野村克也と岡田彰布には確執があった――。1999年から2001年まで阪神タイガースで一軍監督と二軍監督の関係にあった2人にはそんな噂が渦巻いていた。野村監督時代を含め阪神で25年間に渡ってスコアラーを務め、岡田を幼少期から知る三宅博氏(82歳)が真相を語る。(全3回の3回目/#1、#2へ)※敬称略。名前や肩書きなどは当時

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 野村克也は阪神の監督就任当初、岡田彰布二軍監督への親近感を隠そうとしなかった。人気喜劇役者・藤山寛美を例に出しながら、自らの現役時代を振り返り、こう語っていた。

〈寛美さんが全盛で、凄く人気があった時や。それに便乗して同じ風ぼう、同じ役柄、アホの野村ということか「コラ、寛美」とよくヤジられたよ。そうしているうちに岡田(2軍監督)が出てきてな。同じ顔だし、同じようなしゃべり方だろう?横にいると弟みたいや。〉(※1)

「ワシの話を聞けんのか」野村と岡田の衝突

 低迷から抜け出せない阪神は1998年オフ、野村を監督に招聘する。Bクラス常連のヤクルトを9年で4度の優勝、3度の日本一に導いた名将の就任に、関西は沸き上がった。秋季キャンプが始まると、毎日のように『野村語録』がスポーツ紙に掲載されていた。

 前年オフ、吉田義男監督の誘いで二軍打撃コーチとして阪神に舞い戻った岡田は野村の就任前に、二軍監督兼打撃コーチへの昇格が決まっていた。当初は穏和なムードだったが、翌春のキャンプ前に2人は衝突してしまう。三宅が振り返る。

「野村さんは一軍、二軍合同で夜にミーティングをして『ノムラの考え』を選手に伝えようとした。ただ、岡田は若手に夜間練習をさせたかったんやな。一軍と二軍では宿泊先が違って、バスで往復1時間の距離があった。それを含めると、毎日2時間も取られてしまう。発展途上の選手には技術が必要だから、『二軍の子には練習かミーティグか選択できるようにしてください』と提案した。そしたら、野村さんが『ワシの話を聞けんのか』と怒ったんやな」

 野村は〈知識導入に1軍も3軍も関係ない。知らないより知ってる方がいいに決まっている〉と岡田案を却下。〈チームの方針なんだから(従うのが)当然でしょう〉と岡田も納得した。これで一件落着かと思われたが、野村は〈岡田は、勉強不足と感じることはないのかな。これが人気チームで育った弊害だろう。チヤホヤされて〉(※2)と一言多かった。

「これが阪神なんやな。ヤクルトなら、岡田への悪口までは報じられてないと思うよ。テレビ局やスポーツ紙も番記者は1人ずつだから、顔もわかるし、ある程度の信頼関係もある。だけど、阪神は報道陣の数が違うからなあ。野村さんはヤクルトの時と同じように誰彼かまわず、思ったことを何でも口にしたわけよ。ほんなら、マスコミのいい餌食になるやん」

野村が絶句した“最初のミーティング”

 春季キャンプ初日の夜、野村は準備万端でミーティングを開いた。しかし、目の前に広がる光景に唖然とした。

「帳面も筆記用具も持ってきていない選手が3分の1もいた。野村さんが怒ってしもうてね。それまでの阪神は、監督自身が懇々とミーティングをしたことなんてなかった。私の知る限りでは安藤統男さんくらいだったな、野球の理論を説いていたのは」

 真面目に話を聞くヤクルトとは違う阪神の球団体質に野村のボヤキは止まらなくなった。それでも、1年目の序盤は『三流は無視、二流は称賛、一流は非難』という方針通りに褒める時もあった。

阪神時代“じつは逆効果だった”ボヤキ

 99年4月7日の広島戦、阪神は8回表に今岡誠(現・真訪)のタイムリーで1点を勝ち越し、なおも1死満塁のチャンスを迎えた。野村監督が星野修にスクイズのサインを出すと、三塁走者のマーク・ジョンソンが生還。守備陣の隙を突き、二塁走者の今岡もホームインした。キャンプから練習していた“2ランスクイズ”の成功に〈あれは、今岡の好走塁だ。相手のすきをつく、それが野球だ〉(※3)と称えた。

「最初の頃は、野村さんも褒めていたけど、1年目の途中から『非難』の段階に入ったのよ。失敗した選手に『親の顔が見たい』とまでコメントした。阪神だから、大きく報じられるわけよ。『もう野球をしたくない』という選手も出てきた」

 ボヤキが独り歩きした顕著な例がある。5月4日、甲子園での巨人戦が中止になった後、野村は今岡についてこう述べている。前者は『スポーツニッポン』、後者は『読売新聞大阪版』である。

〈あの子には心の教育が必要や。ショートという1番大事なところを守っていて“捕れないから追わない”では困る。打っても内野ゴロだと“あきません”で走らんのや〉(※4)

〈今岡を見ていると、粘っこさがない。僕打てません、という感じ。でもなあ、オレの現役時代とよく似ているんや。オレも二軍時代な、やる気があるのか、とよく殴られた。動きがのそのそだったからな。今岡はオレと同型だな〉(※5)

 どちらも野村のコメントに違いないが、後者を読めば愛情を持っていたと読み取れる。しかし、大々的に報じられるのは“ボヤキ”だった。野村の小言を報道陣から伝えられた今岡は〈もういいじゃないですか〉(※6)とうんざりしていた。

 マスコミを通して選手を発奮させる野村の作戦は、阪神では逆効果になっていた。

迷う今岡に岡田は言った

 “口撃”に滅入っていた今岡は2000年、開幕から精彩を欠いた。6月2日の広島戦、1点差の9回裏無死一塁の好機をバント併殺打で潰してしまう。すると翌日、田中秀太と入れ替わりで登録抹消になった。鳴尾浜球場で気落ちしながらバント練習を始めると、岡田二軍監督が声を掛けた。

〈お前は、バント要員やない。バットでレギュラーを獲るんや。そこは間違えるなよ。ただし、バントの練習はいらないというわけやないで〉(※7)

 今岡は嘘をつかず、本音で接する岡田に心を動かされた。

〈普通なら、一軍の監督の顔色をうかがって『お前、バントを人一倍練習しておけよ』というのが建前としての仕事でしょ。岡田さんはそうじゃない。それが本音ということなんです〉(※8)

阪神最終年…野村がポツリ「岡田はえらいな」

 今岡は一軍に復帰するも、7月31日に再び登録抹消に。二軍には打撃投手が少なく、岡田は炎天下で若手打者に毎日600球近くのボールを放っていた。愚直な姿勢は今岡の心を動かした。

「岡田は二軍の試合が終わったら、ピッチャーやバッターの寸評を書いて、毎日野村さんにFAXを送ってたのよ。何をテーマに臨んで、何ができて、何ができなかったのかを事細かにレポートしていた。野村さんは最後の年、『岡田えらいな。的確な資料を送ってくれる』とコーチ会議の時に褒めていた。岡田も野村さんに嫌われていると肌で感じていたと思うよ。でも、腐らずに自分の仕事をちゃんと遂行していた。それが岡田なんよ」

 地道に役割を全うした岡田は野村の後を受け継いだ星野仙一のもとで二軍監督、一軍内野守備走塁コーチを務め、04年から監督に就任した。翌年、今岡は「5番・サード」でプロ野球史上歴代3位の147打点を挙げて優勝に貢献。そして、18年ぶりの歓喜に沸いた今年、リーグ1位の555得点の攻撃陣をサポートしたのも今岡真訪打撃コーチだった。

「今年、岡田監督の指揮で阪神は優勝できたと思う。ただ、監督の考えを理解して、選手とのパイプ役になったコーチ陣の存在も大きかった。(3年連続Bクラスに終わった)オリックスの監督時代には、それが欠けていたんよ」

 阪神時代の野村は、おなじみの“本音コメント”がチームに不協和音をもたらすこともあった。だがこうも言える。あのボヤキが、岡田と今岡の師弟関係を生み、20年以上先のドラマの伏線になった。人生、何が功を奏するかは死ぬまでわからない――。

※1 98年11月26日付/スポーツニッポン
※2 99年1月22日付/スポーツ報知 一連の野村、岡田の発言
※3 99年4月8日付/日刊スポーツ
※4 99年5月5日付/スポーツニッポン
※5 99年6月22日付/読売新聞大阪版 「ノムさん語録」で5月4日の発言を紹介
※6 99年5月5日付/スポーツニッポン
※7 22年7月号/ベースボールマガジン を参照して作成
※8 22年7月号/ベースボールマガジン 

文=岡野誠

photograph by JIJI PRESS