40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第7回(前編・後編)、巨人1年目(1994年)にして早速“落合効果”が出る。「さすがは落合だ」(ナベツネ)……前年、借金2でセ・リーグ3位に終わったチームを落合博満はどう変えたのか?【連載第7回の後編/前編も公開中】

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まさか…長嶋監督から真夜中の電話

 広島に開幕2連勝の絶好のスタートを切った長嶋巨人は、前年10勝16敗と苦手にしていたベイスターズの本拠地・横浜スタジアムに乗り込む。迎えた初戦、昨年7敗を喫した野村弘樹から、落合博満は第1打席でいきなり2号アーチを放って天敵をKOすることに成功。しかし、オフに横浜から巨人に加入して守備固めでセンターに入っていた屋鋪要が、同点に追いつき迎えた9回裏にロバート・ローズの打ち上げた左中間へのフライを捕球できず、サヨナラ負けを喫してしまう。強風と雨に流され、記録上は二塁打だったが、ベテラン屋鋪にとっては古巣相手の屈辱の落球である。シーズン前に、“5点打線”に加え、僅差の終盤に守りのスペシャリストを起用して守りきる、“アメフト野球”を標榜していた長嶋監督にとってもショックの大きい敗戦だった。その夜、悔しさで帰宅後も眠れずにいた屋鋪家の電話が鳴る。

「ああ屋鋪、きょうはご苦労さん。別に用事ではないんだけど、いやな思いをしていると気の毒だと思って電話したんだ。あのローズのフライ、あんなのは君が捕れなければ、誰も捕れないんだ。あんなコンディションのなかで野球をやること自体が間違いで、君のミスでもなんでもない。きょうはゆっくり休んで、またあす頑張ってくれ」(わが友 長嶋茂雄/深澤弘/徳間書店)

 なんと長嶋監督から直々の真夜中の激励電話だった。前年オフに駒田徳広が「監督とはほとんど会話すらできなかった」とFAで巨人を去ったが、その反省もあり、1994年のミスターは選手たちとの距離を縮めるように自ら意識改革していたのだ。あの天下の長嶋茂雄が、自分たちのために変わろうとしている。その事実は、思いがけぬ電話に救われた屋鋪だけでなく、ナインの背中を後押しした。チームは痛恨の敗戦を引きずることなく、翌日から苦手の横浜相手に連勝を飾るのである。

“じつはボロボロだった”落合の身体

「帰れ! この裏切り者」

 4月19日、ナゴヤ球場のスタンドからそんなヤジが背番号60に向かって飛んだ。

 巨人移籍後、初めて古巣の本拠地に登場した落合は、第2打席で左翼席中段に挨拶代わりの4号ソロを叩き込む。打たれた山本昌も「敵に回すと恐ろしいバッターですよ」と脱帽する一発を放ち、翌20日には自分の守備のミスから動揺する先発の桑田真澄にすかさず一塁から近づき、「なにをそんなにカッカしてんの?」と声をかけた。

 だが、落合のバットは次第に湿りだす。実は開幕直後から左ふくらはぎの古傷に加え、アキレス腱もかなり腫れており、普通なら欠場してもおかしくない状態だった。追い打ちをかけるように20日の中日戦の守備中、一塁に走り込んできた種田仁と激突。右のワキ腹を強打してしまう。試合には出続けたが、「バットがまともに振れない」という重症でこの日から6試合、自己ワーストの28打席連続ノーヒットのスランプ。だが、その不振の間も落合は10個の四死球を選び、犠牲フライを一本打った。

「落合さんを見ると“休ませて”なんて言えない」

「見ていて、かなりシンドいのは分かるんです。でも、そのなかでキッチリとボールを見極めて、フォアボールを選び抜いている。出塁率を見てくださいよ。落合があそこ(四番)にいる意味は、それで十分といえますよ」(週刊ベースボール1994年5月30日号)

 長嶋監督は傷だらけの四番をそう称えたが、攻守に存在が大きすぎてなかなか休ませることもできなかった。さらに27日の広島戦で、長冨浩志から左背中に死球を受けて悶絶。しばらくコルセットを着け、その後もテーピングを巻いて打席に立ち続ける。「どうだ、何試合か休んで、体を戻してから、また試合に出たら」とさすがにミスターも欠場を勧めたが、落合は頑なに休もうとしなかった。世間の“ワガママ”というイメージとはあまりにかけ離れたその姿に同僚の篠塚は、「落合さんを見ていると、自分がちょっと体調が悪いから休ませてくれなんて言えない」と呟いたという。

「三冠王を狙う」をやめた事情

 三冠王獲得を公言し、打撃タイトルを獲り続けることで己の存在価値を証明してきたあの個人主義者のオレ流が、打率2割2分台にまで落ち込んでも、愚直に四球を選び続ける。少年時代から長嶋茂雄に死にたいくらいに憧れた男は、巨人移籍の際にひとつの誓いを立てていたのだ。

「40歳を目前にしての大きな決断だったが、巨人の監督だった長嶋茂雄さんがOBや世論の向かい風を受けながらも声をかけてくださり、私に新たな道を開いてくれた。(中略)それと同時に、これまで信念として貫いてきた三冠王を狙うという大前提を頭の中から外した。現役16年目にして初めて長嶋茂雄のために戦うことにしたのである」(野球人/落合博満/ベースボール・マガジン社)

 マッサージの時間も1時間、1時間半と日に日に延び、体の負担を減らそうとマイカー通勤ではなく、ハイヤーと年間契約を交わしていたが、車に乗る際に右ワキをかがめると激痛が走るので、常に左側のドアを利用するほどだった。遠征先のホテルでも外出はせず、部屋でひたすら泥のように眠り疲労回復に努めた。

信子夫人「落合だって怒ってるわよ」

 チームは4月を13勝6敗の首位で終え、月間MVPには松井が選出される。落合も打率こそ低かったが、打点はリーグトップを争っていた。「入団のとき、現場が必要だと言ってるのに関係ないOBがしゃしゃり出てジャマしたから、落合だって怒ってるわよ。だから意地を見せなきゃならないでしょ」(週刊宝石94年6月2日号)と信子夫人は明かしたが、その獲得に否定的だったOBや野球評論家たちも“落合効果”を認めざるを得ない快進撃である。

 野球人気低迷が囁かれた巨人戦ナイター中継のテレビ視聴率は、Jリーグ中継を大きく上回る連日20%超えを記録。読売新聞社の渡邉恒雄社長も「あんまり勝ちすぎると、今度はお客さんが来なくなる。スリルがなくなるし、ほどほどでいいよ」なんて余裕の勝利宣言だ。

 すべては順調なように思えた1994年春の長嶋巨人だが、大黒柱の落合博満の肉体は、すでに周囲が思う以上にボロボロだった。迎えた5月、満身創痍の40歳に対する各球団の内角攻めはさらに厳しさを増していく。落合さえ潰せば、巨人は止まる。背番号60は、開幕1カ月にして正念場を迎えていた――。

<前編《甲子園アイドルの告白》編から続く> ※次回掲載は11月26日(日)予定です(月2回連載)。

文=中溝康隆

photograph by BUNGEISHUNJU