今から62年前の1960年9月30日、2人のプロレスラーが同日デビューをはたした。馬場正平と猪木寛至。のちのジャイアント馬場とアントニオ猪木、両巨頭だ。

 1972年にそれぞれ全日本プロレスと新日本プロレスを旗揚げ。長きにわたり日本のプロレスを牽引し、プロレス界を作り上げていった両者の関係は、その出会いから運命的なものを感じさせた。

「青果市場に素晴らしい身体をした青年がいる」

 アントニオ猪木こと猪木寛至は1943年に神奈川県横浜市で生まれた。13歳の時に横浜市立寺尾中学を2年で中退し、母親、祖父、兄弟とともに移民としてブラジルにわたる。当時、「地上の楽園」として宣伝されていたブラジルだったが、現地での生活は過酷なものだった。一家はここで約3年間、農園で厳しい肉体労働生活を送ったのちサンパウロへ移り住むと、ここで猪木の運命が一転する。

 1960年3月、日本プロレスの力道山一行が遠征でブラジルにやってきた。この時、猪木が働くサンパウロの青果市場の組合長が力道山の後援者でもあったため、力道山に「ウチの青果市場に素晴らしい身体をした青年がいるので、会ってみたらどうか?」と勧め、猪木は力道山と面談することとなったのだ。

 力道山は猪木を上半身裸にすると背中の筋肉や骨格をまじまじと見つめ「よし、日本に行くぞ」と入門許可。こうして猪木は力道山にスカウトされるかたちで、サンパウロに家族を残して単身帰国した。そして力道山が猪木を連れて人形町の日本プロレス道場に戻ると、そこには入門を希望する長身の若者が待ち構えていた。馬場正平、のちのジャイアント馬場だった。

巨人軍投手だった馬場を襲った悲劇

 馬場正平は1938年新潟県三条市に生まれた。少年時代から背が高く高校入学時、すでに身長190cmを優に超えていたという。三条実業高校では野球部のエースとして活躍し、甲子園出場は叶わなかったもののその巨体と身体能力が読売ジャイアンツのスカウト源川英治の目にとまった。まだドラフトもない時代、源川に誘われた馬場は高校を2年で中退してプロ野球・読売ジャイアンツに入団した。なお、同期入団選手には森祇晶、国松彰など、のちに巨人軍V9時代を支えた名選手たちもいた。

 16歳でプロ野球選手となった馬場は巨人軍に5シーズン在籍し、2年目の1956年、3年目の1957年と2年連続で二軍の最優秀投手賞を受賞したが、一軍登板は1957年の3試合のみ。通算成績は0勝1敗だった。

 そして1959年のシーズン途中で巨人から戦力外通告された馬場は、1960年の春、テスト生として大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)春季キャンプに参加するが、キャンプ地である兵庫県明石市の宿泊先の風呂場で立ちくらみを起こして転倒。左肘の靭帯を断裂する大怪我を負い、左手の指がうまく動かなくなりグローブでボールがキャッチできなくなったことで野球選手としての現役生活を断念する。まだ22歳、スポーツ選手としてはこれからという時に起こった悲劇。失意の馬場が次に選んだ道が、プロレスラーへの転向だった。

2人が初めて出会った日

 馬場のプロレス入りの経緯については、巨人軍在籍時から球団イベントなどで力道山と面識があり「早く野球をやめて俺のところに来い」と言われていたという話や、先にプロレス入りしていた元プロ野球トンボ・ユニオンズの竹下民夫からスカウトされた話など諸説ある。

 ハッキリしていることは、1960年3月に馬場が人形町の日本プロレス道場に力道山を訪ねて行ったことだ。この時、あいにく力道山はブラジル遠征中のため不在だったが、翌月再び訪れると帰国したばかりの力道山と対面。そこで日本プロレス入りを直訴すると、力道山は馬場の体つきを確かめ、スクワットだけをやらせたのち即日で入門を許可した。この時、力道山の傍にいたのがブラジルから帰国し付き人となったばかりの猪木だ。これが両者の出会いとなる。

 二人の有望な新人を獲得できたことを力道山はよろこび、数日後、さっそくマスコミに馬場と猪木をお披露目した。元巨人軍のピッチャーで2mを超える巨体を誇る馬場正平と、ブラジル・サンパウロ出身の日系二世という“設定”の猪木寛至。同日入門発表となった二人のライバルストーリーはここから始まった。まさに運命的と言う他ない。

対照的な“同日デビュー戦”

 約5カ月間の厳しいトレーニングを経て、馬場と猪木は1960年9月30日、東京・台東区体育館でデビュー戦を行った。馬場は、元大相撲幕下力士で32歳の田中米太郎に5分15秒、レッグスプリット(股裂き)でギブアップ勝ち。猪木は7カ月先輩で14歳年上の兄弟子・大木金太郎と対戦し、7分16秒、リバースアームロック(逆腕固め)で敗れた。

 力道山は馬場と猪木に対し、対照的なプロデュースでまったく別の育て方をした。2mを超える巨体を誇り、プロレス入りする前から巨人軍のピッチャーという“プロ”であり体もできていた22歳の馬場は、すぐにでも“商品”として売り出すべく、自分の元付き人でレスラーとしてのピークはすぎた中堅の田中米太郎に完勝させることで、鮮烈デビューを飾らせた。

 一方、ブラジルでの厳しい労働で鍛えられた柔軟な肉体と根性を持つ17歳の猪木には、“エリート新人”をライバル視するすぐ上の先輩でガチンコの強さでも定評があった大木金太郎を当て、プロレスの厳しさを味わわせた。

馬場の英才教育と、猪木の鉄拳制裁

 その後も馬場に対しては英才教育が施された。新人時代から外国人レスラーと対戦するチャンスが与えられ、1961年7月には、デビューからわずか9カ月でアメリカ遠征に出発。ババ・ザ・ジャイアントのリングネームで全米各地でトップヒールとして活躍した。この3年間に及ぶ遠征で、馬場は本場アメリカンプロレスを学び、全米のトップレスラーと互角に闘える実力を身につけた。そんな馬場の本場アメリカ仕込みのスタイルは、のちに「王道プロレス」と呼ばれ、全日本プロレスの代名詞となる。

 これに対し猪木のほうは、力道山家の住み込みの付き人として24時間体制で雑用をこなし、日々、鉄拳制裁を受けながらの厳しい修行生活を送り、それは3年半にも及んだ。その中で猪木は、力道山の大衆のヒーローとしての振る舞いと「プロレスはケンカである」という闘魂を自然と学んでいく。そして力道山流のケンカプロレスと、道場のコーチだったカール・ゴッチから学んだ英国式の本格的なレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を融合させた独自のスタイルを作り上げ、それがのちに「ストロングスタイル」と呼ばれるようになった。

「闘魂と王道」の物語

 馬場と猪木の関係は、1960年4月11日の同日お披露目、9月30日の同日デビューに始まり、力道山の死後、60年代後半から70年代初頭にかけての無敵の最強コンビ「BI砲」時代。そして袂を分かち、1972年からお互い団体の長となり、メインイベンター、プロモーターとして間接的な闘いを続けた70年代から80年代と長期にわたる、まさに生涯のライバルだった。

 そして全く違うプロレス観とスタイルを持った2人のスーパースターが人生を懸けて競い合ったからこそ、日本のプロレスは世界に類を見ない独自の発展を遂げていった。アントニオ猪木とジャイアント馬場、「闘魂と王道」を掲げたふたりのライバルストーリーこそが、日本プロレス界の歴史そのものだったのである。

文=堀江ガンツ

photograph by AFLO