40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第7回(前編・後編)、巨人1年目にして早速“落合効果”が出る。「さすがは落合だ」(ナベツネ)……前年、借金2でセ・リーグ3位に終わったチームを落合博満はどう変えたのか? 【連載第7回の前編/後編も公開中】

◆◆◆

「うまく振り遅れたな」

 1994年4月9日、2本目のホームランを東京ドームの左翼スタンドに放ち、ホームを踏んだ松井秀喜は、ハイタッチを交わす40歳の四番打者・落合博満にそう声をかけられた。大ベテランからの賛辞に、「その通りです」と苦笑いする19歳のスラッガー。ヘッドを遅らせ気味に出して逆方向に運んだ技ありの一打に、松井本人も「練習でもあんなスイングできませんよ」なんて驚いてみせた。10代での開幕戦2本塁打は、1953年の中西太(西鉄)以来の快挙だった。

 前年はリーグワーストのチーム打率.238。この春のオープン戦も6勝12敗、勝率.333と12球団中11位の成績で終えた長嶋巨人のシーズン前の評価は決して高くなかった。だが、春先にオレ流が「野手を代表して宣言します。今年は5点取ります」と宣言した通り、広島との開幕戦では初回から5得点と打線が爆発。背筋痛で調整遅れが心配された松井と、オープン戦を11打席無安打で終えた落合のアベックアーチが飛び出し、11対0と大勝したのだ。

ナベツネが絶賛「さすがは落合だ」

 これには“ナベツネ”こと読売新聞社の渡邉恒雄社長も、「笑いが止まらんよ。云うことなしだ。巨人は錆びついてなかったろ。日本テレビによくいっとけ!」と開幕前にナイター中継の広告コピー「巨人を棄てる。」を巡り、ひと悶着あった日テレを自らネタにしつつご満悦。落合については、「彼は、4月9日をもって人が変わるといってたんだ。直接、オレにだよ。その通りじゃないか。大したもんだよ。さすがは落合だ」と絶賛した。なお、この開幕戦のテレビ視聴率は26.3%。瞬間最高視聴率は39.7%まではね上がり、巨人人気の健在ぶりを印象づけた。

 球団では1987年の西本聖以来の開幕完封勝利をあげた斎藤雅樹は、その7年前は二軍生活中で雀荘から一軍の西本の快投を見ていたという。いまや“平成の大エース”へと駆け上がった背番号11は、愛息の幼稚園初登園日を完封で飾り、「入園祝いはもちろん、ウイニング・ボールですよ」なんて安堵の笑み。計7打点の“MO砲”とともにヒーロー3人揃い踏みのお立ち台に上がり、落合とがっちり握手を交わした。

落合「今日は絶対に完封しろ」

 実は試合終盤の8回表、ふたりはグラウンド上である会話を交わしていた。

 そこまで危なげなく完封ペースで飛ばしていた斎藤が、ワンアウトから広島の西山秀二に三塁打を許す。すでに9対0のワンサイドゲームだったが、落合は開幕戦だからこそできるだけいい勝ち方をしたいと考え、ネット裏の他球団のスコアラーたちに「今年の巨人は違うのだ」という印象を植え付けたかった。すかさず、一塁を守っていた背番号60は動くのだ。

「私は『1点もやらない守備陣形を取りたい』というサインをベンチへ送った。長嶋監督もOKしてくれたので間を取りにマウンドへ向かうと、斎藤は一瞬、驚いた表情を見せたが、『もう勝ちは見えているけれど、今日は絶対に完封しろ』と言葉をかけると笑顔で応えてくれた。そして、後続を二者連続三振に討ち取った。この裏の巨人は2点でダメのダメを押し、11点差で最終回。斎藤は、ツーアウトから連打を許したものの見事に完封をしてくれた」(プロフェッショナル/落合博満/ベースボール・マガジン社)

落合「お前さぁ〜、ビビるんじゃないよぉ」

 個人主義の“オレ流”と呼ばれた男が、チーム全体のことを冷静に観察し、ここぞの場面で投手に声をかける。昨季まで巨人の天敵として君臨していた、三冠王3度の大打者の言葉は重みが違った。斎藤とともに強力三本柱を形成した槙原寛己も、ロッカールームの落合のマイペースぶりとは裏腹に、いざ試合となればチームバッティングに徹する姿と、抜群のタイミングで投手に声をかけてくれる心遣いに驚いたという。

「落合さんは、(中日時代)ボクを苦手としていた(らしい)こともあり、こんな風に言ってくれるんです。

『お前さぁ〜、あんないい球投げるんだから、ビビるんじゃないよぉ』

 嬉しかったですね。試合が終わってからは、“オレ流”らしく、褒められたことも。

『マキぃ、今日のお前の球は、俺でも打てねえや』

 そう言ってシャイに笑うんです。どちらかと言うと、仲間に対しては褒め上手な方かもしれません」(プロ野球 視聴率48.8%のベンチ裏/槙原寛己/ポプラ社)

“甲子園アイドル”がじっと見つめた落合

 中日時代にマスコミで確執も報じられた星野仙一いわく、「あいつは照れ屋なのよ。ものすごくシャイな部分と横柄な部分が同居している」と評す落合の生き方は、ときに組織や上司とぶつかり誤解や衝突を生んだが、後輩たちには頼もしい存在だった。

 数カ月前、落合の加入について聞かれ、「ボクのほうから教えを聞きにいくことはない」なんて若さと対抗心を露わにしていた松井ですら、開幕後に週刊ベースボール誌上で「落合さんが打線に入ったことで、自分たちにもできそうな気になった。頼る、というわけではないけど心強いし、存在感がありますから」と“落合効果”を口にするほどだった。

 そんな、グラウンド上の現場監督のような存在感を放つ、背番号60をベンチからじっと観察するひとりの若手選手がいた。当時プロ4年目の元木大介である。90年のドラフト1位で1浪の末に悲願の巨人入りを果たした元木だったが、故障がちで94年も左足首の捻挫で出遅れ、一軍昇格は開幕から約1週間が経った4月15日のことだった。

 長年のチームの顔・原辰徳こそ左アキレス腱の部分断裂で二軍調整中も、川相昌弘、岡崎郁、篠塚和典らベテラン内野陣が健在で、シーズン序盤の元木は途中出場がほとんどだったが、甘いマスクの“甲子園のアイドル”というイメージとは裏腹に相手バッテリーの特徴や投手のクセを見抜く観察眼に長けていた。多くの控え選手がベンチから試合を見たが、同じ光景を眺めてもそこから何かヒントを掴む選手と、漠然と時間を過ごしてしまう選手がいる。それが一種の“野球センス”の有無とも言えるわけだが、元木はすぐあることに気がつく。

 試合を左右する重要な場面になると、決まって絶妙なタイミングで落合がマウンド上の投手に声をかけるのだ。ここは本当にピッチャーが苦しんでいると思った矢先、気がつけばゆっくりと一塁から背番号60が歩き出している。

「落合さん、マウンドへ行くときはファーストからいつもノソノソ歩いて行く。最初は『走って行ってよ』とか思いながらベンチで見ていましたけど、考えたらそれが絶妙な“間”なんですよ。ヤバイなって思う時にスーッと歩いていって何かモソモソ言って、グラブでケツ叩いてフーッと戻って来るんです。(中略)あの行くタイミング、間というのは、これだって思って勉強しました」(長嶋巨人 ベンチの中の人間学/元木大介・二宮清純/廣済堂新書)

落合「お前ら余計なこと考えてるから…」

 あえて、投手に何を言ったのか聞くようなことはしなかったが、ベンチでは臆することなく落合の隣に座り、打撃のアドバイスを貰うこともあった。

 手とり足とりではなく、例えば中日の左腕エース今中慎二に手こずっていると、ボソボソッと「お前らカーブのこととか余計なことを考えているからまっすぐを打ち損じるんだろ。まっすぐ一本に絞っときゃいいじゃん」と要点とヒントだけを伝えてくる。そんなオレ流のアドバイスを自分のモノにできるセンスと技術が、元木にはあった。マネージャーが決める遠征の新幹線もなぜか隣の席で、大先輩のバット、ヘルメットの準備や移動中の雑誌の用意まで世話係のようなことをやらされることに時に閉口もしたが、プロとしてしっかりと盗むべき技術は自分のモノにする。

 この94年シーズン、元木は落合のプレーを目で追うようになり、やがて長嶋監督から“クセ者”と重宝されることになるのだが、それはもう少し先のことであった。

<続く>

文=中溝康隆

photograph by Asahi Shimbun