40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。第4回(前編・後編)は、その巨人FA移籍という“事件”を検証する。「40歳の四番バッターに期待するなんて…」「3億円の値打ちはないよ」落合移籍を巡る狂騒。【連載第4回の前編/後編へ】

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ナベツネ「ウチなら5億円出す」

 1993年は、プロ野球界にとっても時代の変わり目だった。平成球界を取り巻く環境は猛スピードで変化しつつあり、読売新聞の渡邉恒雄社長は「ドラフトを廃止できずにフリーエージェント制も導入できないなら、新リーグを作ればいい。革命的なことをやる時期に来ているんだ」とマスコミの前で吠え、落合のことを聞かれると、「ウチなら5億円出す」なんて豪語してみせた。

 FA制度を巡り、93年の年明けに吉國一郎コミッショナー、セ・パ会長の三者会談で今オフ導入が確認されると、1月から3月末までの間に計22回も会議が開かれ、3月12日には読売・渡邉社長と西武・堤義明オーナーが共同戦線を張るため都内のホテルで極秘会談。資格条件を巡り、一軍出場登録日数1シーズン150日間以上を10シーズンだけでなく、1000試合出場案も議論されていたが、そうなると“FAの草刈り場”になると囁かれた西武は、オーナーが寵愛してきた8年目の清原和博も対象になってしまう。ライオンズブルーの背番号3の肖像画を自室に飾っていた堤にとって、清原だけは出したくなかった。

プロ野球界が焦っていた事情

 巨人側は選手獲得時の補償問題で、FAにより選手を失った球団がドラフト会議で2位指名に入る前に特別指名権を得る案に断固反対しており、「ドラフトを撤廃すれば、企業努力しない、つまらない球団は潰れていく。自然淘汰されていくということだよ」なんてナベツネ節がマスコミを賑わす。

 各球団のエゴと思惑が絡まり、二転三転の末に、9月21日にはFA制度の細部の条件を含め最終合意。10月8日に選手会と機構側の間で調印式が行われ、オフからの実施が正式に決定した。

 プロ野球界も焦っていたのだ。93年春に始まったサッカーのJリーグは社会的ブームとなり、開幕戦のヴェルディ川崎vs横浜マリノスはテレビ視聴率32.4%を記録。大相撲も若貴兄弟人気で空前の盛り上がりを見せていた。92年の日本シリーズでは西武とヤクルトが熱戦を繰り広げたが、西武が日本一を勝ち取った第7戦の翌朝、スポーツ新聞各紙では、貴花田と宮沢りえの婚約が一面を独占した。ヴェルディ川崎のスター選手・三浦知良の年俸が、巨人・原辰徳を大きく上回る2億円を突破したのもこの頃だ。いわば昭和から続く、“国民的娯楽”のプロ野球の立ち位置が揺らぎつつあり、逆指名ドラフトやFA制度といった数々の球界改革案とともに、その人気回復の切り札が、長嶋茂雄の巨人監督復帰だったのである。

長嶋「いまのウチに(四番が)いますか?」

 しかし、長嶋巨人は過渡期だった。93年は14シーズンぶりに勝率5割を切り、首位ヤクルトと16ゲーム差の3位がやっとで、リーグ最少得点に12球団最低のチーム打率.238と貧打に泣かされた。長年、巨人の象徴だった35歳の原はすでに満身創痍で、プロ入り以来ワーストの98試合の出場に終わり引退も囁かれ、駒田徳広は中畑清打撃コーチと衝突して、オフにFA権を行使して自らチームを飛び出す。新たな巨人の未来は、セ・リーグの高卒新人新記録の11本塁打を放ったゴールデンルーキー松井秀喜に託されていた。だが、その松井は「四番1000日計画」の真っ只中。一本立ちするまでにはまだ時間が掛かる。長嶋監督はチームの核となり、さらには松井のお手本になれるような本物の四番打者を欲していたのだ。

「四番というのはチームの顔なんです。バッティングだけでなく精神的な支柱でもあるんですね。バットマンとしての夢であり、三番や五番とは違うんです。不動の四番が欲しい。四番というのは特別で、シンボル的なもの。誰からも文句が出ないような存在なんです。どうでしょう、いまのウチにいますか?(四番に)なりきれないのと、ええ、まだ、少々時間がかかるというのか……」(週刊ベースボール93年11月15日号)

「いまの巨人は優等生の体質。これに同じ“抗体”を入れても仕方ありません。悪玉を入れなければ」(週刊読売93年11月7日号)

原辰徳が不快感「筋違い」

 もはや、間接的なオレ流へのラブコールの数々。この時、あらゆる批判に耐えながら10年近く巨人の四番を張った原辰徳は、どんな気持ちで、これらのミスター発言を聞いていたのだろうか。

 まるで、この頃の背番号8には直属の上司から見切られ、転職組にポジションを奪われる窓際社員のような悲壮感すらあった。落合のFAへのスタンスもチームの優勝が遠のいたペナントレース最終盤になるにつれ、「興味がない」から、「今はシーズン中だから考えてない」へと微妙に変化。労組選手会から脱退したにもかかわらず、マスコミを通してことあるごとに年俸上限などFA制度の不備を指摘した落合に対して、前会長の原は「落合さんがFA宣言をするのは勝手だけれど、組合員の資格を放棄したのに、FA制度についてとやかく言うのは筋違い」と珍しく不快感を露わにした。

信子夫人「1対1のトレードはあり得ない」

『FA制導入で巨人の四番は落合』(週刊文春93年10月7日号)、『「落合」を七億五千万円で買う巨人軍選手の「メンツ」』、『球界ぐるみで策謀する「巨人軍改造計画」をスッパ抜く』(週刊現代93年11月13日号)と秋には各社の報道合戦も過熱していく。シーズン終盤には長嶋監督と親交が深い深沢弘アナウンサーが“仲介”で動き、落合にFA宣言の有無を確認済という記事も目立った。その渦中に、桑田真澄とのトレード話がスポーツ紙の一面で報じられると、信子夫人はすかさず週刊誌のインタビューに登場して、こう笑い飛ばしている。

「桑田君じゃ相手に不足だっていってるわけじゃないよ。おっ母が余計なこといって、また落合がブッつけられでもしたら大変だし、問題になっちゃいけないからね。だけど、考えてもみてごらんよ。ウチの父ちゃんは、4対1のトレードで中日に迎えられた男なんだよ。それを軽々しく、相手が誰にせよ、1対1のトレード相手にされたくはないわ」(週刊ポスト93年11月5日号)

 そして、言うのだ。「FA宣言期間になったら絶対に落合に注目してなさいよ」と。そして、“ナガシマの恋人”とまで呼ばれた男は、小学校に進学する子供の教育問題で東京行きを望んだ信子夫人の熱心な後押しもあり、ついにひとつの決断を下す。11月6日、宮崎市営球場で行われたセ・リーグ東西対抗の試合前、長嶋監督と並んでツーショットに収まった落合は、翌7日の日曜夜、テレビ朝日系の『スポーツフロンティア』に生出演して、FA宣言をすることを表明するのだ。

《「40歳の四番バッターに期待するなんて…」「落合に3億円の値打ちはない」後編では、球界OBたちの猛批判ぶりを検証していく》

<後編に続く>

文=中溝康隆

photograph by Sankei Shimbun