2023年の期間内(対象:2023年5月〜2023年9月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。野球インタビュー部門の第5位は、こちら!(初公開日 2023年8月5日/肩書などはすべて当時)。

 人は誰しも果たすべき役割がある――。現役時代は張本勲、村田兆治、落合博満、コーチ時代はボビー・バレンタイン、伊原春樹、森友哉という個性の強い野球人たちと接してきた袴田英利は、自らの役目をどう悟ったのか。重低音のある声でNumber Webに激白した。(全5回の5回目/#1、#2、#3、#4へ)※敬称略。名前や肩書きなどは当時

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 別れは突然だった。2012年10月6日、ロッテは2年ぶりのファーム日本一に輝いた。その2日後、宮崎のフェニックス・リーグが開幕。一軍の正捕手には里崎智也が座っていたが、来季は37歳を迎える。二軍バッテリーコーチの袴田にとって、次世代のキャッチャー育成は最優先すべき課題だった。

突然の解雇「予感は全然なかったです…」

 1週間後、予期せぬ事態が起こる。球団社長と部長が宿泊先のホテルを訪れて突然、解雇を言い渡された。現役引退後すぐコーチに就任した袴田にとって、57歳で初めての戦力外通告に等しかった。

「予感は全然なかったです。その時の心境は……よく覚えてないんですよね」

 ロッテは2年連続Bクラスに終わった西村徳文監督から伊東勤監督への交代に伴い、首脳陣の大幅な入れ替えを敢行した。二軍では袴田のほかにも金森栄治、上川誠二、山森雅文、成本年秀がクビを切られた。

「突然の通告でしたけど、プロの世界なので割り切らなきゃいけない。『明日帰ります』と言ったんですけど、『他のコーチが来るまでいてくれ』と頼まれました。結局、残留するコーチがすぐ宮崎入りしたので、2日後には帰れましたけどね」

 来季のために遠征した宮崎で解雇を告げられる。理不尽という言葉が頭をよぎってもおかしくない。しかし、袴田は決して口には出さなかった。初めてユニフォームを脱いだ2013年、全国の離島に住む中学生が一堂に会して戦う『離島甲子園』にも参加した。村田兆治が提唱し、ライフワークとしていた大会だった。

西武コーチへ…森友哉との出会い

 その秋、奇しくも伊東勤の古巣・西武から声を掛けられた。

「兆治さんの野球教室で長野にいた時、フロントから『面談したい』と電話が掛かって来ました。10月頃でしたね。当時、法政の1つ後輩の居郷(肇)が球団社長だったんですよ。たぶん、彼が呼んでくれたのだと思います」

 渡辺久信監督に代わって、かつての名三塁コーチャーであり、2002年に指揮官としてチームを優勝に導いた伊原春樹が西武の監督に復帰した。袴田はチーフ兼バッテリーコーチに就任。そして同年秋のドラフト会議で西武が1位指名したのが、前年に大阪桐蔭で甲子園春夏連覇を遂げた森友哉だった。

「バッティングはすぐに一軍で使える素材でした。ただ、守りのレベルはまだまだだったので、伊原さんが『ファームで1年間勉強させよう』と決めました」

 伊原監督は茶髪、ひげを禁止し、ユニホームのズボン裾の長さまで指定した。だが、昭和の管理野球を彷彿させる規制は時代に合わなかった。開幕3連敗でスタートした西武は最下位に低迷。6月4日に伊原監督の無期限休養が発表され、打撃コーチの田邊徳雄が監督代行を務めた。この時、チーフコーチの袴田が監督に昇格してもおかしくなかった。

「いや、そんな器じゃないですよ。体制が変わったので、オールスター後に友哉を一軍に上げました」

森友哉に激怒した日

 “大型捕手”として期待された森は7月30日のオリックス戦でプロ初打席初安打を放つと、2日後には「7番・捕手」で先発出場。8月には江島巧以来となる46年ぶりの高卒新人3試合連続ホーマーを放った。終盤にはマスクを被る機会も増え、41試合で打率.275、6本塁打、15打点と高卒1年目としては上々の成績を残した。

 若くして結果を残した選手には慢心が生まれやすい。レギュラーを期待された2年目、袴田の目には森がプロを舐めているように映った。

「練習態度が良くなかったんですよ。タラタラとプレーしているように見えた。カチンときて、オープン戦の前に個室に呼んで『明日から二軍に行け』と怒りました」

 森の表情は一瞬にして硬くなり、直立不動のまま沈黙した。温厚な袴田の激昂は19歳の心に響いた。当時の報道では〈対外試合で12打数2安打の成績に終わっており、8日に2軍行きを通告された。〉(デイリースポーツonline/2015年3月11日)と打撃不振が理由とされていたが、実質的には懲罰降格だった。

「友哉には『二軍で結果を残さないと一軍はない』と伝えましたけど、二軍監督の潮崎(哲也)には『開幕はスタメンで使いたいから、ミニキャンプを張らせてくれ』と頼みました」

 森は態度を改め、初心に帰った。イースタン・リーグ8試合で打率.360と復調。開幕一軍を決めると、「全力でガムシャラにプレーしたい」と唇を噛み締めた。

「普段はヤンチャでかわいいヤツですよ。でも、いくら素質があっても練習を疎かにしたら、絶対に名選手にはなれません」

森友哉の「スタメン捕手」問題

 本気で叱ってくれる袴田の存在によって、高卒2年目の若武者は階段を駆け上がった。138試合に出場して打率.287、17本塁打、68打点を挙げ、クリーンアップにも座った。一方で、ポジションは指名打者と右翼に限定され、捕手でのスタメンは1試合もなかった。この起用法にメディアやファンからは不満の声が上がっていた。

 交流戦を直前に控えた5月下旬、袴田ヘッド兼バッテリーコーチは育成方針を聞かれ、こう答えている。

〈――将来の正捕手として期待する森になぜ、マスクをかぶらせないのでしょう?

「チームの状態がいいですし、森も打撃が好調。それに今は、銀仁朗(炭谷)が投手陣をうまく引っ張ってくれています。それがチームの安定を生んでいる。そういう状況で、無理に森を守らせる必要はないでしょう。森は日々の練習で上達しているとはいえ、まだ経験不足。もっと経験を積んでからでいいという判断です」

――「経験不足」は実戦でしか補えないと思いますが?

「今の森は捕手より、打撃でチームの力になってくれています。打線に欠かせない存在ですから。その中で、いろいろと一軍での経験を積んでくれればいいわけです。捕手としてはまだまだですから」〉(日刊ゲンダイDIGITAL/2015年5月22日)

 本心では、袴田も交流戦で最低1試合はマスクを被らせたかった。だが、口外できない特殊な事情があった。

「会社に『キャッチャーはまだ早いだろう』と止められて、実現しなかったんですよね。『炭谷が状態良いから(交流戦では)友哉は外野でも守らせたらどうだ』とも言われました。自分の考えも述べながら、『それでいいならそうしますけど』と答えました。監督ではなく、僕のところに来ましたね」

二軍行き通告は「一番嫌な仕事」

 田辺徳雄監督と話し合った上で、キャッチャー・森友哉は見送られた。

「選手の二軍行きも、全部僕が通告していました。あれは一番嫌な仕事でした。特にベテランに話す時は辛かったですね。なかには、『チームの中で僕の立ち位置はどこなんですか』と迫る選手もいました。傷つけないように言葉を選んで伝えていましたね」

 袴田は、監督の盾にも選手の盾にもなった。7月3日のロッテ戦、死球を受けた19歳の森友哉は33歳の伊藤義弘を睨んだ。ベンチからマリーンズナインが飛び出し、一触即発の空気が流れた。その時、袴田は真っ先にライオンズ側から駆け寄り、立花義家、吉鶴憲治という2人のマリーンズコーチ陣を1人で制止した。

「選手を守ることがコーチの仕事ですからね。新聞記者に『乱闘の時、いつも先頭にいますね』と言われましたけど、『他のみんなが遅いんだよ』って(笑)。友哉の向こう気の強さは良い所でもある。2年目でピッチャーを睨めないですよ」

イヤな役割も「誰かが引き受けなければ…」

 中村剛也が本塁打と打点の二冠王に輝き、秋山翔吾がNPB史上最多の216安打を放ちながら、チームは2年連続Bクラスに終わり、袴田は西武との契約を終えた。

「浅村(栄斗)と秋山が先頭に立って、本当によくやってくれました。栗山(巧)も背中で引っ張ってくれた。良い選手がたくさんいたから、もう少し勝てたと思うんですけどね。本当はあと1年残りたかったですけど、外様で結果を出せなかったから仕方ないですね」

 現役時代は村田兆治のボールをノーサインで受け止め、コーチになれば中間管理職として嫌な役目を一手に引き受けた。袴田の野球人生は、損な役回りばかりを引き受けているように見える。精神的に参ることはなかったのか。

「いや、それはないですね。チーム内で誰かがその役割を引き受けなければならない。同じようなタイプの人間ばかりだと勝てないですから」

あふれ出た村田兆治への思い

 取材中、袴田はどんな質問にも同じトーンで淡々と答えた。日本一達成の喜びも、突然の解雇の悲しみも言葉数はほとんど変わらなかった。一喜一憂せず、現実をありのまま受け止めてきたからこそ、37年間もプロ野球の世界で生き残れたのだろう。そんな袴田も村田兆治の死について聞くと、感情があふれ出た。

「未だに信じられないというか……。家族葬にも呼んで頂きました。顔を見た時、声を掛けたら返事してくれるんじゃないかって。ずっと元気でしたからね。昨年『離島甲子園』でキャッチボールをした時も、すぐに50メートルくらい離れた。72歳ですよ。僕はもうついていけないので、他の人に代わってもらいました。村田さんは『子供たちに手本になるような姿を見せなきゃいけない』と常に言っていて、身体を作っていましたからね。僕らもある程度の状態にしていかないと『ちゃんと動け』って怒られました。兆治さんの遺志を受け継いで、これからも『離島甲子園』を続けていきたい」

 いくら耳を澄ましても、村田兆治の声はもう聞こえない。墓前で手を合わせても、何を考えているのかは想像するしかない。しかし、思い返してみれば、現役時代も同じような状況でマウンドからいきなり剛球を投げ込んできた。だから、袴田なら受け止められる。天国からのノーサインを――。

文=岡野誠

photograph by Hideki Sugiyama