Number1065号(2022年12月22日発売)に掲載されたF1ドライバー、ランド・ノリスのインタビュー記事「笑顔を絶やさない天使が悪魔になる日」を特別に無料公開します。
レッドブルの強さばかりが際立った2022年。好敵手だったはずのフェラーリは作戦ミスやトラブルによって自ら後退し、マシンコンセプトに失敗したメルセデスの追い上げもレッドブルを脅かすことはなかった。抜本的な技術規則の変更は白紙の状態からのマシン設計を要求し、彼らトップ3チームの後方にさらに大きな差を生み出した。
結果、3チームの6人以外で表彰台に上ったドライバーはただひとり、マクラーレンのランド・ノリス。ドライバーズ選手権でも7位という結果は、Best of the restという表現に相応しい。チーム力やマシン性能に速さを左右されるF1において、手にしたマシンで最大限の力を尽くしたドライバーへの賞賛の意味を持つ表現だ。
フラストレーションを忘れて、全力で集中
ただし本人にとって、期待したようなシーズンでなかったことに変わりはない。
「フラストレーションがあるのはたしかだよ。僕だけじゃなくて、チーム全体がそうだ。ひとりひとり誰もが、今シーズンはもっとトップに近づきたいと思っていた。でも上手くいかなくて、僕らは去年と比べても少し後退した位置にいる。全員が少し、あるいはかなりのフラストレーションを抱えているかもしれない。でも、F1では起こり得ることだからね。あんなにタイトルを重ねてきたメルセデスだって勝利からずっと離れてしまった。こうした状況では、自分にできるベストを尽くすしかない。僕はそうやって戦ってきたし、チーム全員が同じようにベストを尽くしてきた。フラストレーションを忘れて全力で仕事に集中することが大切なんだ」
だから走行後の彼の言葉は常に、相対的なポジションよりも“やるべき仕事をきちんと行えたか。ベストを尽くせたか”という自分達への評価を中心としていた。
19歳でデビュー、みんなの弟分のような存在に
2019年、19歳という若さでマクラーレンという伝統のチームからデビューした。ホンダとのパートナーシップが失敗に終わった後、チームは回復期にあったと言っていい。若いノリスの純粋な速さは新鮮で、笑い上戸で無邪気なキャラクターも明るい空気をもたらした。当時、最年少だったドライバーはたちまちパドックの人気を得て、みんなの弟分のような存在になった。
ヨーロッパ社会の縮図のようなF1において、いわゆる“可愛いキャラ”が愛されることは珍しく、ドライバー本人もそう見られることは好まない。しかしノリスは、弟のように思われてハッピーだと言う。
「ただ速いドライバーだからというだけでなく、どんな人間か、という部分も含めて応援されるのは僕にとって大切なことなんだ。僕はみんなを楽しませるのが大好きだし、人間性を含めてみんなにサポートされるとしたら本当に嬉しい」
寿司を除けば、和牛、味噌スープが大好き!
昨今のブームよりずっと以前から日本人気が定着しているF1界では、生魚が苦手で寿司が食べられないことも格好のネタ。“子供扱い”の一因となった。
「魚が好きじゃないんだ」と言う。イギリス人なのに、フィッシュ&チップスは? と訊くと「いや、ちょっと違うけど……」と口ごもって「とくに生の魚が苦手なんだ」と言った後、必死で挽回に努めた。
「でも魚と寿司を除けば、和牛とか、味噌スープとか、ほとんどの日本食は大好き。それに日本には他にも好きなことがいっぱいあるから。今年は初めて東京に行ったんだけど、いろんなところを散歩して、すごく楽しかった。人がいっぱいいて、何もかもが面白くて、みんな親切だしね! 渋谷だけじゃなくて、東京のすべてが大好き。僕のお気に入りの街になった」
鈴鹿ではたくさんの熱狂的なファンに会えて最高。テディベアやブレスレットやチョコレートを受け取ったと嬉しそうな様子を見て、初めての表彰台を思い出した。
コロナ禍によって7月までレースができなかった2020年。異例の開幕戦オーストリアGPでコースインした瞬間、ドライバーたちはマシンを走らせる純粋な喜びを口にした。厳しい感染予防措置を採りながら、走れるだけで僕らは幸せだと言った。それでも、プロスポーツなのに無観客で行わざるを得ない切なさは、初めて3位入賞を果たしたノリスのこんな言葉に表れた。
「他のふたりは大丈夫だろうけど、僕にとってはこれが初めての表彰台なんだよ」
セレモニーは“表彰台”ですらなく、コース上で行われた。
「お客さんがいなくて、チームもガレージの外に出てはいけなくて、周りに誰もいなかった。すごく淋しかった」
青春の思い出から人影が消えてしまった。そんな影響を受けた世代なのだ。
憧れのアイドルは「バレンティーノ!」
イギリス西部のブリストルに生まれ、裕福な家庭で育った。3歳のときには乗馬を始めたが、幼なすぎて馬を制御できず、好きにはなれなかった。そこで父は小さなバイクを買ってくれた。
「家の庭で乗り始めて、大好きだったんだけどクラッシュしてから怖くて。結局、それで止めてしまったんだ」
ただ、その後もMotoGPを見るのは大好きだった。ノリスがバレンティーノ・ロッシの大ファンであることは知られているが、それは5〜6歳の頃の経験に由来する。いまも憧れのアイドルは「バレンティーノ!」ひとりだ。
父や兄と一緒にゴーカートのイギリス選手権を観に行ったのは6歳の時。観戦するだけで夢中になり、翌年には自宅の敷地内の舗装にコーンを並べ、小さなサーキットを作って走り始めた。真剣にF1を観るようになったのはその頃のことだ。
「ルイス(・ハミルトン)とフェルナンド(・アロンソ)がマクラーレンで戦っている時だった。インディアナポリスだとかシルバーストンのレースをよく覚えてるよ。だからF1を見始めた僕にとって、当時のボーダフォン・マクラーレン・メルセデスがベストチームだった」
そんな、幼い記憶のドライバーたちと、今は同じコース上で戦っている。
「時々、少し不思議な感じがする。でも、父の友達みたいには思わない。僕の友達だ。それにルイスやフェルナンドみたいなチャンピオンと一緒にレースができるなんて、最高にクールだ」
F1に到達するまで、悪い思い出はほとんどない。唯一、最悪だったのは「'13年終盤か'14年序盤に手首を骨折した時」と話しながら、それが右手首だったか左手首だったか思い出すのにも時間がかかった。
「どっちだっけ? カートではフロントブレーキのレバーが右側にあって、ギプスした手で操作しながらステアリングを支えるのが難しくて……だから右手だ!」
正確なドライビングと高い完走率。課題は…
'17年にはマクラーレンのジュニアドライバーとなり、ヨーロッパF3選手権でタイトルを獲得した。翌'18年にはリザーブドライバーを務めながらF2選手権でジョージ・ラッセルとタイトルを争った。そして'19年にはレギュラードライバーとしてF1デビュー。初めての予選でQ3に進出、2戦目でポイントを獲得するなど、純粋な速さで強い印象を残した。
ミスの少ない、正確なドライビングをするドライバーである。完走率も高い。マシンの特性も影響するが、これまで飾った6度の表彰台がイモラ、レッドブルリンク、モナコ、モンツァとクラシックコースである点にも、その特徴が表れている。課題があるとするならレースペース。予選の速さによって上位グリッドからスタートするせいでもあるが、レース中にポジションを上げてくることが少ない。
初優勝のチャンスも…悔しさが残った1-2フィニッシュ
また'22年には、マイアミやブラジルで“らしくない”接触事故も起こした。サーキット毎にパフォーマンスの波があるマシンで自らのレーススタイルを確立していくのは容易ではないが、若いノリスには進歩のマージンが大きな分野でもある。
'21年のイタリアGPでは、チームメイトのダニエル・リカルドが千載一遇のチャンスを活かして優勝を飾った。ノリスはレース後半を通してリカルドの真後ろを走り続けたが、チームは1-2位というポジションを確実にするため、ふたりが競い合うことを許さなかった。
マクラーレンにとって'12年以来の勝利、'10年以来の1-2位フィニッシュのチャンスは、ノリスにとって初優勝のチャンスでもあった。リカルドが最終ラップでファステストを記録した点を見れば、ペースをコントロールしていたのはリカルドのほうだったとも言えるが、ノリスに一抹の悔しさが残ったのも無理はない。
「F1での最高の思い出は、淋しかったけどやっぱり'20年オーストリアの3位。でもチームとして考えると'21年のイタリアGPがベストだった。チームは久しぶりの優勝、僕はキャリアベストの2位。フラストレーション? たしかに。でも、そんなふうにはあまり考えないんだ。チーム全員の喜びを思うと僕はすごく幸せだった。僕にとってはそれがプライオリティだから」
あくまで、天使のようなことを言う。こんなドライバーが優勝を飾ったら、パドックも少し違う素顔を見せるかもしれない。あるいは、ノリスの悪魔的な一面が見えるかもしれない。そんな日が楽しみ――近い将来、その日が訪れることは確実だ。
ランド・ノリスLANDO NORRIS
1999年11月13日、イギリス生まれ。2019年、19歳でマクラーレンからF1デビュー。入賞11回を記録し、ドライバーズランキング11位。'21年には3位3回、2位1回でドライバーズランキング6位に。'22年2月、マクラーレンと新たに4年契約(2025年末まで)を結んだ。
文=今宮雅子
photograph by Getty Images