ドラフト史最大の事件といわれる「1985年のKKドラフト」。桑田真澄の早稲田進学はなぜ消えたのか? 巨人の1位指名は清原和博ではなく桑田に……背景に何があったのか? 桑田・清原の先輩にあたるPL学園“伝説的OB”の証言から、あのドラフトの真実に迫った。#2は「ドラフト後、桑田を家に泊めていた……得津高宏の告白」編。〈全2回の#2/#1へ〉

 1985年当時、得津高宏はロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のスカウトだった。PL学園の11期生である彼は、甲子園に5季連続で出場し、2度の夏日本一を達成して母校に黄金期をもたらしたKKコンビ――清原和博と桑田真澄の動向は親心に近い感情で見守っていた。彼らとはちょうど20歳の年齢差だった。

「お願いします。指名しないでください」

 清原は巨人への入団希望を公言してはばからなかった。一方、無口で小柄な大投手は、早稲田大学への進学が基本線とされていた。

 得津はロッテの大砲候補として清原を1位指名したいと考えていた。だが、ドラフトを前にして、清原本人にこう言われていた。

《お願いします。指名しないでください》

 清原の母からも念を押されていた。

《息子はジャイアンツに行きますから》

 得津は「ジャイアンツが本当に指名するかわかりませんよ」という言葉がのどから出かかったがグッと堪えた。指名を強行し、たとえくじ運に恵まれて交渉権を獲得できたとしても、清原は社会人の日本生命に進むだろう。それゆえ、指名を見送った。

「真澄は巨人に行きたいんだな」

 得津は桑田とも面談していた。

《得津さん、僕は早稲田大学に行きます》

 そう話した桑田に対し、得津は「真澄よ、もしジャイアンツに指名されたらどうするつもりなんだ?」と訊ねた。

 すると桑田は言葉に窮し、無言の時間が流れた。得津は振り返る。

「巨人に『行かない』とは言わなかった。なるほど、真澄は巨人に行きたいんだな、巨人から指名されたら断らないんだな、と思いました。ドラフトを前に、そのことを知っていたのは僕だけだったと思います」

あのドラフト会議を迎えるまで

 得津は、ドラフトの2カ月前に上京した桑田と神宮球場の喫茶店で会っていた。早稲田大学対東京大学の試合を観戦するぐらいだから、桑田が早稲田に進学するつもりがあることは得津も知っていた。またある時は、青山学院大学の練習に体験参加する仲間と共に桑田が上京してきたこともあった。得津は桑田と井元と共に横浜港に係留されている氷川丸に乗船し、船上で一枚の紙を渡した。そこには、もしロッテに桑田や清原が入団した時の契約金と年俸が書かれていた。

「真澄と清原の契約金は、当時の高校生としては前例がない8000万円でした。もちろん、ドラフト前の交渉のようなものではなく、あくまでプロとしての評価を伝えたまでです。僕は真澄に嘘はつかない。だからそれ以来、真澄は僕を信用してくれた」

 誰しもが桑田は早稲田に進学すると思っていた。そうした状況で、得津はプロとしての評価を桑田に伝えた。次第に桑田の希望がプロ入り、いや、巨人入りに傾いていくのを得津は察していた。

会議3日後、桑田が上京「いたいだけいろ」

 ドラフト会議が行われた11月20日、得津も会場となった東京・飯田橋のグランドパレスに出向きロッテに用意された円卓を囲んだ。巨人が桑田を指名する。思わず、得津は巨人の円卓に目を向けた。そこには息子がPL学園の1年生だった巨人スカウトの伊藤菊雄がいて、得津は目が合った。何やらジェスチャーで訴えてくる。

「大変なことになっちゃってすみません、というようなジェスチャーだった。当時のジャイアンツは、ドラフト当日の朝、正力亨オーナーが1位指名選手を決定していた。伊藤さんにとっても、青天の霹靂だったのかもしれない」

 ドラフト会議の3日後、桑田は単身で上京し、得津に電話を入れた。《東京に来ているんです》という桑田に対し、得津は「山手線の新大久保駅で待っていろ」と伝えた。

「当時、球団事務所がその近くにあったんです。上京してきた目的や滞在期間を僕は何も聞かなかった。だって、僕には真澄が巨人に入団したいということは分かっていたから。『いたいだけいろ』とだけ伝えていた。もしかしたら女房は真澄といろいろ話していたかもしれないね。上京の理由? 世間が騒がしかったから、大阪を離れたかったんだろう」

 いよいよ桑田が大阪に戻る日、得津は一点だけ確認した。

「真澄よ、清原があまりに『巨人、巨人、巨人』と言うから、お前自身が声を大にして『巨人に行きたい』とはとても言えなかったんだろ?」

 桑田は短く、《はい、そうです》と答えたという。

「KKドラフトは悲劇でも事件でもない」

 巨人と桑田との間で本当に密約はなかったのだろうか。そう得津に問うてみた。

「それはわからん。疑問符がつく。当時の巨人では何があってもおかしくなかった。巨人以外の11球団は、早稲田に行くと思っていた。巨人の可能性に気付いていたのは僕だけだった」

「でもね」と得津は口にし、こう続けた。

「僕からすれば、KKドラフトは悲劇でも事件でもなんでもない。清原が巨人を熱望したところで、必ず入れるとは限らないんだから。ドラフトにおいて、いくらスカウトから『必ず指名します』と言われていたとしても、指名されないなんてことはよくあること。少なくともドラフトにおいては誰の言葉も信用してはいけない。それが野球界という“大人の世界”です」

 2019年に得津にとって恩人である金田正一が亡くなった。葬儀には妻と参列し、そこで桑田と久しぶりに再会した。

《奥さん、その節は有り難うございました》

 34年前の喧騒の最中、心を落ち着ける静寂を与えてくれた夫婦への感謝を桑田は忘れていなかった。

文=柳川悠二

photograph by JIJI PRESS