ワールドカップ(W杯)カタール大会で、メッシ率いるアルゼンチンが世界の頂点に立った。自国開催の1978年、マラドーナを擁した1986年に続く36年ぶり3度目の制覇で、過去5回優勝のブラジル、4回優勝のドイツとイタリアに次ぐ世界4番目のフットボール大国となった。
これだけでも十分にすごいが――南米では「アルゼンチンは、W杯でもっと優勝していておかしくない」という声が多いのをご存知だろうか。
マラドーナは先住民、メッシにはイタリアの系譜が
南米最南端に位置する逆三角形の国で、面積は日本の7倍以上あるが人口は3分の1強の約4700万人。人口密度は、日本の約23分の1しかない。
「パンパ」と呼ばれる大草原が広がり、牧畜が盛ん。しかし、近年は経済が低迷し、2022年のインフレ率は72%を超えた(このような苦しい状況に置かれているだけに、W杯優勝は国民を大いに勇気づけた)。
気候は、北部が亜熱帯、首都ブエノスアイレス周辺が温帯で、南部が寒帯。哀愁を帯びたタンゴのメロディーとキレのあるダンス、肉の塊を炭や薪で焼く豪快な肉料理「アサード」、そしてテクニカルだが激しいフットボールがこの国の代名詞だ。
人種は約85〜90%がイタリア系、スペイン系などの欧州系で、残りが先住民インディオとその混血。マラドーナの風貌には先住民インディオの血が色濃く表われており、メッシはイタリア系だ。日系人もいるが、総数は2万人余りで人口の0.5%程度でしかない(隣国ブラジルの日系人は約200万人で、人口の約1%)。
1863年にイングランドで統一ルールが制定されると、そのわずか4年後、ブエノスアイレスに南米最初のフットボールクラブが設立された。1891年には、5クラブによるリーグ戦が始まった。
戦争での中断期間に頭角を現したディ・ステファノ
1916年、アルゼンチンの独立宣言100周年を記念してウルグアイ、ブラジル、チリの代表チームを招待して国際トーナメントを開催し、これが南米選手権(1975年にコパ・アメリカと改称)へと発展した。当時の南米のフットボールは、アルゼンチンとウルグアイが双璧。ブラジルは三番手に過ぎなかった。
1930年にウルグアイで第1回W杯が開催され、アルゼンチンは決勝まで勝ち上がったが地元ウルグアイに2−4で敗れた。しかし、1934年のイタリア大会では1回戦で敗退。「W杯は欧州と南米の持ち回りで開催されるべきだ」と主張して1938年の大会を誘致したが、FIFAがフランスを開催国に選ぶと大会をボイコットした。こういうプライドの高さが、いかにもアルゼンチンらしい。
その後、1940年代には爆発的な攻撃力を発揮して「ラ・マキナ」(ザ・マシン)と呼ばれたリーベルプレートをベースとする代表チームが黄金時代を迎え、6度の南米選手権のうち4度制覇するなど圧倒的な強さを誇った。
ところが第二次世界大戦が勃発したため、FIFAは1942年と1946年のW杯を中止した。南米では、「もし1942年と1946年にW杯が開催されていたら、どちらもアルゼンチンが優勝していたのではないか」と言われている。
この頃に出現した世界的なスターが、アルフレッド・ディ・ステファノである。
圧倒的なスピードと華麗なテクニックでマーカーを翻弄し、味方選手に決定的なパスを送り届け、両足と頭で美しいゴールの山を築き、なおかつ守備面でもチームに貢献する完璧なプレーヤー。金髪を靡かせて疾走したことから「ラ・サエッタ・ルビア」(ブロンドの矢)と呼ばれた。
1945年からリーベルプレートで頭角を現わし、1949年からコロンビアの海賊リーグ(元のクラブに移籍金を払わず引き抜いたため、FIFAが公認しなかった)でプレーした後、1953年にスペインへ渡ってレアル・マドリーで中心選手として大活躍。1955年に創設されたヨーロピアン・カップ(現在の欧州チャンピオンズリーグの前身)で5連覇を遂げる立役者となった。
1945年に第二次世界大戦が終わり、1950年に隣国ブラジルで戦後初のW杯が開催された。しかし、アルゼンチンは大会をボイコット。その理由は明らかにされなかったが、ディ・ステファノら主力選手の多くがコロンビアの海賊リーグでプレーしていたためW杯に招集するのが困難だったこと、時の独裁者フアン・ペロンがアルゼンチンサッカー協会に「参加するのなら、絶対に優勝しろ。それが無理なら参加するな」と圧力を加えたことなどが考えられている。
“格下”だと見ていたブラジルに先を越されたが
ブラジルは、1950年大会の最終戦でウルグアイに逆転負けを喫して準優勝に終わった。しかし、1958年スウェーデン大会で17歳の天才少年ペレを擁して初優勝。一方、アルゼンチンはグループステージ(GS)敗退と明暗が分かれた。
続く1962年チリ大会でも、ブラジルは右ウイングのガリンシャの活躍で連覇を遂げたが、アルゼンチンはまたもやGSで敗退。長い間、“格下”とみなしていたブラジルに追い抜かれたのである。
その後は1966年大会でベスト8に食い込んだが、1970年大会では南米予選で敗れて出場を逃した(アルゼンチンが南米予選で敗退したのはこの大会だけ)。ブラジルがペレ、リベリーノ、トスタンらの活躍で3度目の優勝を飾ったのとは天地の開きがあった。
1974年大会も2次リーグで敗退したが、1978年大会の誘致に成功すると、時の軍事政権がセサール・ルイス・メノッティ監督に優勝を厳命する。2次リーグでブラジルと勝ち点で並んだが得失点差で上回って勝ち上がり、決勝でオランダを延長の末に倒して悲願の初優勝を遂げた。
マラドーナが伝説となり、堕ちた英雄となったW杯
続く1982年スペイン大会では、21歳の若きマラドーナが初出場。しかし、2次リーグのブラジル戦で相手選手を蹴って退場処分を受け、チームも敗れ去った。
それから4年後のメキシコ大会では、そのマラドーナが伝説となる。
準々決勝の相手は1982年にフォークランド紛争(アルゼンチン側の呼称ではマルビナス紛争)を戦ったイングランドだったが、マラドーナは敵のゴール前に上がったボールをイングランドのGKピーター・シルトンと競り合いながら、巧妙に左手の拳で叩いてゴールへ入れた。このトリックを主審が見破ることができず得点を認めてしまった。
いわゆる“神の手ゴール”が生まれた瞬間だった。さらに自陣から5人抜きのスーパーゴールを決めて2−1で撃破した。アルゼンチン国民は、前述のマルビナス紛争で無残な敗北を喫してプライドをズタズタにされた。その社会状況下にあってマラドーナは――憎きイングランドを狡猾な手口で出し抜き、なおかつ華麗なテクニックを見せつけて葬ったことで、スポーツの枠を超える国民的英雄となった。
マラドーナは準決勝ベルギー戦でも2得点を記録すると、決勝の西ドイツ戦でも決勝点をアシスト。円熟期を迎えて絶好調だったエースの獅子奮迅の活躍で、2度目の優勝を遂げた。
1990年イタリア大会でも、1984年からナポリの救世主となってセリエAのタイトルを二度手にしていたマラドーナが注目の的だった。故障のため体調不良だったが何とか勝ち進み、ナポリで行なわれた準決勝で地元イタリア相手にPK戦の末に勝利したものの、西ドイツ相手に0-1で4年前のリベンジを果たされ、連覇の夢はついえた。
名将ビエルサ、若きメッシをもってしても
これ以降、アルゼンチンはW杯の舞台で苦しむ。1994年大会では、マラドーナがGSナイジェリア戦の後のドーピング検査で陽性反応が出て大会から追放され、チームもラウンド16で消えた。1998年大会は準々決勝でオランダに78年決勝の雪辱を果たされ、2002年大会はマルセロ・ビエルサ監督のもとで優勝候補と目されながらGSで敗退した。
そしてメッシにとってW杯デビューとなった2006年大会は準々決勝で敗れ去り、マラドーナが監督を務めた2010年大会は準々決勝でドイツに0−4の大敗を喫した。
2014年のブラジル大会ではメッシが4得点をあげる活躍を演じて決勝まで勝ち上がったが、ドイツに延長で敗れた。2018年ロシア大会はラウンド16でフランス(この大会で優勝)と壮絶な撃ち合いを演じた末、3−4で敗れた。
しかし2022年カタール大会では自身5度目の出場で「今度こそは」と闘志をむき出しにしてにしてプレーし、「マラドーナが乗り移った」とまで言われたメッシの獅子奮迅の活躍で世界の頂点に立った。
ブラジルのドリブラーと天才2人の“違い”とは
マラドーナとメッシに共通するのは、いずれも小柄だが完璧なテクニックでボールを自在に操り、まるでピッチの上から俯瞰しているように的確に状況を判断する。そしてボールが足に吸いついて離れない圧巻のドリブルと精緻なパスで敵の守備陣を崩し、硬軟織り交ぜたシュートを決め切ること。
ドリブルに関して言えば、ブラジル人選手の多くが上半身を揺すってマーカーを幻惑して逆を取ろうとするのに対し、アルゼンチン人選手は細かいタッチでボールのコースを小刻みに変えながらマーカーの重心の反対側を突いて抜き去ることが多い。
アルゼンチンのブラジルとの通算対戦成績は、109回対戦して40勝26分43敗(得点162、失点166)とほぼ互角だ。
W杯の優勝回数はアルゼンチンが3でブラジルが5だが、準優勝はアルゼンチンが3回でブラジルが2回。1938年、1950年、1954年の3度のボイコットと1940年代の戦争による2度の中止がなければ、ブラジルと同数かそれ以上に優勝していてもおかしくない。
コパ・アメリカの優勝回数は、アルゼンチンとウルグアイが15回ずつで、ブラジルの9回に大きく水をあけている(ブラジルの優勝回数が少ない理由の1つは、自国開催の大会以外ではベストメンバーを招集しないことが多いため)。
また、クラブ南米王者を争うコパ・リベルタドーレスの国別優勝回数は、アルゼンチンが25でブラジルの22を上回る。
ブラジルから見た「宿敵アルゼンチン観」とは
この隣国の強さを、ブラジル人は熟知している。W杯カタール大会前、ブラジルのメディアと国民は優勝争いの最大のライバルをアルゼンチンとみなして警戒していた。両国が順当に勝ち進めば準決勝で激突するはずだったが、ブラジルが準々決勝でクロアチアに延長、PK戦の末に敗退したため、対決は実現しなかった。
アルゼンチンにとっての最大の仇敵はマルビナス紛争で敗れたイングランドで、他にもブラジル、ウルグアイ、隣国チリと多くのライバルがいる。一方、ブラジルにとってはほぼ唯一の宿敵がアルゼンチンだ(かつてはウルグアイも手強いライバルだったが、近年は実力差が広がった)。
そんなブラジル人ですら、W杯カタール大会でのメッシの奮闘には強い感銘を受け、決勝ではアルゼンチンを応援する人が多かった。そして、フットボールに関しては極めて熱狂的な彼らが、W杯優勝後のアルゼンチン人たちの途方もない狂喜乱舞に驚いていた。
ペレ、ガリンシャ、ジーコ、ロマーリオ、ロナウド、ロナウジーニョらを生んだブラジルに対し、ディ・ステファノ、マラドーナ、バティストゥータ、メッシらを育んだアルゼンチン。「フットボール王国」ブラジルが最も警戒する隣国が、世界の盟主を目指して力強い進撃を始めた。
文=沢田啓明
photograph by Kaoru Watanabe/JMPA,Getty Images