94年のアメリカW杯でロベルト・バッジョの大ファンになった。久米さんなんて02年の日韓W杯のとき、髪の毛を青く染めちゃって。どんどんサッカーフリークになっていってくれた。サイコーだよね!」

 93年に行われたアメリカW杯アジア最終予選のイラクとの最終戦、いわゆる“ドーハの悲劇”はスポーツバーで目撃し、言葉をなくした。

「ジョンもいて、テレ朝のカメラも入っていたんだけど、サポーターが歌っていた歌があるじゃないですか。『アメリカへ行こう、みんなで行こう♪』って。あれ、僕たち、残り時間がまだあるのに、『アメリカへ行ける、みんなで行ける♪』って歌っちゃったんですよ。そうしたら……。サッカーの神様に『歌っちゃったね、まだホイッスルが鳴ってないのに。油断しちゃダメだよ』と言われたような気がしたなあ。あの最後のシーンは未だに正視できないんです」

 その4年後の97年、フランスW杯アジア第3代表決定戦のイラン戦は、ジョホールバルからの現地レポートを小宮に託し、川平自身は同じスポーツバーで観戦する。そして、岡野雅行のゴールデンゴールが決まった瞬間、涙を流すところをカメラに捉えられた。

日本代表がW杯初出場を決めた瞬間、スポーツバーで喜びを爆発させる川平慈英。この様子は、翌日のニュースステーションでも放送された(提供/テレビ朝日)。カタールW杯でもテレビ朝日の中継でナビゲーターを務める フランスW杯出場を決めて歓喜するサッカー日本代表 ©︎Kazuaki Nishiyama

 98年フランスW杯の本大会では現地に足を運んだ。フランスの温泉町エクスレバンでの合宿中のことだ。厳しい報道規制が敷かれるなか、早朝にテレビクルーやジョンと散歩をしていたら、前方から中山雅史が歩いてくるではないか。

「ゴンさんも朝の散歩だったんでしょうね。僕らを見つけるなり、気まずい顔をしたんです。こっちはこっちでクルーと顔を見合わせて、『どうする?』と。ここで直撃すれば、独占映像になる。でも、決戦前の気持ちを乱すわけにもいかないし、各局、垣根を越えて日本サッカーを応援しようという雰囲気だった。そこで『魂送ってますから!』っていうエールだけで、映像は一切撮らなかった。ジャーナリストとしては失格だろうけど、それはそれで僕の勲章、思い出ですね」

「いいんです!」「クーッ!」「ムムッ」

 番組では、視聴者に愛される川平節も生まれた。

「もともと『いいんですか?』『いいんです!』はジョンの口癖だったんです。『生ビール、もう1杯頼んでいいんですか?』『いいんです!』とかね。だから、製造元・ジョン、発売元・俺、みたいな感じ。ジョンには頭が上がらないですね(笑)。『クーッ!』とか『ムムッ』も、日常的に言っていた口癖なんですよ」

 こうした川平節は、サッカー中継における定番となっただけでなく、より広くお茶の間に浸透していった。

 川平がナレーションを務めたバラエティ番組『ASAYAN』でも披露され、お笑いコンビの博多華丸・大吉の華丸にモノマネされたことで、さらに認知された。それが「楽天カードマン」などのCM起用へと繋がっていく。

「華丸さんとはある日、飛行機の中で偶然お会いして。『モノマネをさせてもらっています』と挨拶してくれたので、『ガンガン、やっちゃってください!』と伝えました(笑)」

おなじみの「クーッ!」は、兄との日常会話から生まれたもの。飾らないありのままのキャラクターがお茶の間にウケた ©︎Kiichi Matsumoto

 もっとも、しばらくの間は『ニュースステーション』のキャスターを務めることにモヤモヤした気持ちがなかったわけではない。

 俺は役者なんだ――。そんな気持ちが強かったからだ。

 だが、あるとき、番組スタッフと久米の計らいで、川平が出演していたミュージカル『オケピ!』と『ニュースステーション』のサッカーコーナーが合体したことがあった。

「久米さんが『慈英はミュージカル俳優なので、今、地方公演へ行っています。今日はそこからJリーグコーナーをお届けしますので、お楽しみに。コマーシャルのあと』と振ってくれて。さらに 僕の舞台を20秒くらいにまとめてコーナーの中で紹介してくれて。泣きそうになりましたね」

 こうしてサッカーファンがミュージカル俳優としての川平を知り、反対にミュージカルファンが川平を通してサッカーに興味を持ってくれるようになった。

「なんか目の前が晴れたような気持ちになりましたね。少しでも架け橋になれたことが本当にありがたいなって。二足の草鞋ですけど何か? って。まったく気にならなくなった」

2005年Jリーグオープニングエキシビジョンマッチ「横浜F・マリノスOB vs OBスターズ」に出場した川平慈英 ©︎Masakazu Watanabe/AFLO SPORT

 大好きだった横浜フリューゲルスが横浜マリノスと合併し、消滅することになったときには、番組で合併撤回を訴え続けた。

「練習場が近所だったし、初代監督が加茂(周)さんだったからフリューゲルスを好きになって。ゾノ(前園真聖)も、山口素弘さんも大好きだったし、エドゥーの直接フリーキック! あんなすごいフリーキックを蹴れる人は、その後いないよね」

 読売ユース時代の先輩である都並敏史と共演できたときは、感無量だった。

「都並さんがゲストで出てくれたのは本当に嬉しかった。プロのピッチでは共演できなかったけど、スタジオで共演できた。『いいんですか?』『いいんです!』のやり取りをしたときは、サイコーの気分でした」

 ニュースステーションに出演することで、川平は愛するサッカーに関する数々の夢を叶えてもらった。

 しかし、ひとつだけ実現できなかったことがある。

 20年11月、それは永遠に叶えられない夢となってしまった。

(つづく)

[撮影協力]Stylist/Emiko Seki Hair&Make/Hidenobu Morikawa(NOV hari&make)
[衣装]ジャケット/DESCENTE PAUSE シャツ/DESCENTE ddd(ともにDESCENTE BLANC DAIKANYAMA)

文=飯尾篤史

photograph by Kiichi Matsumoto