壮大なチャレンジでもあったこのアイスショーに音響として参加したのが矢野桂一氏である。
長年、フィギュアスケートの大会やアイスショーの音響を担い、また選手が演じるプログラムの曲の編集にも携わってきた、まさにフィギュアスケートをよく知る音のプロフェッショナルである。とりわけ羽生とは、数々のプログラムの編曲を手がけたほか、アイスショー等にも音響スタッフとして参加するなど交流してきた。羽生をよく知る一人である矢野氏が「プロローグ」の舞台裏、そしてプロスケーターとしてスタートを切った羽生結弦について語った。《全3回のインタビュー1回目/#2、#3へつづく》
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アイスショー「プロローグ」は、スケーターとしてただ一人の出演者であった羽生結弦が約90分を滑り切り、またショーそのものも優れた構成と演出がなされ、完成度の高さから称賛を浴びた。
公演には、羽生ならではの音楽、音への鋭い感性やこだわりもまた、込められていた。
「6分間練習」の曲は、新たに編集されたもの
幕開けは「6分間練習」であった。6分間練習とは、試合のとき、滑走する同グループの選手が演技の直前に行う練習のことだ。これまでのアイスショーになかった場面は強烈なインパクトを与えた。また試合さながらの形式をアイスショーの冒頭に持ってきたことに、羽生のショーに懸ける思いが伝わってきた。
この6分間練習では2020−2021、2021−2022シーズンのフリーで使用し北京五輪でも演じた『天と地と』の曲がバックグラウンドで流れていた。
ただ、試合のプログラムで使用していたものとは異なっていた。プログラムでの長さは4分ほど。6分間練習には長さが足りないため、新たに編集された曲であったからだ。
実は『天と地と』は3バージョン制作されていた
「彼からリクエストがありました。『天と地と』を使いたいけれど、6分間には足りない、でもリピートするのではなく原曲をいかした形にしてほしい、ということでした」
発想としては、曲をリピートして使用し、6分を埋める方法もあるだろう。その方が手っ取り早くもある。ただ、羽生はそれを望まなかった。矢野氏も同意見だった。
「使うのならリピートはしたくないと思いました。リピートには抵抗があります。それをするとどうしても曲を途中で終わらせる形になるので」
矢野氏は曲を「損なう」形を望まなかった。それは羽生も同様だっただろう。同時に、BGMですらおろそかにしないところに、細部まで大切にする羽生の姿勢が表れていた。
実際にショーで使用するまでに、複数のバージョンが作られたという。
「3つ作ったのかな。最初は実際にプログラムで使用している部分をいかしたバージョンでしたが、プログラムでは使っていない部分を交えて、だんだんプログラムで使った曲につなげていく方向になりました」
羽生自ら編集し、初披露した『SEIMEI』
6分間練習に続き、プログラムの序盤を飾ったのは『SEIMEI』。2018年平昌五輪での金メダルをはじめ、数々の名演技とともに世界最高得点などの記録も樹立した代表的なプログラムだ。
使用した曲は、厳密には初めて披露されるバージョンだった。
「(2020年の)四大陸選手権のときがもとになっています。そのときは4分8秒でしたが、そのバージョンから数秒縮めています」
その編集は羽生自ら行い、矢野氏に届けたものだった。
羽生のこだわり「僕が表現したいものだけ」
「つなぎの部分を少しカットしていました。『僕が表現したいものだけ、つなぎました』と言っていましたね。『SEIMEI』のいちばんいいところを見せたいという気持ちで編集したのだと思います」
『SEIMEI』は矢野氏が編集を手がけてきたプログラムだが、羽生によるバージョンをどう受け止めたか。
「そのまま受け取って使用しました。気になるところがあったら直そうかなと思っていましたが、全然なかったですね。スムーズにつながっていたし、そのまま使える状態でしたから」
すでに完成しているものをさらに向上させたいという意思、そして自身で形にする感覚と技術がある。そこに矢野氏は感慨を覚える。羽生が矢野氏に初めて編集作業を見せたのが2015年、この『SEIMEI』だったからだ。
「途中、静かなところでピアノと、龍笛が上に重なっている部分があるんですけれども、ピアノの最後の音から次につながる部分、ここの音の間隔がどうしても彼自身のテンポに合わないということで、彼が自分の心地よい形で作ってきました。ただ、つないだ部分で『プチっと音が入るのできれいにしてほしい』と依頼を受けました」
矢野氏が感じた、羽生の努力
矢野氏は受け取った曲をリクエストに応じて整えて返したが、のちに羽生と編集で大切なことについて話をしたという。
「波形の上がり下がりの途中でつなぐことで音が入るから、波形のプラスマイナスがゼロのところでなければいけないことなどを話しました。彼も細かいところまで勉強していったのだと思います。編集も本当にうまくなったなって感じます」
音楽、音へのこだわりあればこそ編集の力も伸び、それがちりばめられたアイスショーの実現につながった。音響を担当する者として、編集を手がけてきた立場として、順風満帆とはいかない中での尽力があった。《つづく》
文=松原孝臣
photograph by Asami Enomoto/JMPA