雑誌「Sports Graphic Number」と「NumberWeb」に掲載された記事のなかから、トップアスリートや指導者たちの「名言」や写真を紹介します。今回は日本代表の高校時代にまつわる3つの言葉です。

<名言1>
「大津高校の平岡(和徳)先生のようになりたい。大学に行きたい」と言っていました。
(向島建/NumberWeb 2022年11月19日配信)

https://number.bunshun.jp/articles/-/855370

◇解説◇
 大津高校は第101回高校サッカー選手権でベスト4進出を果たした。昨年度も準優勝を果たしているなど九州随一の強豪校として知られるが、同校OBで最も有名になった選手と言えば谷口彰悟だろう。

 カタールW杯で3-4-2-1システムを主戦とした森保一監督率いる日本代表にあって、谷口は最終ラインの一角として安定した守備、ビルドアップを見せた。これまで海外クラブに在籍歴はないものの、Jリーガーとして列強国のアタッカー相手にも戦えることを証明してくれた。

 谷口は筑波大を経由して、2014年から川崎フロンターレの一員となった。三笘薫や守田英正、さらに言えば中村憲剛や小林悠……と川崎が“得意パターン”にしている大卒組の活躍ぶりだが、スカウトの向島は谷口について、すでに高校時代から目をつけていたのだという。

「高校2年生で出場した高校サッカー選手権で見ました。当時はボランチで、シンプルにボールをさばく姿にセンスを感じましたね。身体能力も非常に高かった。2年生の選手権後に宮崎県綾町の春季キャンプに呼んでみて、フロンターレのスタイルにもマッチしていたので、ぜひ獲りたいと感じました。キャンプにはお父さんも来ていて、口頭で『どうですか』と打診させてもらいました」

 高校生時点で開けたプロフットボーラーの道。しかし谷口は自分自身のキャリア形成を考え、大学進学という道を選んだ(筑波大在学中には保健体育の教員免許を取得したほどだ)。

「4年後にまたお願いします」と

 この決断について、当時の向島は「無理矢理に入れることはないので、『4年後にまたお願いします』と話をしました」。それから4年後、谷口はユニバーシアード日本代表として2大会プレーするなど着実に成長し、実際にフロンターレの一員となったのだから、両者にとってベターな選択となったと言える。

 谷口は2023年からカタールのアル・ラーヤンへと移籍し、現地時間5日に行われた国内リーグではさっそく先発出場を果たし、チームの勝利に貢献している。円熟味が出てきた日本代表センターバックは、学生時代と川崎時代を礎に新たな挑戦を始めている。

浅野は「ずば抜けたスピードを持っていた。しかも」

<名言2>
最初は普通の高校に行ってサッカーをやろうと思っていたけど、熱意を感じたし、四中工でやってみたいと思ったんです。
(浅野拓磨/NumberWeb 2015年12月9日配信) 

https://number.bunshun.jp/articles/-/824702

◇解説◇
 カタールW杯ドイツ戦、値千金のゴールを叩き込んだのは浅野拓磨だった。

 堂安律の同点ゴールで1-1とした日本は、“ドローでも十分”な状況に持ち込んでいた。その考えをいい意味で吹き飛ばしたのは83分のことだった。

 板倉滉から大きな弧を描いたロングボールが前線に放たれると、浅野がドイツのオフサイドラインを破りつつ、絶妙のファーストタッチを見せる。そこから追いすがるシュロッターベックをいなしながら、ノイアーがわずかに空けた“ニア上”を打ち抜き、決勝ゴールをゲット。あまりにも大きい勝ち点3をもたらした。

 浅野はチームの命運を決める大事な一戦でことごとくゴールを陥れてきた。リオ五輪アジア最終予選日韓戦、ロシアW杯最終予選オーストラリア戦、2015年Jリーグチャンピオンシップ決勝セカンドレグなどだ。

 その大舞台の強さを世間が発見するきっかけとなったのは「選手権」だった。四日市中央工業高校(四中工)1年時から3年連続で全国高校サッカー選手権に出場すると、2年生で迎えた第90回大会では初戦から決勝戦まですべての試合でゴールを奪い、得点王に輝いたのだ。

 冒頭の言葉通り、中学生の浅野は強豪校でプレーする意識はなかったという。しかし四中工を率いていた樋口士郎は中学時代の浅野を見て、こう感じていた。

「当時から彼はずば抜けたスピードを持っていた。しかも、スピードタイプにありがちな、ボールが収まらなかったり、顔が上がらないというデメリットが彼にはそれが無かった。絶対に将来大成する存在だと思った」

 その才能を買って熱心に誘い、浅野は四中工へと入学した。そこから樋口は浅野に向けてストライカーとしての意識を徹底して叩き込んだ。もしこの2人の出会いがなければ……ドイツ戦のジャイアントキリングも生まれなかったのかもしれない。

前田大然が“サッカー部除籍”を言い渡された日

<名言3>
あの“1年”がなかったら、僕はいまこうしてサッカーをしていなかったと思います。
(前田大然/NumberWeb 2022年7月24日配信)

https://number.bunshun.jp/articles/-/854022

◇解説◇
 W杯で日本代表の守備戦術の“先鋒役”となったのは前田大然だった。圧倒的なスプリント能力を生かしたハイプレスで相手守備陣にプレッシャーをかけ続けたからだ。スペイン戦ではGKウナイ・シモンに対する前田のプレスが契機となり、堂安律の同点ゴールを呼び込んだのがその象徴と言えるだろう。

 最終的に敗れはしたものの、クロアチア戦でセットプレーのこぼれ球が前田のもとに転がり、W杯初ゴールを奪えたのはその献身ぶりのご褒美だったのかもしれない。

 そんな前田もまた、高校サッカー育ちだ。ただ多くの日本代表選手と違うのは、紆余曲折あった経歴である。

 大阪府出身の前田は、選手権優勝校である山梨学院高校へと入学する。1年時からそのスピードは卓越したものがあり、とんとん拍子で主力となったのだが……部員仲間1人と、チームの規律を乱す行為をしたとしてサッカー部から除籍の処分を言い渡されてしまったのだ。

 当然、部の寮から出ていくことになり、学校近くのアパートに住みながら授業に出席するしかない日々。サッカーのために越境してきたはずがボールも蹴れない日々が続いたという。ただ前田は自省し、校内の掃除など自分にできることをこなして学校生活を過ごしていたそうだ。

「それまではヤンチャなこともしていましたし」

 そんな状況の中で前田らしい“自主練”エピソードがある。

「朝練は学校の近くに山があって、サッカー部で走る道があったので、そこを走って登ったり。グラウンドの周りを走ることもありました」

 持ち前の走力をさらに磨くきっかけになった……かは本人のみぞ知るだが、その真摯さを確認した吉永一明監督(当時)は高2の秋頃、地元の社会人チームを前田に紹介し、ボールを蹴る機会を与えた。そして除籍から1年、前田はチームに戻り、高校3年時のプリンスリーグ関東では12ゴールをあげて得点王に輝くなど結果を残した。

「それまではヤンチャなこともしていましたし、ピッチ内外で本当に自分のことだけしか考えていなかったですから。(中略)もしみなさんの助けがなければ、いま僕はこういう場所にいられなかった。あの1年で自分ひとりでは何もできず、たくさんの支えのなかでプレーできること、チームのために走ることの大切さを学ばせてもらいました。それが、必然的にいまのプレースタイルにつながったという感じですかね」

 高校時代の蹉跌があるからこそ、前田は日本代表でも、現在所属するセルティックでも絶えずスプリントし続けられているのだろう。

 <つづく>

文=NumberWeb編集部

photograph by Kiichi Matsumoto/JMPA