予言タコのパウルくんにはじまって、世界的なスポーツの大会となると、勝敗を予言する動物が現れる。昨年末のカタールW杯ではパンダが、先のWBCでは、那須どうぶつ王国のインコが勝敗予想をして、それがニュースに取り上げられていた。別にケチをつけるつもりはないが、どうでもいいサイドストーリーである。もちろん、予言する(というかさせられる)動物たちが悪いわけではなく、大会が盛り上がると何でもかんでもネタにしようとするメディアの業がなかなか深い、ということなのだろう。
そして、今回も動物の予想ではないけれど、まったく似たようなことをしようとしている。やってきたのは、九州は福岡県福岡市東区。博多駅から地下鉄、そして西鉄貝塚線と乗り継いで、三苫駅にやってきた。そう、あのサッカーの三笘薫選手と同じ“みとま”という名の駅だ。「なんだか、一部では聖地みたいになっているらしいですよ」などと編集氏が言うものだから、いったいどんなところなのか見に来たのだ。三笘選手ご本人とは、それこそ1mmの関わりもない、邪念に満ちたサイドストーリーである。
ちなみに、三笘選手はたけかんむりの“笘”、三苫駅はくさかんむりの“苫”。この違いがあることを最初に明確にしておいて、三苫駅に何があるのか、歩いてみることにしよう。
三苫駅には何がある?
三苫駅があるのは、先にも書いたとおり西鉄貝塚線である。西鉄というと、古き野球ファンは西鉄ライオンズを思い出すかもしれないが、それはあまりに古すぎる。むしろ福岡最大の繁華街である天神をターミナルとして、久留米、大牟田方面に延びる西鉄天神大牟田線や、福岡市内を中心に九州各地で活躍する西鉄バスの存在で名を知られる。貝塚線はそうした西鉄のネットワークのひとつで、貝塚駅から西鉄新宮駅までを結んでいる。
三苫駅はその途中、海の中道という玄界灘に突き出た細長い砂嘴の付け根に位置する。貝塚駅からはおよそ20分、JR鹿児島本線と近接し、松本清張の『点と線』にも登場する西鉄香椎駅からは10分ちょっとの場所だ。乗り換えは必要だが、博多駅からも40分ほどで到着する。つまりは、福岡市街のベッドタウンというわけだ。
実際、駅を出ると目の前の大きなロータリーの先には、戦後の高度経済成長期以降に整備されたのであろう住宅地が広がっている。戸建て住宅が建ち並び、油断をするとすぐに道に迷ってしまいそうな、そういう住宅地の玄関口が三苫駅なのである。
ちなみに、西鉄貝塚線はこの三苫に限らず、沿線はほとんどが住宅地だ。西鉄香椎駅の周囲にはタワーマンションも建ち並ぶ。そうした事情がゆえか、首都圏や京阪神の通勤客が激減したコロナ禍では、西鉄貝塚線は国内で2番目に混んでいる鉄道路線になっていた(ちなみに1位は東京の日暮里・舎人ライナー)。福岡では欠くことのできない通勤路線なのだ。
そして三苫駅の駅前に広がる住宅地も、西鉄貝塚線にお客を供給しているということになる。ところどころに大きな池や公園はあるが、やはり住宅地。地名でいうなら「美和台」らしい。散歩しているお年寄りがいれば、ベビーカーを押して歩く若いお母さん。こちらは余所からやってきた完全なる外来種なので、いつまでもうろうろしていたら不審者として通報されても文句の言えない空間である。
“もうひとつの”三苫の町があった
そういうわけで、三苫駅前の美和台歩きはほどほどにして、駅前に戻る。いまさらながら、美和台の新興住宅地は三苫駅の東側。ホームは駅前から階段を降りた先にある。そして駅の西側にはホームと同じ水準の出入り口が設けられている。つまりどういうことかというと、美和台の住宅地は高台の上にあって、その崖下の際に線路が敷かれてホームがあり、さらに西側の低地にももうひとつの三苫の町が広がっているのだ。
ここで古い地図を見る。すると、戦後の1970年前後まで、三苫駅の周囲に見られる集落は駅の西側、つまり低地側にごくわずかにある程度だったということがわかった。逆にいまは住宅地になっている高台側は、ほとんどが何もないただの丘陵地。当たり前といえば当たり前だが、美和台の住宅地は1970年前後に丘陵地を切り開いて設けられたものだった。三苫という町のそもそものはじまりは、三苫駅より西側の、玄界灘に近い海沿いの小集落にあった。
三苫駅の西側を歩く。駅前から小さな路地を抜けると福岡県道538号線という大通りに出る。クルマ通りはそこそこで、この大通り沿いにコンビニやらファミレスやらのチェーン店の類いがぽつんぽつんと点在している。どこも、「三苫店」と名乗っている。この大通り沿いにある小学校の名も、もちろん三苫小学校。だからどうしたという話であって、ここは三苫の町なのだからあたりまえだ。そして三笘選手とは、これまたもちろん何の関係もない。
そこには“思いがけない絶景”があった
大通りを渡ると、そこはさらに路地が入り組んだゾーン。古い地図と照らし合わせれば、このあたりが昔からの三苫の集落なのだろう。ここから駅に離れる方向に歩けば、海がある。海に向かってはなだらかな上り坂。砂浜があるような海沿いは、波で運ばれた砂が堆積して砂丘を作る。もしかしたら、三苫の町の海に向かっての上り坂は、そうした砂丘を登っているのかもしれない。
などと考えながら少し歩くと、松の木が生い茂る場所に出た。海沿いが公園か何かになって整備されているようだ。地元の小学生たちが植林をしたという記念碑もあった。この松林を抜けると、眼下に砂浜が広がる崖上に出た。目の前の海はもちろん玄界灘だ。正面には相島が浮かぶ。目線を西に向けると見える島は、眼下の砂浜から陸続きの島・志賀島。かの「漢委奴国王」の金印が発掘されたことで、教科書にも載っている島だ。
高い崖上から見下ろす明媚な海岸線と玄界灘は、なかなかに息を呑むほど美しい。崖下は海水浴場にもなっていて、地元の人たちはここで夏の楽しみを得るのだろう。いやはや、三苫という町、かなり強引な理由でやってきて、特にあてもなかったが、これだけの絶景を見られるならば来た甲斐があるというものだ。
最後に…なぜ“三苫”という名前になったのか?
海沿いの松林の外れには、綿津見神社という立派なお社もあった。三苫の町は、この神社の門前町のようにして生まれたのがはじまりなのだろう。さらにもう少し歴史を調べてみると、もともとこのあたりは香椎宮の神領だったという。もはや神話の世界の話だが、神功皇后西進の折に対馬沖で暴風雨に遭った。荒れる海が静まるように、苫を海に投じて漂着した場所に社を建ててお祀りすることを誓ったのだとか。その苫が三枚流れ着いた地が、いまの三苫の海岸だったというわけだ。
このあたりはさすがに事実かどうかはわからない言い伝えだが、実際にいまの美和台の住宅地のあたりには縄文時代から弥生時代にかけての集落の遺跡や、古墳時代の墳墓の遺跡があった。玄界灘の先には朝鮮半島もあり、大陸への距離の近さから古くからこのあたりで暮らしていた人がいたことは想像に難くない。美和台一帯は古くは高台集落で、海沿いにも三苫の集落が築かれた。香椎宮の宮司家の名字は三苫という。三苫一帯を領有していたことが、その名のはじまりなのかもしれない。などといっても、もちろん三笘選手とは関わりのないお話である。
こうして三苫駅の周辺を、たっぷり休憩しながらおおよそ2時間ほど歩いた。駅のすぐ北側には、福岡市と新宮町の境界がある。つまり、三苫の町は福岡市のいちばん北のはじっこでもある。もちろん、2時間歩いたところで三笘選手に関係する何かはまったく見当たらなかった。なお、駅にも三笘選手のファンらしき人は、ひとりとて居なかったことをお伝えしておきます。
文=鼠入昌史
photograph by Getty Images/Masashi Soiri