2023年の期間内(対象:2023年5月〜2023年9月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。相撲部門の第1位は、こちら!(初公開日 2023年7月28日/肩書などはすべて当時)。
千代の富士。強き横綱であり続けた男には、家族にだけ見せる素顔があった。秋元家の長男として生まれ、ファッション業界や「株式会社秋元」取締役として活動する秋元剛がNumberWebに語る、「人間・秋元貢」の肖像――。インタビュー第1回では、幼少期に父と過ごした“家族の時間”について聞いた。《全3回の1回目/#2、#3に続く》◆◆◆
父親は歴史に残る大横綱・千代の富士。
自分は何を求め、どう生きていくのか。それを定めるものを運命と呼ぶのなら、秋元剛の人生は、自らの運命に目を背け、抗うことから始まった。
千代の富士の長男として生まれ、その抵抗は物心つくかつかないかのうちに始まっていた。
「僕はもう生まれた時から洗礼を浴びていると思います。相撲をやってもらいたいという世の中からの期待がものすごかったですから。物心付く前から、会う人会う人に『お相撲やらないの?』とかではなくて『お相撲さんになるんだよな』って」
単に大横綱のひとり息子というだけではなかった。
1980年の九州場所、甘いマスクで角界随一の人気を誇った大関・貴ノ花は千代の富士に喫した黒星によって翌場所での引退を決断した。その11年後、今度は千代の富士が貴ノ花の次男である貴花田(のちの横綱・貴乃花)に敗れた一番によって引退を決めた。
千代の富士は一人息子に、相撲を強制しなかった
さあ次は千代の富士の息子が貴乃花を――。国技・大相撲が紡ぐ大河ドラマの主要人物として生まれながらにキャスティングされ、力士に、横綱になることを、勝手に求められていた。その期待を一身に浴びて、幼い秋元さんはとにかく耳を塞ぐだけだった。
「まずそれを言われることが幼心に嫌で、そこから相撲への関心も無くなってしまいました。相撲に対して一歩引いてしまったというか、境界線を作ってしまいましたね」
当時の記事で「次は貴花田と剛くんの対戦ですか?」と記者に聞かれた千代の富士は「夢のある話だ。家では相撲取りになれと言い聞かせているよ」と答えている。ただ、少なくとも秋元さんの記憶では、父や母からその期待を口にされたことはなかったという。
後年、ファッション業界の仕事がしたいと言った時も父は特に反対しなかった。
「やっぱり父はわかっていたと思うんです。万が一ポテンシャルがあったとしても、本人にやる気がなければ続かない。それに誰よりも相撲の厳しさを知っていたはずですから。父自身が志半ばで横綱になれなかった、とかなら息子に託したいという気持ちもひょっとしたら芽生えたかもしれない。ですが一代で全てをやり切った方ですから。やりたいことや将来については、自分の意志を尊重してくれました」
「家族だけの時間を取る、ということがすごく難しかった」
秋元さんが5歳になる1991年5月、千代の富士は現役を引退した。九重親方となり、部屋持ちの師匠となった。その部屋の上が秋元家の住居となった。
「普通に“パパ、お父さん“と呼んでましたね。自分たち家族にとっては親方でも師匠でもないですから(笑)」
自分で相撲を取ることはなかったが、秋元さんは力士と遊んでもらうこともあり、相撲は生活と分かち難くいつもそばにあった。父もそうだった。優しいお父さんの顔をしていながら、いつも強い千代の富士としての顔もまとっていた。
「家族だけの時間を取る、ということがすごく難しかったと思います。家族で食事に出かけるとなっても弟子も一緒に同席していたり。相撲のスケジュールがベースにあり、そこに自分たちが合わせていくみたいなイメージでしょうか」
家族旅行のときでもたくさんのお相撲さんや後援会関係者などがついてくる。どうしてだろうと思う。それは見方を変えれば、部屋旅行に家族が一緒に参加しているだけなのだった。
家で食事をするときは母、姉、妹との4人で、父が一緒に食卓を囲むことは少なかった。年3回の地方場所の期間は当然家にいなかったし、親方として巡業に出ることもある。東京場所の前後でも、さまざまな関係者との付き合いで食事どきに家にいることは多くなかった。
息子が感じた「父のさりげない愛情」
ただ、それが父への反発を招いたかと言えばそうはならなかった。
”わたしは結婚してプラスになり、子どもが生まれてさらにプラスになった。そんな家族を誇りに思っている”
”わたしは東京を留守にしているときは毎日、家に電話をかけている”(『ウルフと呼ばれた男』/読売新聞社)
自著で千代の富士がそう書いている通り、そんな父の愛を子どもたちも感じていたようだ。
秋元さんは言う。
「それはごく一般の家庭に比べたら変わっている部分はもちろんあると思います。でも、あまり一緒にいられないからこそなのか、父は家族との時間をとても大事にしていました。誰かの誕生日や記念日など、そういう時間は必ず作るように意識していたように思います」
一緒にスーツを仕立てに行った日
記念日という点で言えば、優勝した後に賜杯と子どもを抱いて記念撮影することは千代の富士の目標の一つでもあった。支度部屋で家族や関係者と並んで写真を撮る際に、幼い我が子を抱く。今では見慣れた光景を最初にやり始めたのは千代の富士なのだという。秋元さんもまだ1歳半だった1987年の九州場所で、父の太い左足にまたがって写真に収まった。
家を空けている時間が長いとはいえ、千代の富士の父親としての愛情の示し方は、その分甘やかしたり、猫かわいがりするようなものではなかったという。秋元さんが大人になってからの距離感もそっと寄り添うような父子の関係だった。
「僕がスーツを仕立ててもらっているお店があるのですが、そこの当時の会長さんが父のファンで、一緒にスーツを作りに来て欲しいと言われたので、同じ生地でスーツを作ったりもしました。体型が違うから形も違うんですが、一緒に生地を選びながら、父が決めた生地を見て『僕もそれにしようかな』と言ったら少し嬉しそうな表情を浮かべたり。そんなふうにさりげなく愛情は感じていましたね」
印象に残っているのは、還暦土俵入りの姿
秋元さんには現役時代の千代の富士の印象はほとんどない。
「当時は『男の世界に女、子どもが行くなんて』というような世間の考えもあったでしょうし、勝負事の世界。あとは単純に母が一人で幼い子ども3人を連れ出して観戦に出かけるというのも大変だったと思うんです。だから、もっぱら家でテレビ観戦をしていたそうです」
断髪式では男性しか土俵に上がることができないので、家族の代表として土俵に上がって花束を渡したが、まだ小さかったからその記憶もおぼろげだ。
父の土俵姿で印象に残っているものは、もっとずっと後になってから。2015年5月31日に行われた還暦土俵入りだという。
歴代横綱が還暦を迎えた際に行われる記念の行事。千代の富士は赤い綱を締め、60歳とは思えない堂々とした肉体で、太刀持ちに白鵬、露払いに日馬富士と現役横綱を従えて雲龍型の土俵入りを披露した。
「千代の富士の息子」が背負った宿命
「これで区切りがついたのかな」
会場でその姿を見届けた秋元さんの胸に湧き上がってきたのは、そんな不思議な感慨だった。
「その時、僕は29歳でした。大相撲は23歳(アマチュアで特定の実績がある場合は25歳)で入門の年齢制限があるんですけど、普通の人はそんなこと知らないじゃないですか。だから20代後半になってからも『今からでもお相撲さんになれるよ』と言われ続けていました。でも、あの時、父の土俵入りを見て『ああ、これでやっと終わるのかもしれない』という気持ちになったんです」
大横綱として生きてきた父と同様に、秋元さんもまたその息子としての宿命を背負い続けてきた。還暦土俵入りと秋元さんの入門に特に関連があるわけではない。あるわけではないが、秋元さんの心のつかえのようなものが、千代の富士が四股を踏むたびに溶け落ちていった。
父子にとって大きな区切りとなる行事が終わった。ところが、還暦土俵入りの翌週、予想だにしていなかったことが父の身に起こったのだった。
〈#2、#3へ続く〉
―2023上半期 相撲部門 BEST5
1位:「一般家庭に比べたら変わってる。でも…」千代の富士の息子が告白…大横綱が過ごした“家族の時間”「さりげない愛情を感じていました」
https://number.bunshun.jp/articles/-/858815
2位:「電撃引退」逸ノ城30歳とは何者だったのか?「ずっと部屋でひとりぼっちでした」女子にも負けた“最弱”高校時代…ザンバラ髪の怪物が誕生するまで
https://number.bunshun.jp/articles/-/858814
3位:「7年前の早すぎる死…伝説の横綱・千代の富士は、なぜ“鋼の肉体”を極められた?」一番の稽古相手・琴風が証言する「筋肉が鉄のようで痛くてね…」
https://number.bunshun.jp/articles/-/858813
4位:サンクチュアリ俳優・猿谷は千代の富士の“付け人”だった…!「僕の断髪式で号泣したんです…」実は”優しい親父”の素顔と忘れられない最後の会話
https://number.bunshun.jp/articles/-/858812
5位:千代の富士が叫んだ「貴乃花、痛かったらやめろ!」あの伝説の“貴乃花vs武蔵丸”のウラ側…「エイ、ヤーッ!」治療師の声が聞こえた前日
https://number.bunshun.jp/articles/-/858811
文=雨宮圭吾
photograph by 提供:秋元剛