海外FA権を行使してソフトバンクに移籍した近藤健介の人的補償として、日本ハムが指名したのは“未完の大器”田中正義だった。

 1月11日、ソフトバンクが正式に球団発表を行い、「ホークスの皆さんには、なかなか結果が出ない僕をこれまで支えて頂き、本当に感謝しています」という田中のコメントも合わせて紹介された。

 同発表を待たずに日本ハムの新庄剛志監督が「(いい選手が)俺の中では4人くらいいました。めっちゃ迷いましたよ。ビデオすり切れたもん」「大学時代から見ていたから、大学時代のように復活できるかどうか」「最初の文字が“タ”かな?」(いずれも1月10日付、スポーツニッポンより)などと語ったことで、田中が日本ハムへ移籍することは発表以前から確実視されていた。

 現行のFA制度において、ソフトバンクが作成した28名のプロテクトのリストが外部に漏れることは原則あり得ない。

 とはいえ“球界人事”は常にファンの興味を惹く。そのため各メディアでも様々な憶測が流れた。日本ハムの球団幹部の話として「(年俸が)高額な選手も何人かいる」と伝わったことで、過去にタイトルを獲得した実績のある選手の名前なども一部で挙がっていた。

 たしかに巨大戦力を誇るソフトバンクで28人のリストを作成すれば、あっと驚くような選手がプロテクト外となっていても不思議ではない。現に、一昨季オフは又吉克樹がFA移籍した人的補償として、17年に最優秀中継ぎ賞に輝いたことのある岩嵜(いわさき)翔が中日に移籍している。

 そういった中で、日本ハムは「田中正義」を選んだ。

 ここまでプロ6年間未勝利で、一軍通算登板も34試合にとどまっている。それでも新庄監督も言うように「大学時代のように復活」さえ出来れば、今シーズンから大化けしても不思議ではない。

プロ入り前の評価「すぐに通用する」

 いつか必ず、本来の姿を見せてくれるはずだ――。

 ソフトバンクでも、ずっとそんな期待をさせてくれたピッチャーだった。

 創価高校時代はじつは外野手。背番号8をつける4番打者だった。創価大学入学後に本格的に投手に取り組み、2年生の6月、全日本大学野球選手権の1回戦で最速154キロを記録するなど佛教大学を完封し、一躍大学球界のスター候補になった。

 そして、脚光を浴びたのが3年生の時にユニバーシアード代表としてNPB選抜と戦った壮行試合だ。同年代の若手主体のチームだったとはいえ、プロを相手に7連続三振を奪うなど圧巻の投球を披露。「すぐにでもプロで通用する!」とスカウト陣を唸らせた。

 大学4年に入って右肩の不安を露呈するもアマチュア界でナンバーワンの評価は揺るがず、16年のドラフト会議で5球団競合の1位指名の末に、くじ引きでソフトバンクが交渉権を引き当てた。なお、この時には日本ハムも田中を1位入札していた。

 ソフトバンクと入団合意した際には「160キロ台を出してみたい」と語り、入団発表では色紙に「沢村賞」と目標をしたためた。誰もハッタリだとは思わなかった。

 なのに、なぜ歯車が狂ってしまったのだろうか。

笑顔の記憶はほぼゼロ…苦節のプロ入り後

 黄金ルーキーと騒がれた1年目。当時の新聞報道を見返すと、1月の新人合同自主トレでは「おやつ代わりに納豆を食べています」と話しただけで記事になり、「正義流(調整)容認」「王会長の気遣いに感謝」など連日のように紙面に登場。キャンプイン後も「内川、松田が直球にうなる」「8割の力でバットへし折った」など威勢のいい言葉が並んでいた。

 だが、キャンプ中盤になると「正義 守備は別人」(17年2月13日付、日刊スポーツ)と投内連係でミスを連発。「正義あれ荒れ152キロ」(17年2月15日付、日刊スポーツ)と初シート打撃登板で制球難と、少し雲行きが怪しくなった。

 その後も「また守乱」「再び欠点露呈」と厳しい言葉が目立つようになり、キャンプ終盤になると突如名前が出なくなった。疲労などが考慮され登板頻度もペースダウン。オープン戦が始まってもなかなか合流できず、右肩のコンディション不良が判明。結局リハビリ組へ回ることになった。

 ルーキーイヤーは夏前に三軍戦で少し投げ、9月になって二軍戦で“公式戦デビュー”という悔しい結果に。それでも調整途上の中で150キロ近い剛速球を披露して「やはり非凡」とチーム首脳陣らを驚かせた。

 2年目の18年はキャンプB組スタートもオープン戦で着実にアピールし、リリーフ要員で開幕一軍入りを果たす。しかし、10試合に登板して防御率8.56という散々な結果。夏場には体調を崩してしまい、1カ月近くチームを離れたこともあった。

 3年目(19年)は春季キャンプで好調をアピールするも実戦が始まると右肩の張りを訴えて離脱。一軍登板は1試合のみ。4年目(20年)は右肘痛で一軍登板ゼロに終わった。

 ブレイクする兆しは何度もあった。なのに、チャンスを掴めそうなところで突如壁にぶち当たる。技術以前にメンタル面で問題があるのでは……、などと囁かれることも少なくなかった。たしかに田中は生真面目すぎるほど真っすぐな性格だと言っていい。期待に応えられない自分に、不甲斐なさは当然感じていただろう。プロに入って最初の数年間で、彼の笑顔を見た記憶は殆どなかった。

成長の日々…昨季はローテ入り濃厚も

 だが、迎えた5年目の21年春季キャンプ。B組スタートだった田中は朝の声出しで「僕は過去4年間の大半を、リハ(リハビリ組)とファームで過ごしております。しかし、今年は一軍で活躍できるという自信があります」と切り出した。

 はっきりと、堂々と――。

 それはプロ入り後初めて見た姿だった。球団スタッフらも「今年の田中は明るい」「最近は冗談を口にする。以前はそんな感じじゃなかった」と言っていた。

 その理由を、田中は声出しの中で明かしていた。

「昨年(20年)のファームの最終試合。これは内川(聖一)さんのホークスでの最後の試合でもあったのですが、そこでクローザーとしてマウンドに上がらせてもらい、人生で1番良いボールを投げることができました。試合後に『4年間ありがとうございました』と挨拶に行くと、内川さんから『みんなが“オマエはできる”と思ってるのに、オマエだけがその可能性を閉ざしている』と言われました。僕はその言葉が嬉しかったですし、自信になりました。なので、まずは開幕一軍を目指して、一軍の戦力になれるように頑張ります」

 この年のシーズン(21年)。自己最多を大きく更新する18試合に登板し、防御率2.16と安定した投球を見せた。さらにシーズンオフの11月の秋季キャンプでは、体作りと変化球の精度向上をテーマにトレーニングに励み、新監督に就任したばかりだった藤本博史監督から「投手陣のMVP」との評価を受けた。

 確実に、潮目は変わっていた。

 昨年のシーズン前も目標を訊ねると「2桁勝利です」と言い切った。プロ1勝目すら挙げていなかったが、これまでの借りを返すとばかりに強い意気込みを口にしていた。春季キャンプでも猛アピール。藤本監督から再び「キャンプMVP」に選ばれた。

 開幕ローテ入りはほぼ当確……のはずだった。しかし、開幕まで1週間を切った“最終調整”の登板で右肩に違和感を覚えて緊急降板。悪夢のようなリハビリ行きとなってしまった。

近くて遠かった「あと一歩」

 結局、昨年も一軍昇格したのは8月になってから。その後、新型コロナ感染もありシーズンでは5試合のみの登板に終わった。

 だが、登板機会は少なかったものの投球結果は決して悪くなかった。5回を投げて被安打2、三振は投球回を上回る6個を奪い、与四球0も光る。無失点投球で防御率0.00。WHIP0.40と走者はほぼ許さなかった。

 オフの契約更改では「ようやく自分の足でしっかり歩いている感じがでてきた。着実に課題を詰めていけば、来年(23年)はやれる。地に足がつくというか、周りを気にせず1歩1歩を着実に」と話していた。

 ソフトバンクに在籍した6年間、誰よりも田中自身が「今年こそは」と思っていただろう。そして彼の奮闘を見てきた筆者も、そう期待、いや祈っていた感覚に近い。“生真面目すぎるほど真っ直ぐ”な男はいつか必ず報われる。あと少しで花は開く、と。

 田中はたしかに福岡で真価を発揮できなかった。それでも絶望の日々から少しずつ這い上がってきた歩みを周囲の人間は見ている。覚醒の瞬間はすぐそこまで近づいているはずだ。

 プロ7年目を前に新天地へ。「あと一歩」を追う田中正義のプロ野球ストーリーは、北の大地に舞台を移す。

文=田尻耕太郎

photograph by JIJI PRESS