2023年の野球殿堂入り表彰者が発表された。競技者表彰のエキスパート部門では78.6%(154票中121票)でランディ・バース、プレーヤー部門で81.7%(355票中290票)の得票率でアレックス・ラミレスが選ばれた。特別表彰では作曲家の故古関裕而氏。
メディアは「外国人選手の殿堂入りは、1960年のビクトル・スタルヒン以来63年ぶり」と報じている。スタルヒンは日本国籍を取得しなかったから外国人ではあったが、旧制旭川中学を中退して草創期の巨人に入団している。いわゆる「助っ人」「外国人選手」ではない。
実質的に「外国人選手初の殿堂入り」
ラミレスとバースは実質的に「外国人選手初の殿堂入り」と言ってよい。
日本プロ野球(職業野球)が始まった1936年にはすでにバッキー・ハリス、ハーバート・ノースなど外国人選手がいた。当時の日本野球レベルは低く、日本人選手は、メジャーリーガーはおろかマイナーリーガーと比べても大人と子供の差があった。
戦後、その差は徐々に縮まっていき、メジャーリーガーもやってくるようになる。そして1952年には「外国人枠」が設けられ現在に至っている。
歴代の外国人選手はトータルで1000人を超えており、プロ野球にとって「外国人」は、なくてはならない要素になっている。しかし日本球界は、異国で活躍した彼らの功績を顕彰することには消極的だったと言わざるを得ない。
ランディ・バースと、アレックス・ラミレスはともにセ・リーグで活躍した強打者だったが、全く異なる個性と実績の持ち主だった。
当初バースは「バス」表記だった
バースは1954年生まれ。1972年ツインズに7巡目(全体152位)で入団。
マイナー各レベルで毎年のように3割近くを打ち、出塁率も4割近く、本塁打も多かったが、6シーズンもマイナーで足踏みした。バースは8歳のときに両足を骨折したために全速力で走ることができず、守備も一塁しか守れなかったからだ。しかし打撃練習ですさまじい当たりを飛ばすことは早くから知られていた。
1977年にメジャー昇格するも定着することができず、ロイヤルズ、エキスポズ、パドレス、レンジャーズを経て1983年に阪神にやってきた。
当時のスポーツ紙で「新外国人バス来日」との見出しを見た記憶がある。Bassは普通に読めば「バス」だが、「阪神バス故障」「バスエンスト」みたいな見出しが出ることを懸念した阪神球団が「バース」と選手登録したようだ。「(1976年から3シーズンで79本塁打した)ハル・ブリーデンくらいはやるか」くらいの前評判だった。
日本に来て2年間は通算62本塁打、77本を打ったブリーデンより少なく、当時は「並みの外国人」という印象だった。しかし3年目の1985年、バースは大爆発する。
この年の第1号が4月17日、甲子園での巨人戦・槙原寛己から打ったあの「バックスクリーン3連発」の1発目だった。5月まではヤクルトの杉浦享と15本で並んでいたが6月以降、一気に引き離す。10月20日には54本塁打を打ち、当時のNPB記録、王貞治の55本に1本差に迫った。
しかしバースは以後、四球攻めに遭う。10月24日、後楽園での巨人とのシーズン最終戦では、先発の斎藤雅樹が2打席連続で敬遠。焦ったバースは3打席目、高く逸れるボールをバットを伸ばして打って安打。しかし続く2打席も敬遠された。当時の巨人監督は王貞治。後味の悪い結末ではあった。
当時、甲子園は両翼96m、中堅119m、まだラッキーゾーンがあって100m以下のホームランも出た。しかしこの年のバースの54本塁打の内100m以下は1本だけ、場外も2本あり、堂々たる飛距離のアーチを放っていた。チームは優勝。バースは三冠王を獲得して文句なしのMVPに輝いた。
2年連続の三冠王ではイチローも超えられなかった打率を
そして翌1986年、バースは2年連続の三冠王を獲得する。この年もNPBの打撃記録に挑戦した。この年は打率だった。
<NPBのシーズン打率5傑>
1バース(阪神).389/1986年(453打176安)
2イチロー(オリックス).387/2000年(395打153安)
3イチロー(オリックス).385/1994年(546打210安)
4張本勲(東映).3834/1970年(459打176安)
5大下弘(東急).3831/1951年(321打123安)
史上最高の安打製造機イチローの挑戦をはねのけ、この年のバースの打率は今もNPBでは最高だ。この年のセ打率2位は、エキスポズでチームメイトだった巨人のウォーレン・クロマティ。打率.363を記録するも2位に終わった。これはシーズン2位における最高打率である。
バースが阪神でプレーしたのは6シーズンだが、タイトルを獲得したのは2シーズンだけ。短期間に驚異的な成績を残して殿堂入りを果たしたのだ。
NPBでは614試合2208打数743安打202本塁打486打点5盗塁、打率.337。
首位打者、本塁打王、打点王各2回、三冠王2回、最高出塁率2回、MVP1回、ベストナイン3回。
早打ちのラミレスはまずヤクルトで活躍した
バースとは対照的にNPBで長く活躍したのがアレックス・ラミレスだった。バースよりも20歳若い1974年生まれ。
ベネズエラ出身、1993年、18歳でインディアンスのマイナーに入団。彼も打率は高く長打力も目立っていたが、出世は遅かった。
ラミレスははっきりした「傾向」のある打者だった。早打ちで四球をほとんど選ばなかったのだ。
セイバーメトリクスの考えが浸透しつつあったMLBでは、出塁率が重視された。ラミレスはマイナー通算で.294の打率を残したが出塁率は.328でしかなかった。
1998年にインディアンスに昇格するも定着できず。チームには大スターのマニー・ラミレスがいて、アレックスは外野の控えだった。マニーは選球眼も極めて優秀だったが、アレックスは相変わらずの早打ちだった。
パイレーツを経て2001年にヤクルトに。チームには同じベネズエラ出身のロベルト・ペタジーニがいた。このシーズン、ヤクルトはリーグ優勝、日本一に輝きペタジーニはMVP。ラミレスはペタジーニがいる間は「弟分」という印象だったが、2003年、ペタジーニが巨人に移籍して以降は4番に座って本塁打王を1回、打点王を2回獲得。2008年に巨人に移籍すると2年連続MVPに輝く。
ラミレスは好機で非常に勝負強く、2003年から8年連続で100打点、120打点もNPB最多タイの4回記録している。MLBでいう「RBIイーター」だったのだ。巨人では絶対的な4番打者だった。この間、2008年にはFA権を取得。「外国人枠」から外れる。
2012年に横浜DeNAに移籍、2013年にはMLB出身の外国人選手として初の2000本安打を記録した。
636打席で四球がわずか「19」だったシーズンも
ラミレスはNPBでも早打ちで、四球をほとんど選ばなかった。ヤクルト時代の2006年は636打席でわずか19個。NPBでの通算打率は.301だが、出塁率は.336。しかしNPBでは四球が少なく早打ちの打者は「積極性がある」と評価する考えもある。ラミレスのクセの強い打撃スタイルは日本で花開いたと言えよう。
横浜を退団後は独立リーグでの選手、指導者経験を経て2016年からDeNAの監督に。当時のベイスターズは戦力的に有力とは言えなかったが、やりくりをして5年でポストシーズンに3回出場した。投手を8番で起用するなどユニークな采配も目立った。またホセ・ロペス、エドウィン・エスコバーと同じベネズエラ出身の選手が活躍した。
筆者はハマスタの隣にある「東横イン」のロビーでコーヒーを飲みながら従業員と話すラミレスを見かけたことがある。スター選手になっても気さくで親しみやすいキャラだった。監督になってからも春季キャンプの昼休みには観客席を回ってファンと記念写真に納まっていた。
ファンは親しみを込めて「ラミちゃん」と呼んだものだ。
NPBでは1744試合6708打数2017安打380本塁打1272打点20盗塁、打率.301。
首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回、MVP2回、ベストナイン4回。
〈太く短く〉〈長く達者に〉活躍したほかの外国人は?
〈太く短く〉活躍したバースと〈長く達者に〉活躍したラミレス。この2人に続く外国人の殿堂入り候補を挙げておこう。
〈太く短く〉
ブーマー・ウェルズ(阪急、オリックス、ダイエー)
1984年に外国人初の三冠王
ウラディミール・バレンティン(ヤクルト、ソフトバンク)
2013年に60本塁打のNPB記録
ロバート・ローズ(横浜)
1999年に歴代2位の153打点
デニス・サファテ(広島、西武、ソフトバンク)
2017年にNPB記録の54セーブ
〈長く達者に〉
レロン・リー(ロッテ)
NPB通算最高打率.320
タフィー・ローズ(近鉄、巨人、オリックス)
外国人2位の1792安打、1位の464本塁打、2位の1269打点
日本人選手でも本来殿堂入りすべきと思われる選手はまだたくさんいる。願わくば、その元選手が健在のうちに殿堂入り表彰を受けることが理想だ。さらに、それ以上に外国人選手は「異文化」に適応して、日本の野球ファンを喜ばせてくれたのだ。殿堂表彰に「外国人枠」を設けてもいいから、殿堂入りを推進してほしい。
文=広尾晃
photograph by Sports Graphic Number