プロ野球歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光さんが、74歳で死去した。当時のプレーぶりについて現地で観た著者がNumberWebに、その伝説的な打棒とデータを記す。

 左耳の後ろの位置でバットをピタッと構えると、あとは微動だにしない。「木鶏」とはこういうものかと思った刹那、バットは一閃し、すさまじい勢いの打球が大阪球場の右中間席に突き刺さった。

 1988年、筆者は40歳の門田博光の打席を見ることを1日の最重要案件にしていた。

 午後6時に北新地の前にあった勤務先の会社からタクシーに乗って御堂筋を南下し、難波の大阪球場に向かい6時半の試合開始に間に合うタイミングで門をくぐった。

 前売りチケットなど買ったことがない。当時の南海ホークスの試合は、知る限り一度も満員になったことがなく、バックネット裏の席も余裕で取ることができた。

 ネット裏には、難波の料亭の名前が入った割烹着姿の男性が店の売り物の鉄火巻きにかぶりつきながらビールを飲んでいたりした。ミナミの繁華街の綺麗どころが何人か距離を空けて座っているときもあった。某公共放送のアナウンサーもこの年、大阪球場に日参していて、“皆様の放送局”らしからぬヤジを飛ばしたりしていた。

30歳のアキレス腱断裂前までは俊足・鉄砲肩が売りだった

 門田博光は天理高校、クラレ岡山を経て1970年、ドラフト2位で南海ホークスに入団した。170cmと小柄で入団当初は俊足で守備範囲の広い外野手だった。

 特に鉄砲肩は目立っていて、野村克也監督は4月12日の開幕戦で2番右翼に抜擢した。

 この頃は広瀬叔功、島野育夫、樋口正蔵、柳田利夫などの外野手がいて、門田はレギュラーではなかったが、翌年には野村克也の前後を打って打点王を獲得するなど安定感のある中軸打者になる、1977年オフにプレイングマネージャーの野村克也がチームを追われてからは看板打者となった。

 しかし1979年2月、アキレス腱を断裂。シーズンをほぼ棒に振った。30歳にして大きな挫折だった。

 筆者はこの年、大阪球場の隣にある予備校に通う浪人生だったが、授業をさぼって大阪球場の二軍戦によく通っていた。一軍戦でさえも閑古鳥が鳴いている南海なので、二軍戦は全くのフリーパスだった。8月終わりのウエスタン・リーグの公式戦に、門田が代打で打席に立つと、その初球を無造作に振りぬいた。右寄りに守っていた遊撃手がジャンプした低い弾道の打球はぐんぐん高度を上げて、センターバックスクリーン横に落ちた。

 西鉄ライオンズの全盛期、中西太は投手がジャンプするような低い弾道のホームランを打ったとされる。それは「伝説の類」だと思っていたが――門田は本当にそういう打球を打ったのだ。

 門田は79年9月7日、平和台球場でのロッテ戦で代打で一軍に復帰している。メディアは「復帰は早すぎる」と書いたが、この年の南海では新井宏昌(.358/2位)、片平晋作(.329/5位)、カルロス・メイ(.307/11位)、河埜敬幸(.300/13位)と4人の3割打者が出ていた。忘れられては困る、と復帰を急いだのだろう。

大怪我前と復帰後の成績を比較すると興味深い

 大怪我から復帰して以降、門田は長距離打者に変貌した。その前後の成績を比較する。

<1970〜79年(10シーズン)>
1091試合3963打1151安181本664点
率.290長打率.485 OPS.839
<1980〜92年(13シーズン)>
1480試合4905打1415安386本1014点
率.288長打率.564 OPS.961

 復活後の門田は背番号を「27」から「44」、さらに「60」と変えている。1983年に「60」に変更したときには「60本塁打を目指す」といった。ビッグマウスではなく、本当にそれくらい打つのではないかという迫力があった。

 そして1979年以降、門田はほぼ指名打者一本になった。若い頃は守備でも魅せた外野手で、3回ベストナインになっているが、DHとしても4回選出されている。

 門田は30歳を超えるころからどっしりとした体形になっていった。当時は奈良市に住んでいて、ホームゲームでは(南海の選手だが)近鉄特急で通勤していた。筆者は近鉄難波駅の改札で何度も門田を見かけた。濃紺のスーツに身を包んだ門田は精悍で、黒光りする機関車のようだった。地下街をのっしのっしと歩いて大阪球場まで向かう門田の後をついていったこともある。

長嶋一茂が話題になる中で、門田vs秋山の本塁打王争いも

 冒頭の1988年に戻ろう。

 この年の南海は開幕から7連敗。「南海やっても勝てません」とスポーツ紙で揶揄されたが、40歳の門田博光はただ一人元気。5月22日の秋田での近鉄戦で2本塁打を打って、尊敬する長嶋茂雄の444本を抜く445本塁打を記録する。6月12日の新潟での近鉄戦で16号を打って史上9人目の450本塁打、8月19日東京ドームの日本ハム戦で両リーグ通じての30号一番乗り。さらに40歳としては王貞治に次ぐ2人目の30本塁打を記録した。

 この年、セ・リーグでは前年ドラフト1位でヤクルトに入った長嶋一茂がにぎやかな話題を振りまいていたが、渋い門田の話題がじわじわと全国区になっていった。

 チームは6、8、9月とAクラスに入る期間はあったが――優勝争いとは縁遠く、南海ファンの希望は門田のホームランだけになる。

 しかし本塁打のタイトル争いには手ごわいライバルがいた。西武の26歳、秋山幸二である。8月27日、平和台の日本ハム戦で秋山は2本塁打を放って32号。その時点で31本の門田を抜いた。

 その翌日。8月28日の朝刊で「南海身売り」のニュースが一斉に報じられた。これまでも身売りの話はたびたび出ていたから、ファンは「またデマやろ」と思いながらも、一抹の不安を抱くようになる。

35号を放った門田は「世界記録」と書き立てられた

 秋山のバットは32号を打ってから沈黙する。一方の門田は9月8日、大阪球場の近鉄戦で35、36号本塁打を打って秋山に4本差をつけた。門田の35号は前年、デトロイト・タイガースのダレル・エバンスが記録した40歳でのMLB記録である34本塁打を抜いた。メディアは「世界記録」と書き立てた。

 いよいよタイトルだと思った矢先の9月12日、南海ホークスの吉村茂夫社長がホークス譲渡の条件を身売り先に提示したことを一部報道陣に漏らす。これによって「身売り」が既定路線となった。9月21日、ダイエーへの身売りと福岡移転が正式に決まる。

 10月15日、大阪球場でのシーズン最終戦は、南海ホークス最後のホームゲームでもあった。

 32000人、超満員の観客の前で、南海は近鉄に6-4で勝った。門田は4番DHで1安打、現ソフトバンクホークス監督の藤本博史は8番三塁で2安打を放っている。筆者は三塁側内野席で南海ナインのプレーを見ていた。杉浦忠監督の「行ってまいります」の声が耳に残る。吉村社長には「お前もダイエーに買うてもらえー」というヤジが飛んだ。

44本塁打125打点の二冠王、MVPにも選出

 この年、門田は44本塁打125打点の二冠王、チームは5位だったもののMVPに選ばれた。

 南海最後の日の4日後には伝説の「10.19」、ロッテ対近鉄のダブルヘッダーが行われる。同時期に阪急ブレーブスのオリックスへの身売りも決まった。思えば何とあわただしい年だったか。そして元号も翌年、昭和から平成に変わるのだった。

 門田博光は福岡には行かなかった。「福岡は遠い」というセリフを残し、オリックスにトレードされる。不惑を過ぎて、家庭もあることから生活環境が変わるのを嫌ったのだろう。

 ブルーのユニフォームの門田も何試合か見たが、何か見捨てられたような気持ちがしたものである。しかし門田はオリックスでの2シーズンで33本、31本の本塁打を記録している。これも驚異的だ。1991年、43歳の門田は福岡ダイエーホークスに移籍し翌年、44歳でバットを擱いた。この年、オリックスではイチロー(当時、鈴木一朗)がデビューしている。

 通算567本塁打、1678打点は史上3位、4688塁打は史上4位である。

関西独立リーグの監督時代に見た“激しい闘争心”

 引退後はテレビやラジオで解説者を務める。甲高い特徴的な声だったが、解説する試合の多くは阪神戦。南海も阪急もすでになく、2004年シーズンをもって近鉄バファローズが消滅。昭和のパ・リーグを知る人物として寂しい思いをしたのではないか。

 2011年6月、関西独立リーグの球団、大阪ホークスドリームは総監督の門田博光が監督になって現場の采配をとると発表した。前監督が不祥事で辞任したためだ。大阪市住之江区の球場は20人ほどしかお客が入っていなかったが、門田は一塁側で選手に打撃を教えていた。びっくりするほど小さくて、身体もしなびていた。

 相手チームはマック鈴木率いる神戸サンズだったが、失策が多いお粗末な試合をしてホークスドリームは負けた。帰り際にロッカールームの横を通ると「こんな野球しかでけへんのやったら、やめてまえ!」という大きな声が聞こえた。門田の激しい闘争心を垣間見た気がした。

 何度かやり取りをしたことはあったが、一度じっくり話がしたかった。

 取材もそうだが、それ以上に――あれほど夢中になった1988年の個人的な思い出を話して、一ファンとしてお礼が言いたかった。

文=広尾晃

photograph by Sports Graphic Number