5月24日、ホンダが「2026年からF1世界選手権に参戦し、アストンマーティンと新レギュレーションに基づくパワーユニット(PU)を供給するワークス契約を結ぶことで合意した」と発表した。
その発表会場となった東京・青山のホンダの本社を、特別な思いで訪れていたのが、アストンマーティン・パフォーマンス・テクノロジーズでグループ・チーフ・エグゼクティブ・オフィサーを務めるマーティン・ウィットマーシュだ。
ウィットマーシュは10年前の2013年5月にもマクラーレンのチーム代表としてここを訪れ、2015年からF1に復帰するホンダとPU供給の独占契約を結んだ人物だ。
その決定に驚いた者は少なくなかった。なぜなら、当時マクラーレンが搭載していたエンジンはメルセデス製で、彼らはメルセデスとともに何度もタイトルを手にしていたからだ。
だが、ウィットマーシュはホンダを選んだ。目先の成功ではなく、長期的な戦略に立って、大きな成功を狙っていたのだ。
ホンダとともに戦えなかった悔恨
マクラーレンが1995年以来メルセデス製のエンジンを搭載して成功を収めてきた一因に、ワークス体制でエンジン供給を受けたことが挙げられる。しかし、その関係性は2010年に変化を迎える。同年からメルセデスが自チームを立ち上げ、マクラーレンはカスタマー仕様のエンジンで戦うことになったのだ。
モータースポーツで成功を収めるには、車体に合わせて設計されたエンジンが不可欠だ。カスタマー仕様のエンジンを搭載するようになったマクラーレンは徐々に戦闘力が低下し、2013年は1980年以来33年ぶりに表彰台にも上がれない厳しいシーズンを過ごした。さらにF1は2014年からエンジンに代わって、PUと呼ばれるハイブリッドの動力が導入される。
低迷から脱出するだけでなく、再びタイトル獲得を目指すためには、カスタマーではなく、ワークス体制でPUの供給を受ける必要があった。そのためにウィットマーシュは、多少の痛みを受け入れる覚悟をしていた。
しかし2014年、マクラーレンのチーム代表に創始者であるロン・デニスが復帰。ウィットマーシュはマクラーレン・ホンダとしてF1に参戦する前にチームを去ることとなった。
じつはデニスは、マクラーレンがホンダと組むことに最後まで反対していた人物だった。ウィットマーシュが去った後、ホンダがマクラーレンとの関係をうまく構築できなかったのは、PUのパフォーマンスだけが要因ではなかったことは、このことからも容易に想像がつく。
マクラーレンとホンダの関係はわずか3年、2017年限りで終了。それを最も悔しがったのはウィットマーシュだった。
「この世界でパフォーマンスを上げていくには1〜2年はかかる。しかし、ロンは性急に成果を求めすぎた。組織のマネージメントというのは人をいかに動かすかが大事だが、ロンは尻を叩いて無理やり動かそうとしていた。そんな状況では、ホンダの力を引き出せるわけがなかった」
信じるに値するホンダの「レース文化」
ホンダ・エンジンとともに黄金時代を築いた1989年からマクラーレンで仕事をしていたウィットマーシュは、ホンダの企業哲学、そして日本人の性格を熟知していた。
「ホンダには独特の文化があった。フェラーリを除けば、他のどの自動車メーカーよりもレース文化が根付いていた。当時はホンダ(本田宗一郎)さんがご存命だったことも大きかったと思う。その後も彼らはそのレース文化を大切にしてきた」
2014年にマクラーレンを離れ、2021年にアストンマーティンでF1に復帰してからも、ウィットマーシュのホンダへの眼差しは変わらなかった。今シーズンここまで好調なアストンマーティンだが、搭載しているのはメルセデスのカスタマー仕様のPU。王者であるレッドブルを倒すには、ワークスのPUが必要だった。その思いが、いま結実した。
2013年以来10年ぶりに、同じ場所で記者会見に臨んだウィットマーシュは、こう語った。
「10年前私はホンダと契約を結んだ当事者です。しかし、残念ながら私はホンダがマクラーレンとともにF1に復帰したときにはチームにはいませんでした。マクラーレンを離れてからも、私はまたぜひホンダとやりたいと思い、この数カ月間奔走しました。それだけに東京を再び訪れ、こうしてホンダとともに発表会を行うことができて本当に光栄です」
ウィットマーシュの期待に応えられるか。ホンダに課せられたプレッシャーは、10年前よりも重い。
文=尾張正博
photograph by HONDA