40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第8回(前編・後編)、巨人1年目落合博満40歳の体は死球によって、ますますボロボロになる。そして野村ヤクルトとの“大乱闘の夜”を迎える。【連載第8回の前編/後編も公開中】

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死球、死球…40歳落合博満の体はボロボロだった

「オレがつぶれたら2人の人間がダメになってしまう。130試合出るつもりじゃなくて、出るんだ。そういう気構えじゃないと、気持ちが切れるから」(週刊ベースボール1994年5月30日号)

 1994年5月7日の中日戦(東京ドーム)、6号ソロアーチを放ち、リーグ単独トップの21打点目を記録した落合博満は、チームがサヨナラ勝ちを飾った直後、報道陣の前でそうポツリと口にした。普段は「調子が上がってきたって? ごまかしだよ」なんてうそぶく男が漏らした本音。ここで言う、“2人の人間”とは、自身と長嶋茂雄監督のことである。

 4月下旬に死球を受けた背中に近い左わき腹の痛みは長引き、この日も中日の小島弘務から右肩にぶつけられていた。ボロボロの体で満足にバットを振れる状態ではなかった。しかし憧れの長嶋監督から、「お前の生き様を、ウチの若い選手に見せてやってくれ」と口説かれて巨人入団を決めた落合は、四番打者としての全試合出場を自らに課していたのだ。

「四番というのは、すべてに責任を負う打者ということだ。エースと四番というのは、そこが他の選手とは違うところなんだよ。(中略)巨人の四番というのはな、オレのイメージではやっぱり全日本の四番なんだ。日本中の野球をやってるヤツが集まって、ベストのチームを作ったときに、その四番に座るのが巨人の四番なんだよ。長嶋さんが、監督がそうだったじゃないか」(週刊ベースボール1994年5月30日号)

信子夫人「休んだら、またぶつけられるよ」

 その己の仕事に対する強烈なこだわりの一方で、自著『激闘と挑戦』では「どこのチームの四番であっても、四番は四番なんだよ。もし、ロッテや中日で四番を打っていた時と今とで意識の違いがあったとしたら、オレは今ごろこういう地位にはついてないよ」とクールに書くオレ流の二面性。照れ屋であり、ときに自信家。リアリストであり、ときにロマンチスト。冷静と情熱の狭間に、選手・落合は存在した。

 ただひとつ確かだったのは、結果的にFAでの巨人移籍時にあれだけ球団OBたちから批判された落合が、皮肉にもその「巨人の四番」という消えかけた伝統を守ろうとしていた事実である。大量リードの試合で、長嶋監督から途中交代を勧められても「監督、まだ早いですよ。ゲームはまだわかりませんよ」と断り、グラウンドに立ち続ける背番号60。「週刊文春」の人気コーナー「阿川佐和子のこの人に会いたい」のゲストに呼ばれた信子夫人は、そんな夫の心境をこう代弁している。

「落合はFA宣言して巨人に入ったけど、その間、OBの方やマスコミに『落合なんか取ったって意味がない』とか『なぜ四十男なんか取るんだ』とか、わんわん言われたでしょう。だから、本人には『落合一人で底上げなんかてきるかって批判食っているんだから、休むわけにはいかないのよ。あんたは一年契約で巨人の助っ人。それに、ぶつけられて引っ込めば、また、ぶつけられるよ』って言ったのね」(週刊文春1994年6月9日号)

 プロとして、痛みをみせることは、弱みをみせることでもある。治療後、トレーナー室から出るときは、テーピングの上からアンダーシャツをしっかり着て、あえてマッサージを受けただけという顔で歩いた。

 開幕ダッシュに成功した首位・巨人に対する、各チームの攻めは厳しさを増していた。落合の前を打つ三番の松井秀喜も4月16日のヤクルト戦で執拗に内角を突かれ、「あと5ミリずれていたら、間違いなく骨折していた」(萩原宏之チーフトレーナー)という右手直撃の死球を受けた。5月中旬、その死球を巡り、長嶋巨人は宿敵の野村ヤクルトとひと騒動起こすことになる。

ジャブ、右アッパー…大乱闘で“指2本骨折”

 1994年5月11日、神宮球場でのヤクルト対巨人戦は荒れた。2回表にヤクルトの西村龍次が投じた速球が、打席の村田真一の側頭部を直撃。ヘルメットにヒビが入る衝撃だったが、村田は一度立ち上がりマウンドへ向かおうとするも、その場に昏倒して担架で運び出される。ヤクルトは攻守の要、キャッチャーの古田敦也が故障離脱中で、苦しい戦いの続く野村克也監督は「巨人が独走しているのは、(正捕手の)村田がよくなったから。村田をつぶせば勝てる」と戦前に発言していた。

 球場は騒然となり、今度は3回裏に巨人の木田優夫が打席に入った西村の尻にぶつけ返し、怒りのノムさんが球審に抗議。両軍ヒートアップして迎えた7回表、再び西村がダン・グラッデンの顔面付近にブラッシュボールを投げてしまう。右打席でヘルメットを吹っ飛ばしながら避けるも、この一球で“カリフォルニアの暴れ馬”と呼ばれた元大リーガーの怒りに火が付いた。

 マウンド上の西村を威嚇した直後、止めに入った捕手・中西親志にジャブからの右アッパーを食らわせ両軍入り乱れて揉みくちゃの殴り合いに。結局、グラッデン 、西村、中西と当事者は全員退場処分。派手に立ち回った36歳の一番打者は出場停止処分12日間と同時に右手親指と左手小指を骨折して長期戦線離脱という、あまりに大きな代償を払った。後日、セ・リーグのアグリーメントが現代まで続く「頭部顔面死球があれば、投手は即退場」と改められたわけだが、グラッデンはメジャー時代にもチームメイトと取っ組み合いの喧嘩をして指を骨折している気性の荒いファイターで、来日直後に前年から続く両チームの死球合戦を聞かされていたのだ。

 試合後の興奮気味な長嶋監督は「目には目ですよ!」と過激なコメントを残したが、7回の乱闘では珍しく落合もその輪の中心に駆け寄り、ヤクルトの選手を集団から引きはがした様子がフジテレビのナイター中継で映され、「落合も怒っています!」 と実況アナウンサーは伝えた。強打者に死球はつきものだが、落合はこの騒動について、のちに自著でこう書いている。

「同じデッドボールでも、狙ったデッドボールとたまたま手元が狂ったデッドボールの、やっぱふた通りあるんだよ。(中略)経緯は別にして、ピッチャーが投げてくるときの目線で故意か過失か判断できる。マスコミの『遺恨』でどうこうという見方はちょっと当てはまらないわけだよ」(激闘と挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)

そして“福岡での大記録”が生まれる

 なお、3回に木田が西村に死球を与え、野村監督が執拗に抗議している間、巨人の内野陣はマウンド付近に集まっていたが、一塁手の落合だけはひとりホームベース付近まで前に出て、抗議の様子を険しい顔でじっと見つめていた。まるで、一塁側ヤクルトベンチに対して、「オレは一歩も引かないよ」というファイティングポーズを取り、同僚ナインを鼓舞しているようでもあった。

 実は当時、おとなしい選手の多い巨人は、乱闘騒ぎがあると途端に萎縮して試合に負けると指摘されていた。

 この11日の乱戦も落とし、警告試合となった翌日こそエース斎藤雅樹の力投で両リーグを通じて20勝一番乗りも、13日の横浜戦では15失点の大敗。そこから3試合続けての一桁安打でシーズン初の3連敗を喫した。投手陣は外角一辺倒のピッチングを痛打され、打者は内角を意識するあまりスイングを崩す悪循環。「木田、橋本ほか長嶋巨人は“危険球ノイローゼ”に罹っている!?」(週刊ポスト1994年6月3日号)と揶揄する声もあがり、春先から目いっぱい飛ばした巨人は“5月病”の息切れを囁かれた。

 こんな時こそ、なんとかチームの雰囲気を変えるきっかけが欲しい。その最中の、15日に横浜戦の先発マウンドへ上がった槙原寛己は、最速148キロと直球が走り、絶好調のピッチングを披露するも、試合は3回途中で雨天中止に。やはり今の巨人にはツキがないのか……。結局、槙原は中2日で九州遠征の広島戦に先発することが決まる。

 今思えば、この横浜の雨が、1994年5月18日の福岡での大記録に繋がっていくのである。

<続く>

文=中溝康隆

photograph by KYODO