3月2日に行われたA級順位戦の最終戦で、トップの広瀬章人八段(36)と藤井聡太五冠(20=竜王・王位・叡王・王将・棋聖)がともに勝って7勝2敗とし、両者のプレーオフで渡辺明名人(38=棋王と合わせて二冠)への挑戦権が争われた。藤井五冠と同じくA級1期目でプレーオフに進出した、40年前の谷川浩司十七世名人と29年前の羽生善治九段の当時の状況、そして、8日に行われた広瀬−藤井のプレーオフの将棋と結果を、田丸昇九段が解説する。【棋士の肩書は当時】

谷川浩司20歳が挑んだのは中原誠35歳だった

 A級順位戦の最終戦で、広瀬八段は菅井竜也八段が得意とする振り飛車を破って勝ち、藤井五冠も武器とする角換わり腰掛け銀を用いて稲葉陽八段に勝った。その結果、広瀬と藤井は7勝2敗で並び、両者のプレーオフは3月8日に東京の将棋会館で行われた。どちらが勝っても、名人戦で初挑戦となる構図となった。

 過去50年のA級順位戦で最終戦の結果によって、2者によるプレーオフが行われたのは7例ある。そのうち、同じ「中学生棋士」として藤井五冠の大先輩で、A級1期目で名人戦の挑戦者になった、谷川十七世名人と羽生九段の当時の思いや状況をまず紹介しよう。タイトル数や年齢などで違いはあるが、現代の藤井と比較してもらえれば幸いである。

 1983年のA級順位戦の最終戦で、中原誠十段(当時35)とA級1期目の谷川八段(同20)がともに勝って7勝2敗で並んだ。その結果、両者のプレーオフは3月24日に東京の将棋会館で行われた。

 中原は1982年に9連覇していた名人位を失い、一時的スランプに陥った。その後、十段戦(竜王戦の前身棋戦)と棋聖戦でタイトルを再獲得し、1983年3月にはすっかり復調していた。一方の谷川も各棋戦で活躍していたが、十段戦リーグと王将戦リーグで陥落するなど、タイトル戦になかなか登場できず、A級順位戦にだけ白星が集まっていた。

谷川が「棋士になって初めて震えを経験した」瞬間

 1982年度の両者の対戦成績は中原の5勝1敗。プレーオフで中原の勝ちを予想する声が多かった。谷川は上京する前日、滝川高校(兵庫県神戸市)の先生や同級生から激励を受け、取材に来ていたテレビ局の求めに応じて村田英雄の大ヒット曲『王将』を歌った。大師匠に当たる伝説の棋士・阪田三吉の人生をテーマにしたもので、「明日は東京で勝たねばならない」という意味の歌詞は、谷川の決意でもあった。

 中原−谷川のプレーオフの対局の戦型は、当時の定番だった相矢倉。先手番の谷川が先攻して有利になったが、中原に盛り返されて形勢は混沌とした。谷川は「負けにしたか」と思った状況もあったそうだが、中原のミスによって何とか勝った。

 谷川は後に自戦記で、《対局中、私は棋士になって初めて震えを経験した》と書いた。1983年の名人戦で、谷川八段はタイトル戦に初登場する。そして、加藤一二三名人(同43)を4勝2敗で破り、21歳2カ月の最年少記録で名人位を獲得した。

谷川−羽生のプレーオフで起きた予想外の事態

 その11年後、1994年A級順位戦の最終戦で、6勝2敗の谷川王将とA級1期目で7勝1敗の羽生棋聖(同23=王位・王座・棋王を合わせて四冠)が対戦した。羽生が勝てば名人戦の挑戦者になる。その将棋の終盤では、谷川が相手玉の7手詰めを見落として混戦になったが、羽生にも失着が出て谷川が勝った。

 その結果、谷川と羽生が7勝2敗で並んだ。両者のプレーオフは3月18日に大阪の関西将棋会館で行われた。

 羽生は後に自戦記で、《名人戦の挑戦者になるのは、そんなに簡単ではないという意識があった。だからA級最終戦で敗れても、それほど残念ではなかった。プレーオフを戦うのも、貴重な経験であるという心境だった。プレーオフの前後は、風邪をひいて最悪の体調だったが、逆に気持ちは充実していた》と書いた。

 プレーオフの対局開始時に予想外のことがあった。和服を着用して対局室に先に入った羽生が、上座(床の間に近い方)に座ったのだ。

「上座での対局姿は颯爽としていた」

 タイトル保持者同士の対局では、先輩の棋士が上座に座るのが通例である。しかもA級の順位では、4位の谷川が9位の羽生より上位だ。谷川が上座に座るのが常識といえる。羽生は上座の通例を知らなかったのか、それとも四冠の肩書がそうさせたのか……。真相は不明だった。谷川が異議を唱えなかったので、対局はそのまま開始された。

 その場面を撮影したカメラマンは「羽生さんの上座での対局姿は颯爽としていて、とても様になっていた」と語った。また、ある観戦記者は「羽生は単なる優等生ではない。怪物が正体を現わしつつある」と評した。

 谷川−羽生のプレーオフの対局は、角換わり棒銀の戦型になった。中盤の勝負所で谷川が指した疑問手が響き、羽生が完勝する結果となった。対局開始時、羽生の無言の迫力によって、勝負はそこですでについていた――という声もあった。

 1994年の名人戦で、羽生棋聖は初挑戦した。そして、米長邦雄名人(同50)を4勝2敗で破った。名人位を初めて獲得するとともに、五冠のタイトルを取得した。

藤井は広瀬の攻めを冷静に受け止めて…

 最後に――8日に行われたプレーオフについて振り返る。

 広瀬八段と藤井五冠の対戦成績は、今期のプレーオフを迎えた時点で藤井の10勝3敗。藤井はそのうち先手番で8勝し、広瀬も先手番で2勝している。プレーオフでどちらが先手番になるかは、両者にとってかなり大きい。

 藤井竜王に広瀬八段が挑戦した昨年の竜王戦七番勝負は、藤井が4勝2敗で初防衛を果たした。しかし、第1局で先手番の広瀬が勝ったように、一番勝負のプレーオフではどう決着するかは分からない。なお、両者の対局の戦型は13局のうち、角換わりが6局、相掛かりが5局だった。

 3月5日に行われた棋王戦(渡辺棋王ー藤井五冠)第3局で、藤井は激闘の終盤で相手玉の詰みを逃して敗れ、戦績は2勝1敗となり、棋王の獲得と「六冠」の取得は持ち越された。また、藤井の先手番での勝利は28連勝で止まっている(未放映のテレビ対局を除く)。

 それから3日後の3月8日、広瀬八段と藤井五冠のA級プレーオフが行われた。振り駒によって、藤井の先手番と決まった。前局の棋王戦で敗れたとはいえ、これはやはり大きい。

 藤井は武器とする角換わり腰掛け銀の戦型に持ち込み、▲4五桂と銀取りに跳ねて開戦した。深い研究に裏付けされた必勝パターンである。さらに▲7五歩と突いて桂頭を攻めると、広瀬は△5二角と自陣に打って防戦した。

 藤井の激しい攻め、広瀬の懸命な受けと、中盤は対照的な展開となり、藤井ペースで進んだ。その後、広瀬は機を見て反撃に転じ、藤井の玉を攻め立てた。広瀬が受け一方の5筋の自陣の角を△2五角と中段に出し、△5八角成と金取りに敵陣に侵入した局面は、形勢がかなりもつれたように思えた。

 しかし、藤井は広瀬の攻めを冷静に受け止めると、最後は相手玉を即詰みに仕留めて勝った。藤井五冠はプレーオフで広瀬八段に勝ち、20歳8カ月で名人戦の挑戦者になった。1960年に加藤一二三・八段が打ち立てた20歳3カ月に次ぐ年少記録である。

「対局を通して力をつけることができ、成長できた」

 藤井は終局後の記者会見で、「これまでの6期の順位戦を振り返ると、6時間という長い持ち時間の対局を通して力をつけることができ、成長できたと思います。今期のA級は全体的に厳しい戦いでした。その中で名人戦の挑戦という結果を出せたのは充実感があります。名人戦は大きな舞台なので、それにふさわしい将棋を指せるように頑張りたいです」と語った。

 渡辺名人に藤井五冠が挑戦する今年の名人戦七番勝負は、4月5日、6日に東京・目白「ホテル椿山荘東京」で行われる第1局を皮切りに、全国各地の対局場を転戦する。

文=田丸昇

photograph by Kyodo News