2022年10月1日、“燃える闘魂”アントニオ猪木が79歳でこの世を去った。その付き人からプロレスラーとしてのキャリアをスタートし、68歳になった現在もリングに上がる“ドラゴン”藤波辰爾にロングインタビューを敢行。後編では、SNSで再脚光を浴びた楽曲『マッチョ・ドラゴン』にまつわるエピソードと、時代を追うごとに変化していった師匠・猪木との関係性について話を聞いた。(全3回の3回目/#1、#2へ)

 熱かった長州力との“名勝負数え歌”が終わった後、1985年11月、藤波辰巳は『マッチョ・ドラゴン』をリリースした。カルト的な人気を集めた同楽曲を、藤波は『1オクターブ上の音楽会』(NHK)で37年ぶりに披露。9月に番組が放送されると、SNSに大きな反響が広がった。

「Twitterでトレンド入りしましてね(笑)。大変でしたよ。反響があまりにも大きすぎてね」

 藤波は照れくさそうに笑った。

伝説の楽曲『マッチョ・ドラゴン』再演のウラ側

「あの頃の新日本プロレスも話題作りに懸命でした。当時、女子プロレスラーはよく歌っていて、全日本ではジャンボ鶴田もギターを手に歌っていた。自分の歌の実力は知っているけれど、会社の後押しがあったから、打診されたらその気になっちゃってね(笑)。編集でいいところだけつないでも、あんな感じでした。プロモーションビデオは97、8キロの時かな。筋肉バリバリでメイクしながら歌ったなあ。怪しげなダンスもね(笑)」

 以来、『マッチョ・ドラゴン』はたびたびプロレス通や音楽好きの間で話題に上がってきた。山下達郎が自身のラジオ番組でプレイしたこともあったようだ。

「芸人のユリオカ超特Qがモノマネで歌っていましたね。カラオケにもあるし、なんとなくイジりやすかったんじゃないかな。息子の怜於南(LEONA)にも『お父さん、オイシイね。50周年だからやりましょうよ。ファンに対してのプレゼントだから』って言われて。でも、練習のしようがないんです(笑)。当日は収録に2時間くらいかかりました。生演奏で、歌詞も覚えていないし、カンペを書いてもらっても、歌の入り方がわからない。合図してもらわないと。さらにダンスもするので。みなさんに申し訳なかったですね……」

 NHKのスタッフによると、クラブで流れていた1980年代のプレイリストの中に『マッチョ・ドラゴン』があったという。原曲はエディ・グラントの『Boys in the Street』だ。話題は『マッチョ・ドラゴン』から、カラオケの話へと移行した。

「そうそう、猪木さんに話が戻っちゃいますが、猪木さんがカラオケで歌っていた『木蘭の涙』、今度、歌おうかな。あれ、いい歌ですよね。猪木さんは軍歌とか、タイガーマスクとか、君が代も歌っていましたね。採点機能までつけて。カラオケで君が代ですからね、怖いですよ(笑)」

変化した猪木との関係性「試合前に突然、殴られて…」

 改めて、藤波はドラゴンブーム全盛期の心境を語った。

「ニューヨークの後は、ジュニア・ヘビー級を盛り上げて、残していかなくてはいけないから、とても有頂天になれる状況じゃなかった。ブレイク感? そんなの全くないですよ。リングでは孤独だから、いつこれが崩れ落ちるか、という危機感がありました。遠征先でファンが待っている。駅や会場はもちろん、旅館でも。いい気分だけれど、反面、その裏返しが怖かったですよ」

 スターダムを駆け上る弟子の姿に、アントニオ猪木は何を思っていたのだろうか。

「プロモーターとしての猪木さんは、団体が盛り上がるからOKでしょうけれど、レスラーとしての猪木さんは『この野郎、有頂天になって、うぬぼれやがって』と思っていたでしょうね。試合前に突然、思いっきり殴られて、頭から血を流して入場したこともあった。付き人で、ジュニアで売り出し中の僕を殴るんだから、周りには一番効果があったでしょうね」

 そう、猪木は何をするかわからないのだ。

「猪木さんはよく控室のドアの隙間から試合を見ていて、つまらない試合をすると、リングまで飛んできた。乱入、通り魔ですよ(笑)。新日本にはいつもピリピリしたムードが漂っていました」

 藤波は1988年4月、後に飛龍革命と呼ばれることになるアクションを起こす。

「わかってほしい、という思いでした。説明不足で通じなかったんでしょうが、自分がトップを取って、メインイベントをやりながら考えたんです。地方のプロモーターもテレビ局も、結局は猪木さんありき。当たり前なんだけれど、海外からくるトップ選手と猪木さんがぶつかる。我々がいるんだから、任せてほしいという気持ちがあった。そのぶん、少しでも猪木さんが欠場することができたり、休めるんじゃないかと……。沖縄で、猪木さんをこの左手で張ってね。張ってから『これでオレの新日本プロレスも終わったな』と思った」

藤波辰爾にとっての猪木は「とてつもなく大きな岩」

 猪木との対決は「切ない試合」だと藤波は語る。

「東京体育館(1985年9月19日)でのシングルも、横浜文化体育館(1988年8月8日)での時もそう。新日本プロレスが危機的な状況の時にシングルでぶつかる運命だったんでしょう。猪木さんとオレの試合は切ない試合だね。お互いの気持ちはわかっているのに、確かめるような……。原点に戻すというか、戦うことは言葉よりもわかりやすい。結果、また、会社がひとつにまとまった」

 筆者には「藤波に猪木さんを押さえ込んでほしかった」という思いがあった。

「長州も何回か猪木さんをフォールしている。天龍(源一郎)だって猪木さんをフォールしたし、天龍は馬場さんもフォールしている。僕だけはシングルで猪木さんをフォールしていない。僕がIWGPのチャンピオンで猪木さんが挑戦者。でも、猪木さんは僕だけには譲らない。猪木さんがヤキモチを焼くことはないだろうけれど、『こいつ全部持ってやがる』とスキを作らなかった。横浜で60分が(引き分けで)終わっても、猪木さんはオレの上に乗っかっていた。意地があったんでしょうね。そう、意地悪ジジイですよ(笑)」

 藤波は猪木をよく理解していた。

「猪木さんの付き人だから、わかりますよ。この人ともう話をしたくないのかな、サインをしたくないのかな、逆にサインしたいのかな、周りにアントニオ猪木をアピールしたいのかな……。一緒にいるだけで、その雰囲気がわかった。そういうときは、僕は一歩引いて猪木さんにファンが群がるようにしていました」

 藤波辰爾にとって、アントニオ猪木とはいったい何だったのだろうか? こんな漠然とした質問をぶつけてみた。

「とてつもなく大きな岩だね。みんな、そこを目印にして集まってしまう。嵐のときは、風よけになる。何かあったら、その岩が受け止めてくれる」

 藤波の社長時代、新日本プロレスが会社としての方針を決めても、夜中に猪木から電話がかかってきて否定されてしまうこともあった。

「自分自身が猪木さんから顔をそむけたところかもしれない。反逆じゃないんだけれど、自分たちで『こういうことをやりたい』という部分と、オーナーの猪木さんが引退した立場で見たときに『こんなんじゃないんだよな』と感じた部分。猪木さん流の考え方で、プロレスの行く末を心配していたからこそ、あえて横やりを入れて、引き締めてほしい、と思ったんでしょうね。K-1や総合格闘技に絡んでみたりもしていたけれど、それでも新日本のことは常に気になっていたでしょう」

 藤波は師匠の気持ちを推し量り、代弁した。

「猪木さんが骨を折って作った団体が“普通”になってしまって、みんな勝手にパフォーマンスして、『こんなのを見せるために会社を作ったんじゃないぞ。もっと背筋がゾクゾクするものを見せてくれ』って言いたかったんでしょうね。選手たちの雰囲気的に、プロレスラーとしての心構えができていないって、そう猪木さんは捉えていたんでしょう」

藤波辰爾、68歳の覚悟「逆に引けなくなった」

 12月に69歳になる藤波は、自身の“終わり”をどう見据えているのだろうか。

「もちろん引き際はあるんだろうけれど、みんな1日でも長くリングに立ちたいと思っている。プロレスって常に変化している。もうドラゴン・ロケットはできない。でも、違う動きで補ってやっている。それはお客さんが判断してくれるでしょう。

 藤波には昭和の人間としての自負がある。

「自分は昭和を引きずっている。猪木さんが旅立って、逆に1年、2年では引けなくなった。プロレスはどこに行っちゃうんだろうな……。現役として、“リング上の語り部”として、猪木さんから受け継いだものを消したくない。寂しいですよ。長州がいなくなって、蝶野(正洋)があんな状態、武藤(敬司)も来年引退するでしょう。だからこそ行動で伝えたい。俳優じゃないんだから、服を着て顔だけ出してじゃなく、リング上で見せられる体というのがあってのことです」

 藤波はレスラーとして肉体へのこだわりを見せる。

「全盛期の半分しか練習はできない。週に3、4回、ジムで3時間、4時間です。気を抜くとタイツのおしりの下に線が入ってくる。これを作っちゃいかんと。油断したら、すぐたるみが出てくる」

 12月1日の相手は45歳の棚橋弘至だ。

「棚橋を指名して、『オレも失敗したなあ』と思った(笑)。リップサービスじゃないんだけれど、言っちゃいかんだろう、と思っても言ってしまう。まあ、68歳のいい刺激かな。猪木さんが45歳、僕が34歳で戦ったというのが意識のどこかにあってね。年齢はずいぶん違いますけど、あの時の猪木さんの心境を少し味わえるのかな……」

 その棚橋が「猪木さんが亡くなってしまったぶん、オレが燃えないといけない」と葬儀の日に言っていたことを藤波に伝えた。

「彼は僕に憧れてプロレスに入った男。今も棚橋はいい体をしているけれど、代々木ではもっとバキバキにしてリングに上がってくるでしょうね」

「猪木さんは最後までアントニオ猪木だったんですよ」

 リングに上がり続けた50年という歳月を、藤波は「あっという間」だと語った。

「気が付けば50年。でも、まだまだ飽きない。やりたいこともありますから。これから、どんなプロレス界ができるのか。他の競技もある中で、プロレスというスポーツがどう生き残るのか。ご当地の団体もある時代に、“統一”に足を踏み入れるべきかどうか。それがプロレスにブレーキをかけることになるのかもしれない。でも野放しにしていたら、プロレスが違う方に行ってしまうかもしれない。どうすれば、しっかりとした団体を保っていけるか。統一というのも、本当は馬場さん、猪木さんの時代にやっておくべきことだったんでしょう」

 アントニオ猪木を間近で見てきた藤波にとって、プロレスは単なる仕事、単なるスポーツではない。

「世の中の仕組みはプロレスなんですよ。猪木さんが言いたかったのは、プロレスというものを理解したら、世の中もっとスムーズにいくんじゃないか、ということではないかなと」

 どれだけ語っても、師匠への思いは尽きない。

「猪木さんって驚かせるのが好きじゃないですか。よくやるでしょう? 家に行っても、引き戸やドアの陰からいきなり飛び出してきて『元気ですか!』って(笑)。病気になってから、座っていて体が傾いても、来客の気配を感じるとシャキッとする。見られていることを常に意識している。猪木さんは最後までアントニオ猪木だったんですよ。トラブルも興行にしてしまうのが猪木さんだったから」

 藤波は2015年、WWEの殿堂入りを果たした。猪木に次いで日本人2人目の受賞だった。授賞式では「元NWA世界ヘビー級王者」ともコールされた。「藤波辰爾」の名を呼んだのは、半世紀近く前のアメリカ修行時代に、家で一緒にバーベキューをしていたリック・フレアーだった。

「もし『藤波さん、もういいよ』と言われたら、どうしようかな。現役のレスラーというのが励みになっていますから。引退したら、次の日から他のことも手につかないんじゃないかな。それこそ、山にこもっちゃうかもしれないね(笑)」

文=原悦生

photograph by Essei Hara