現在発売中のNumber1079号掲載の[四大大会初優勝]加藤未唯「天国と地獄で見えたもの」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文はNumberPREMIERにてお読みいただけます】
禍福はあざなえる縄の如しとはこのことか。6月の全仏で、加藤未唯は危険行為により女子ダブルスを失格。だがその数日後、ミックス(混合)ダブルスで自身初の四大大会タイトルをつかむ。天国と地獄を同じ大会で味わったのだ。事の次第はご存じだろう。加藤が故意にボールガールに球を当てたのではないのは明白だが、騒動になり、本人の動揺は大きかった。
「怖かったです。だれもこっちに来ないで、って思ってました。『最低だね』とか『テニスする資格ないよ』と言われる覚悟もちょっとできていて、言われてもしょうがないかなとは思っていましたが、選手に批判されて、自分の居場所がなくなったら、テニスどころじゃない。そんなんに立ち向かえるほど私、強くないなと思ったので、キャリア終わっちゃうんじゃない? と」
その日の夕食はフルーツを3口だけ。喉が詰まったようになって、固形物が飲み込めなかった。ところが、思いがけず、選手、関係者のほぼ全員が擁護してくれた。
「仲のいい選手からはメッセージが来たり、直接声を掛けてもらったんですけど、挨拶くらいしかしたことない選手がメッセージをくれたり、『私は味方だし、前を向いてよ』とみんなに応援されたのは励みになりました。このまま終わっちゃ駄目だなと思えたので、すごくありがたかったです」
「つらすぎたら、ミックスダブルスはしなくてもいいよ」
幸い混合ダブルスは競技続行を認められた。ただ、試合をするだけのエネルギーは湧いてこない。夢遊病者のようにコートに向かったが、パートナーのティム・プッツの顔を見て、切り替わった。
「もし、つらすぎたら、ミックスダブルスはしなくてもいいよ、って言ってくれて、逆に『これ、ちゃんとせなあかんな』と思って。うれしい言葉なんですけど、こんなこと言わせちゃうほど私、雰囲気悪かったんかなと思ったので、これはやらないと、っていうのが芽生えました」
失格処分の翌日に行われた準々決勝こそ普段通りのプレーは難しかったが、勝ち上がるにつれて動きがよくなり、笑顔も増えた。準決勝進出を決めると、一つ目標ができたという。ボールガールへの謝罪はもちろん、女子ダブルスでペアを組むアルディラ・スーチャディや彼女のチームと家族、プッツや小原龍二コーチ、励ましてくれた選手、関係者に感謝を伝え、ランキングポイントや賞金の没収についての自分の思いを述べておきたい、と。
「思いを主張できる場が(表彰式の)スピーチだと思ったので、その場所には行かないと、この大会から引けないなって。何とか、っていう思いでやっていました」
重圧や欲がなく、のびのび戦ったことも幸いし、加藤ペアに勝利の女神が微笑んだ。
「勝ってようやく何かが切れて、ようやく笑顔になれた。グランドスラムチャンピオンとか世界一とかっていうのは感じてなかったです。最後までできて、ほっとした」
うれしい、安心した、やり切ったと感情が交錯したが、一番強かったのは、ようやく呪縛から解放されたという思いだった。
パートナーは「本当にこの人だったかな? と」
失意の底から救い出してくれた混合ダブルスだったが、最初は女子ダブルスにつながればと、軽い気持ちで出場を決めた。パートナーのプッツとは面識がなく、会場で出場申し込みのサインアップを行うときに初めて言葉を交わしたという。
「私は違う人と組む予定で、彼も違う人と組む予定で、別々にサインしようとしたら、(ダブルスランキングを合計した数字が少ないペアから出場権を得るため)二人とも出れないことが分かった。ティムが話しかけてきて、23位っていうから、あ、出れる! ってなって二人でサインしたんです。それが(締め切り)2分前でした。そのあとに自己紹介して連絡先を交換して。その時しか会ってないので、当日会ってもわからない。本当にこの人だったかな? と。SNSのプロフィールを見ながらコーチに『この人、あの人だと思います?』って言うと、コーチも『似てる似てる!』。声を掛けたら、向こうも『ハーイ!』って。それで試合に入りました」
偶然の出会いにも恵まれたが、もちろん、運だけでたどり着いた優勝ではない。
文=秋山英宏
photograph by Takuya Sugiyama