ドラフト史最大の事件といわれる「1985年のKKドラフト」。桑田真澄の早稲田進学はなぜ消えたのか? 巨人の1位指名は清原和博ではなく桑田に……背景に何があったのか? 桑田・清原の先輩にあたるPL学園“伝説的OB”の証言から、あのドラフトの真実に迫った。#1は「黒幕説もあった……井元俊秀の告白」編。〈全2回の#1/#2へ〉

 ドラフト会議に悲劇はつきものだ。

 プロ野球を志してきた者にとって長年の夢が成就する一日であるはずが、野球人の思惑が複雑に絡み合い、時に前途洋々だった18歳の人生を狂わせることもある。今年も、高校1年生の頃より注目を集めてきた“広陵のボンズ”こと真鍋慧(まなべ・けいた)が、学校に用意された壇上で中井哲之監督と並んで指名を待ちながら、希望していた3位までには指名がなく、一言も言葉を発しないまま会場を去った。

ドラフト史「最大の悲劇」KKドラフト

 1965年に始まったドラフトの歴史にあって、最大の悲劇は1985年のKKドラフトだ。巨人への入団を熱望していた清原和博と、早稲田大学への進学を希望していた桑田真澄。だが、ふたを開けてみれば巨人が指名したのは桑田であり、清原は6球団の競合の末、西武が交渉権を獲得した。会見で涙した清原に同情の声が寄せられ、甲子園で戦後最多の20勝を挙げた桑田は一転してダークヒーローとなった。早稲田への進学を公言することで他球団の指名を避けようと、巨人と桑田との間で密約があったのではないか――そんな説が流布されたからだ。

「既に亡くなっている人も多く、真相というのは、誰にも分からない。私にも、そして桑田にも。とにかくあのドラフトはPLにかかわるすべての人間にとって不幸な出来事だった」

 かつて私にそう話したのはPL学園の野球部を作った男だ。名を井元俊秀(いのもと・としひで)という。PL学園の1期生であり、同校が甲子園に初出場した時の監督であり、70年代に入ってからは全国各地の有望選手をスカウティングすることに奔走し、PLの勃興を担った最重要人物である。「伝説のスカウト」とも呼ばれ、熱心に中学野球の現場に足を運び熱意を伝え続ける勧誘の姿勢は、大阪桐蔭の西谷浩一監督も踏襲したほどだ。

黒幕か?「伝説のスカウト」の証言

 同時に、KKドラフトの仕掛け人とも黒幕とも囁かれた。井元はPL学園の監督を務めたあと、PL学園の母体であるパーフェクトリバティー教団の2代教祖・御木徳近から厳命を受け、プロ野球の歴代最多勝監督である鶴岡一人を介してスポーツ紙の記者に転身した時期がある。そこで球界とのパイプを築いていた。この井元と、当時、PL学園の1年生に息子がいた巨人のスカウト・伊藤菊雄、そして桑田家が結託し、巨人が一本釣りするシナリオを書いたのではないかと疑われた。井元が改めてKKドラフトを振り返る。

「あの日のドラフトに関して、僕は無論、タッチしていない。僕はね、桑田は早稲田大学に行くとばかり思っていた。夏の甲子園が終わったあと、『早稲田大学の試合が見たい』というから、東京六大学リーグの東大戦に連れて行ったこともありました」

2カ月前の桑田「早稲田ってこんなに弱いんですか…」

 ドラフト会議の約2カ月前となる85年9月21日の試合だった。井元は試合を観戦せず、試合が終わるまでの間はPLのOBであるプロのスカウトらと神宮球場脇の喫茶店で時間を潰していた。この日の試合で、早稲田は東大に完封負けを喫する。井元のもとにやってきた桑田は、開口一番、こう告げた。

《早稲田が負けたんです。早稲田って、こんなに弱いんですか……》

 井元が回想する。

「とにかくガクッときた様子で、言葉が続かなかった。今になって思えば、あの試合がその後の桑田の決断に影響を与えたかもしれない。だけど、あの日の僕はそれでも早稲田に行くと信じて疑っていなかった」

ドラフト直後の“喧騒”

 当時のドラフト会議は午前中に行われていた。井元は波瀾に満ちた会議が終わると、心を落ち着けるように横になり、いつしか眠りに落ちた。そこに慌てた様子で飛び込んできたのが、桑田だった。

《先生、僕は巨人と密約なんかしていません》

 なんとか落ち着かせて桑田を帰すと、少しの時間を置いて、今度は清原の母親が鬼の形相で部屋に入ってきた。

《どうしてこんなことになるんですか》

 KKに携わる全ての人間にとってまさかの展開だった。運命のドラフトから数日後、喧騒がいまだ収まらない状況の中、桑田は井元を再び訪ね、涙を流しながらこう告げた。

《先生、僕は早稲田に行きたいんだけど、親父がどうしても巨人に行ってくれと言うんです。だから僕は巨人に行くしかないんです》

 当時の桑田家の事情が巨人入りせざるを得ない状況だったと、井元は言う。

「桑田は父親に対して、『僕はお父さんの言うことを聞く。だからお父さんはこれから、お母さんを大事にして欲しい。それだけは約束して欲しい』と伝えたようです。現在のように、指名を待つ高校生や大学生が『プロ志望届』を提出しなければならないルールは存在しなかった。法整備されていなかったから、あらゆる手を使って選手を獲得しようという球団があったのも事実です。当時もし、プロ入りを望む高校生に志望届の提出義務があったならば、KKドラフトのようなことは起こり得なかったでしょう」

 後年、桑田はドラフト会議を振り返り、「巨人から指名されることがあれば、巨人に行くつもりだった。たとえ1位じゃなくても、巨人ならば入団するつもりだった」と語っている。だが、これは数十年が経過したあとだからこそ導き出せた桑田自身の総括であり、17歳(桑田の誕生日は早生まれの4月1日)時点の心情、もっと言えば真実とはならないのではないか、というのが筆者の見立てだ。

「清原に会いたい。そして、桑田にも…」

 井元は2002年にPL学園を離れたあと、青森山田や秋田のノースアジア大明桜でもスカウトの役割を担い、そして21年、85歳で退任した。関わった3校が甲子園で挙げた勝利数は99。プロに送り出した選手は83人にのぼる。

「本当ならばもう何人かプロになった者がおるんだが、そいつのことを僕は認めていないんだ」と笑う井元に心残りがあるとすれば、あのドラフト以来、清原と疎遠になってしまっていることだ。

「清原に会いたい。そして、桑田にも……」

 井元と桑田が神宮球場を訪れた日、ふたりに同行していた人物がいる。PL学園のOBであり、元ロッテオリオンズの得津高宏(76歳)だ。85年当時、ロッテのスカウトだった得津はドラフトの3日後、喧騒の大阪を離れて東京に上京してきた桑田を数日間にわたって自宅にかくまっていた。彼の桑田に対する印象は、井元ともまた違うものだった。

〈つづく〉

文=柳川悠二

photograph by JIJI PRESS