直前でメンバーから漏れたW杯フランス大会の翌年、オーバートレーニング症候群を発症した市川大祐。「電車に一本乗り遅れた」と指揮官に突き放された市川は、いかにして2002年のW杯出場を手繰り寄せたのか。インタビュー後編では、W杯に至るまでのドラマと、苦しみながら戦い抜いた現役時代を振り返ってもらった。(全2回の2回目/前編へ)

 1998年のW杯フランス大会後、市川大祐は高校へ通いながらトップチームでのトレーニングを重ね、週末にはJリーグで戦う日常へ戻った。それに加えて、10月にはU-19のAFCユース選手権、12月にはU-21代表としてアジア大会と、アンダーカテゴリーの大会にも出場している。さらに12月中旬にアジア大会が終わると、清水エスパルスの一員として天皇杯に出場。1999年元日の決勝戦も戦っている。そしてナイジェリアでのワールドユース(現U-20 W杯)に出場するU-20日本代表としての合宿も1月中旬から始まった。2月にはブルキナファソ遠征にも参加している。

 2002年W杯日韓大会に出場するA代表の指揮官となったのは、フランス人のフィリップ・トルシエだ。2000年のシドニー五輪を目指す五輪代表に加えて、ワールドユースに出場するU-20代表の監督も務めることになった。

「病気なんだとわかって、正直ホッとした」

 アジア大会でも中心選手だった市川に、トルシエ監督はワールドユースでも大きな期待を寄せていたに違いない。市川も初めての世界大会出場への意欲は当然高まっていた。しかし、市川の日常には異変が生じていた。サッカーをしていても身体が重く、コンディションが悪い。それだけでなく、階段を登るだけでも息が切れてしまう。倦怠感がぬぐえない。にもかかわらず、夜は眠れなかった。

高校に通いながらクラブと代表を行き来していた1998年の市川大祐 ©Sports Graphic Number

 しまいには試合中に手足にしびれが走り、まったく力が入らない事態に陥った。それを見ていたエスパルスの指揮官スティーブ・ペリマンは、即座に精密検査を行うことを命じた。

「状態をチェックするために酸素マスクをして、ランニングマシンで走ったんです。4、5分経ったときにドクターが『もういい』とストップボタンを押して、『オーバートレーニング症候群だね』と告げられました。この症状に病名がついたというか、病気なんだとわかったとき、正直とてもホッとしたことを覚えています。ずっと身体がボロボロで原因もわからない。心の甘えなんじゃないか、俺はここまでの選手なのかと不安と失望感を抱き始めたときだったので、『オーバートレーニング症候群』という診断を受けて、あぁ良かったと思えたんです。僕のせいじゃない。病気だったんだと」

 当時はまだ耳慣れなかった「オーバートレーニング症候群」だが、その後、さまざまな競技のアスリートが抱える症例として認識されるようになった。

「当時の自分が過ごした1年を考えたら、オーバートレーニング症候群になって当たり前だったと気づきました。学校に通いながらW杯にも行ったし、Jリーグにも出ていたし、ワールドユースのアジア予選もあったし、アジア大会もあった。天皇杯はフリューゲルスと元日に決勝もやっていましたからね。いつ休んだのかわからないくらい、身体も心も動きっぱなしでした。でも、当時はそれが当たり前だと思ってやっていたので」

 休養を欲する自身の身体と心の悲鳴を受け入れるには、この診断が不可欠だったのかもしれない。当時の市川はまだ18歳。これから先もプロサッカー選手として生きるうえで、休息しなければならない。目標だったワールドユースも断念する決意が固まった。

市川の説明に激昂したトルシエ

 しかし、それを受け入れられない男がいた。フィリップ・トルシエだ。1999年3月、ワールドユースの国内最後の合宿メンバーに市川は選ばれた。当然、市川は辞退したものの、それでも合宿地のJヴィレッジ(福島県)への招集が課された。

「Jヴィレッジまで行き、トルシエ監督に直接『オーバートレーニング症候群と診断されたので、ワールドユースには行けません』という説明をしたんです。監督は顔を真っ赤にして、突然部屋を出ていったんですよ。僕の話の途中で。静岡から5時間かけて出向いて、話は2、3分で終わりました」

A代表に加えてアンダー世代の監督も兼務していたフィリップ・トルシエ ©Sports Graphic Number

 その後、トルシエ監督率いるU-20日本代表はワールドユースで見事準優勝に輝いた。自分が立っていたかもしれない舞台で勝ち上がる代表チームを見ながら、こみ上げる悔しさを「しょうがない。病気なんだから」と押しとどめる。そうして回復に努めていた市川の耳に、トルシエ監督の「市川は電車に一本乗り遅れた」という言葉が伝わってきた。

「結構なショックでしたね。僕は行かない選択をしたけれど、実際は行きたかった。その診断と選択のおかげでサッカーが続けられたし、良かったと思っています。でも、当時は傷口をえぐられた感じですね。自分がその場に居られない悔しさは、決して小さくはなかったので……」

 小野伸二、稲本潤一、高原直泰……。ワールドユースで準優勝した面々は“ゴールデンエイジ”と呼ばれ、その後もシドニー五輪やトルシエ監督率いるA代表で躍動し、欧州移籍を遂げるまでに成長していく。しかし、1980年生まれの市川にそのチャンスは巡ってこなかった。

「五輪のアジア予選には呼ばれましたが、本番のメンバーには入れませんでした。A代表にもなかなか呼ばれなかった。もちろん歯がゆさはありました。エスパルスでも3-5-2のワイド(アウトサイド)でプレーしていたし、『これだけ結果を残してもダメなのか。まだか、まだか』と……。『電車に一本乗り遅れた』という監督の言葉はずっと残っていたので、なら呼ばざるを得ない状況を作るしかない。絶対的な数字を残そうと決めた2001年はリーグ戦も全試合フルタイム出場して、アシスト数もトップの結果を残せました」

 絶対的な結果でトルシエを振り向かせた市川は2002年1月の合宿に招集され、3月のウクライナ戦、ポーランド戦で先発。ポーランド戦では高原のゴールをアシストしている。その後もすべての合宿に参加し、見事、W杯のメンバーに選出された。

W杯イヤーの2002年に代表復帰を果たした市川 ©Sports Graphic Number

W杯チュニジア戦でアシスト、しかしトルコ戦は…

 W杯日韓大会、グループリーグ第3戦のチュニジア戦。市川はスコアレスで迎えた後半から稲本に代わり出場し、75分には中田英寿のゴールを演出する見事なクロスボールをあげている。決勝トーナメント1回戦のトルコ戦でも、その攻撃力を買われ、0-1で迎えた後半に再び稲本に代わってピッチに立った。しかしスコアは動かず、指揮官は86分に森島寛晃を投入する。ピッチを出たのは市川だった。

「日韓大会は、自分の力で掴み取れたと思います。プレー面も、精神面も、すべてにおいて4年前よりも自信があった。ただ最後のトルコ戦は、途中出場、途中交代という結果。自分の目指していた場所に立てたけれど、まだまだ力が足りないということを思い知った幕切れでしたね。敗戦後、宮城のピッチを歩いているとき、『4年後はもっと成長していなくちゃいけない。成長して、この悔しさをW杯で晴らさないといけない』って思いましたね。攻撃面はアシストで良さを出せた部分もありますけど、守備やフィジカルなど、自分に足りないものをすごく感じました。それにタフさも足りない。以前から興味はあったんですけど、W杯で世界と戦ったことで、海外でプレーしたいとより強く思いましたね。海外で経験を積んで、もっともっと成長したいなって」

決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れた日本代表 ©JMPA

 2002年当時、まだ22歳の市川が2006年のW杯ドイツ大会を目指すのは当然のことだった。欧州移籍も視野に入れ、新たなスタートを切った。しかし、2003年に膝を負傷。2004年は公式戦わずか4試合にしか出場できなかった。

「2003年に膝を怪我して、思うようにプレーができなくなりました。W杯のことを考える以前に、まずサッカーができていない。このままだとサッカーができなくなるな、って状態だったので……。2002年からの4年間は、苦しい時間でしたね」

怪我をして変わった自分も受け入れて

 決して全快したわけではない膝と付き合いながら、市川は2005年には公式戦44試合に出場している。復調に至った裏側には、明確な思考の変化があったという。

「2005年、監督が(長谷川)健太さんに代わりました。まだ万全とはいえない状態だったので、この年もダメだったら、サッカーを辞めようと思っていたんです。こんな状態でやれるほどプロの世界は甘くはないから。そういう意味で腹を括れたシーズンでした。もちろん、だからといって辞めたいわけじゃない。ならばどうすべきかと、自分自身をもう一度見つめ直すところから始めました」

 負傷によって、負傷前と同じようにプレーできなくなる選手は少なくない。かつてのイメージでプレーをしようと思っても、身体が動かないのだ。『なぜできないんだ』ともがくことで身体のバランスが崩れ、新たな箇所に違和感が生じ、負傷を繰り返すケースも多い。過度なフィジカルトレーニングで負荷がかかることもあるだろう。

2004年、膝の痛みを抱えながらプレーする市川大祐 ©Etsuo Hara/Getty Images

 繰り返す負傷に落胆し、掲げた目標にたどり着けない焦りがさらに自身を苦しめる。文字通りの悪循環に陥るのは、自身を叱咤激励し続けてきたアスリートだからこそ、なのかもしれない。しかし、できない自分は「弱くなった」のではなく、ただ「変わった」のだと受け入れる勇気を市川は手にした。

「『以前はできていたことができない』というギャップが大きくて、とても苦しかったし、葛藤が続きました。でもそんななかで、過去を求めず、今、できることを確実に重ねていく……という作業の喜びを見つけられたというのは非常に大きかったと思います。現状を受け入れ、受け止めながら、前へ進もうとする。今までと同じ道を歩こうとしても、違う自分なんですよ、身体が違うから。だから同じ道は辿れない。それに気づいたとき、進むのを止めようじゃなくて、違う道を探しながら目指す場所へ向かっていくことができたのは、自分の人生のなかでもすごく大きな経験になっています」

 海外へ移籍して、成長しようと夢見た。怪我によってそれは叶わない。けれど、成長すること自体はできる。否応なく変わってしまった自分が、それでも進める道を探せばよいのだ。

 もし、この気づきがなければ、潰れていたと市川は言う。

「怪我をする前は、ずっと自分自身と戦うことを課してきたんですよ。『もっとできるだろう。何をやっているんだ』と。でも怪我をしたあともそれを続けていたら、パンクしていたと思います。そうじゃなくて、自分と協力しようと考えたんです。決して甘やかしているわけではないんですけど、できたことに対して『今日はこんなこともできたね』と褒めてあげる。膝と話をしながら、『今日も1日頑張ってくれてありがとう、明日も頑張ろうな』みたいな、本当にそんな感じでした」

指導者として伝えたい「成し遂げることの喜び」

 W杯ドイツ大会への出場こそ叶わなかったものの、毎シーズン多くの公式戦に出場した市川は、2010年末に清水を離れた。さらにJ2、J3、JFL、地域リーグとさまざまな舞台を経験し、2016年シーズン終了後に現役を引退。その後は、清水エスパルスのアカデミーで指導者として活躍している。

「エスパルスのサッカースクールを2年やって、そのあとにジュニアユース清水で3年間。今年は三島のジュニアユースでU-13のチームを見ています」

 かつて“日本一忙しい高校生”と呼ばれ、自国開催のW杯のピッチに立った。その一方で、オーバートレーニング症候群や膝の負傷にも苦しめられた。そんなプロとしてのキャリアは、子どもたちを指導するうえでどう生きているのだろうか。

「自分が好きなこと、小学生のときから大好きだったものを仕事にできたのは、すごく幸せなことです。だけど、それゆえの苦しさというか、もどかしさもあることをプロ生活のなかで強く感じました。もちろん、自分が思い描いている通りにものごとが進むときもあります。でもそんな時間は、本当に短い。どちらかというと自分が思い描いた通りにいかず、もがき苦しむ時間のほうが長いかもしれません。

 だからこそ、何かを達成したときの喜びが、ものすごく大きい。だからサッカーを続けてこられたと思っています。そういう喜びを子どもたちにも伝えたい。君たちが目指している場所はすごくいいところだけど、そんなに甘くはないし、好きなことだからこそ辛いこともいっぱいあるんだよ、って。自分の経験が子どもたちの育成に生かせるとしたら、これまでの苦しみも喜びもそのためにあったのかな、と。幸いにしてピッチ内外でいろんな経験をしたので、それを伝えていくことも僕の役目なのかなと思います」

<前編から続く>

文=寺野典子

photograph by JMPA