2023年7月12日、大井競馬場。ジャパンダートダービーでJRAの並みいる強豪を撃破し、ミックファイアを無敗の南関東三冠馬に導いた御神本訓史を、観衆は盛大な「ミカモトコール」で迎えた。益田競馬場の休止、生死の境をさまよった落馬事故、騎手免許の失効……。波瀾万丈のジョッキー人生を歩む42歳の実像に迫った。(全2回の2回目/前編へ)

若き日に味わった「言葉にできない悲しみ」

 ミックファイアで無敗の南関東三冠制覇を遂げた御神本訓史は、今年、騎手デビュー25年目を迎えた。脂の乗った42歳。今年は8月を終えた時点で100勝を超える勝ち鞍を挙げており、まさにキャリアの充実期にある。

「確かに、20代の自分だったら、三冠でこの結果を出せなかったかもしれません。JDDでは我慢し切れず、2番手くらいから早めにミトノオーをつかまえに行って差されるパターンになった可能性もある。本当にフラットな状態で臨み、平常心で乗ることができました。三冠に向けて、自分のなかでいろいろ噛み砕いて準備を進めるにあたって、『負けても仕方がない』と、いい意味で割り切れる部分もありました。勝って当たり前でもなかった。運が大きかったので」

 そう話す御神本は、まさに波瀾万丈の騎手人生を歩んできた。

「いろいろ遠回りしたり、つまずいたりしたこともたくさんあったけど……。競馬に対して、馬に対して、レースに向けてやってきたことは、そんなに間違った進め方をしてこなかったのかな、とは思います」

 御神本は1981年8月25日、島根県益田市で生まれた。父・修さんは元益田競馬場の騎手で、御神本が生まれたときは調教師だった。

「家は厩舎の外にありました。競馬場まで車で10分くらいのところです。小さいころからよくレースを見に行きました。周りに騎手がたくさんいて、みんなカッコよく見えて、憧れましたね」

 1999年4月10日、益田競馬場の父の厩舎に所属してデビューする。同日初勝利を挙げ、7月には益田のダービーに相当する日本海特別を勝つ。2年目に益田のリーディングジョッキーとなって注目されるも、4年目の2002年8月、益田競馬場が休止となり、騎乗の場を失う。

「言葉に表せないくらいの悲しみと、衝撃がありました。行き先について、僕自身はあまり関与していなくて、主催者同士で受け入れ先を決めてくれたんだと思います。ジョッキーをつづけたかったので、どこかで乗れたらいいなと思っていました」

 結局、大井・三坂盛雄厩舎へ移籍することになり、10月14日に騎乗を再開する。

「大井では招待レースで2回ほど乗ったことがあり、ここで乗りたいと感じていたので、嬉しかったです。これもひとつのチャンスなのだから頑張ろう、と切り替えました。『自分は通用するのかな、どのくらいやれるのかな……』と不安もありましたが、広さにも、多頭数の競馬にも、意外に早く馴染むことができたと思います」

「目が覚めたら病院でした」落馬事故で意識不明に

 しかし移籍翌年の2003年5月、落馬で外傷性クモ膜下出血および脳挫傷で一時意識不明となる。1年ほどのリハビリを経て復帰するも、また休んでは復帰ということを繰り返し、本格的に復帰するのは2005年になった。

「落馬して、目が覚めたら病院でした。前後のことは覚えてないですね。手術などはしなかったのですが、しばらく車いすで、2カ月ぐらい入院しました。回復は早かったので『もう乗れないんじゃないか』とは考えなかったですけど、復帰しても、視界がぼやける感じがあったりして、完全に復帰するまで時間がかかってしまいました。周りに支えてくれる人がたくさんいて、その人たちの熱意が大きかったですね」

 完全復帰後の2006年3月、東京シティ盃で南関東重賞初制覇。5月にJRA初騎乗、11月に重賞初騎乗、12月に平場初勝利と、活躍の場をひろげていく。

 しかし2007年、調整ルーム不着のため、騎乗停止と謹慎処分を受ける。9月に騎乗を再開し、10月、フジノウェーブでJBCスプリントを勝ち、JpnⅠ初勝利。JBC史上初の地方馬による勝利で、御神本は26歳だった。

「競馬が上手で、乗りやすい馬でした。フェブラリーステークスでJRA・GⅠ初騎乗(2008年、12着)ができたりと、いろいろなところに連れて行ってくれました。管理調教師の高橋三郎さんは、ぼくが大井に移った当初からすごく熱心に指導してくれたんです。面倒見のいい方で、ずっと気にかけてくれました」

 2009年9月、地方競馬通算1000勝を達成。2013年、253勝を挙げ、初の南関東リーディングを獲得。32歳だった。

一時は騎手免許失効「迷惑をかけてしまった」

 翌2014年も219勝でリーディング2位という成績を残したが、2015年の5月末から2017年3月末まで、自らの不祥事のため騎手免許が失効してしまう。その間は調教厩務員として馬に乗りつづけ、日々の業務をこなしながら騎手試験の準備をしていた。

「あの時期があったから、今の自分があるのだと思います。やっぱり、いろいろ考えさせられたこともありましたし……」

 稽古をつけたバルダッサーレがほかの騎手の手綱で2016年の東京ダービーを制した。そのときはどんな思いだったのか。

「嬉しかったですよ。自分が携わった馬が勝ってくれたわけですから。騎手免許がなかったあの期間に、悔しく感じたことはなかったです。自分のしたことが原因で、迷惑をかけてしまいましたので。それでも、また免許試験を受けられるチャンスがもらえるだけでもありがたいと思い、一生懸命やっていました。師匠の三坂先生をはじめ、引き立ててくれる人たちがいて、支えてくれました」

 2017年4月に騎手免許を再取得。8月に復帰すると、1割台がつづいていた勝率が、益田で乗っていたころ同様、2割台に跳ね上がった。

「復帰してからは、それまで以上に、1頭1頭、大事に乗りました。レースと馬にしっかり向き合っていかなければいけない、と。数字はあまり気にしないのですが、勝率が上がったのは、いい馬に乗せてもらう機会が増えたからだと思います」

 2019年、ブルドッグボスでJBCスプリントを優勝。2020年からはフェブラリーステークスに4年連続参戦している。もし来年、ミックファイアで参戦すれば、1999年に同レースで地方馬による唯一のJRA・GI勝ちを果たしたメイセイオペラ以来の勝利はなるかと盛り上がるだろう。

「まだ古馬のトップクラスと差はあると思いますが、これからどんどん強くなって、そのくらいまで行ってほしいですね」

 ミックファイアをはじめ、今年の南関東の3歳勢はハイレベルなだけに、南関東勢同士の戦いも楽しみだ。この世代の強さをいち早く「世界」に示したのは、マンダリンヒーローだった。4月8日にアメリカ西海岸のサンタアニタパーク競馬場で行われたダート1800mのGIサンタアニタダービーで、鼻差の2着と健闘した。

 そのマンダリンヒーローをヒーローコールは3度負かしており、ミックファイアはヒーローコールを2度完封している。

「ミックファイアもヒーローコールもマンダリンヒーローも、JRAから降りてきた馬ではなく、南関東の“生え抜き”ですからね。そう考えると、こっちのレベルもかなり上がってきているんだな、と感じますよね」

「もう少し乗っていたいし、乗らなきゃいけない」

 御神本は馬に対して非常に謙虚だ。「お前のことはわかっているよ」という接し方ではなく、馬の声に真摯に耳を傾けている。そんな彼は、自分の騎手としての強みはどんなことだと考えているのだろうか。

「あまり馬にストレスをかけないように乗るのは、ほかの人よりできるかもしれません。もちろん、綺麗に乗ることはいつも意識しています。憧れたのは、ケント・デザーモやフランキー・デットーリといった外国人騎手でした。綺麗だし、カッコいいな、と思います」

 傍から見ていると、ハートの強さや冷静さも武器だと思えるのだが、どうなのか。

「それは意識しているところじゃないけど、いろんな経験をさせてもらっているぶん、引き出しは多くなっているのかな。確かに、あまり自分を見失うことはないですね」

 今なおピークとはいえ、年齢は42歳。いつまで現役をつづけるか、考えることはあるのだろうか。

「もう42歳で、後輩たちがどんどん調教師に転身しているのを見ると、はたして自分はこのままでいいのかな、と思うこともあります。それでも、もう少し乗っていたいし、たぶん乗れるし、乗らなきゃいけないとも思います。前にできたことができなくなったとか、衰えを感じることはないですが、一線級で戦えるだけの技術とか、体力とか、メンタルを保持していくにはどうしたらいいのか。そこは結構考えながら乗っています。(67歳で現役の)的場文男さんは、今でも勝つからすごいとは思いますが、別格なので目指すところではないですね(笑)。期待してくれる人がいる限り、これからも一生懸命、乗りつづけるだけです」

 見てのとおりの男前で、馬上にいても、馬を下りても絵になって、華がある。

 ミックファイアとのコンビで、次はどんなレースを見せてくれるのか。10月1日のダービーグランプリはもちろん、その先の未来も楽しみでならない。

<前編からつづく>

文=島田明宏

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